四十六話 声

 声は洞窟の奥からした。


(和くんだ……!)


 月乃は安堵して頬を緩めると、そちらへ視線を向ける。

 どうやら洞窟の中は、これまで散々見てきた石の門を挟んだ奥が急な段差になっているようで、自分たちが立つ場所が崖の上だとすれば、和の声は未だ確認していない下方から聞こえてくる。


 もしかして和は、下の状況を確認しようとして降りたものの怪我をして上がってこられなくなったのかもしれないと月乃は考えた。


(でも、無事でよかった……!)


 そんな気持ちを隠さず、月乃は返事をしようとしたのだが、伸びてきた手に口を塞がれた。


「!?」


 驚いて視線を向ければ祭が笑顔で人差し指を立てて自分の唇にあてている。

 藤原も青い顔で口を引き結び、月乃に向かって無言で首を横に振る。


(これって……返事をするなってこと……?)


 どうして、と疑問を抱いたのは一瞬。

 藤原がすぐに返事をしなかったこと、そして自分たちの姿を見てようやく「本物か」と安堵した様子を思い返し……――もしかして、と月乃もまた顔を青くした。


(和くんの声だけど……和くんじゃ、ない?)


 よく考えれば、違和感がある。藤原と話すまで和が無反応だったなんて変だ。

 月乃の声が聞こえたのなら、すぐに反応したはず。ましてや藤原も、和が近くにいるのなら言葉を濁すなんて不自然だ。


 だとすれば、今、和の声で割って入ったきたのは誰――いや、なんなのか。


「いないのか?」


 和の声が、頼りなげに揺れる。こんな風に不安そうな声は、聞いたことがない。


「なぁ、いないのか?」


 ぴちゃり。

 水の音がした。

 びちゃり。

 今度はより激しく。


「なぁってば」


 びじゃん! ぬじゅり……――。


 水の跳ねる音の後、間を置いて粘着音。

 変貌していた筧を思い出し震える月乃は、悲鳴を押し殺すように歯を食いしばる。


 ぬちゅ、びちゃ、めぢゃ。


 粘つく水音が、近づいてくる。上へ上へと移動してきている。


「いナいの? かぁ? イル、で、しょ? でしょ? で、デ、ショ」


 和の声だったものが、変わる。

 何重にも重なって聞こえる、不気味な声が意味のない言葉を並べる。


「で、ででで、だ、だ、だだ、出せ――出せ、俺をここから出せ! 出してくれ! 誰か、いるんだろう!」


 ただのノイズが、再び明確な意味を持つ声に変わる。

 切羽詰まった叫びから必死な様子が伝わってくる、この声の主は――。


(筧さんの声……!)

 

 ここに来るまでにくぐった石の門。その途中で遭遇した男が月乃の脳裏をよぎると同時に確信した――この声は偽物だと。

 三人とも一言も発さず黙っていると、声はまた変わる。


「だ、せ、だ、た、たたっ、た、す……助けて……!」


 藤原の声だった。


「助けてくれ、頼む!」

 

 目を丸くして月乃が当人を見れば、藤原は青い顔で石の門を凝視していた。その間に、声と粘つく音がだんだんと近づいてくる。


 ――びたんっ

 

 最初に見えたのは、ヒレだった。

 岩肌に叩きつけられた拍子に周囲にびちゃびちゃと黒い雫が飛び散る。

 それから、今までとは違い、聞いたことのない……ずいぶんとあどけない声が呼びかけてきた。


「いなぁいのぉ?」


 ぬちゃりと、ぬめり気のある音を立てながら崖からぬぅっとのぞいた顔は――。


「――っ」


 かろうじて、人の頭の形だと分かった。だが、頭頂部はコブができたかのようにあちこち不自然にふくらんでおり、まるでひとつの大きな頭にいくつもの小さな頭部が生えているようだ。

 目は左右が大きく離れて側頭部についている。その両目の端からはぼたぼたと黒い液体が流れており、その液体が伝う肌には鱗がびっしり生えていた。


「だぁれもいなぁいのぉ?」


 口と思わしき部分は小さかった。おちょぼ口から発されるあどけない声。姿さえ見なければ、迷子の子どもがいるのだと錯覚してしまうだろう。


「なぁいのぉぉ……」


 両脇の目はほとんど見えていないのか、誰も声を発さないでいるとソレはしょんぼりとした声音で呟いて、後ろに頭を傾けた。

 ずるりっとヒレが下ろされたかと思うと一瞬で姿が消え、ぼちゃんっと大きな水音が響く。


 それからまた、なんの音も聞こえない静けさが戻ってきた。

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