2023年度・九州大学文藝部・新入生号『タイトルコール』

九大文芸部

タイトルコール 作:F=kd

1.彼女が最近うとうとしていると気づいたのは、まぎれもなくその好意からであるのは間違いなかったが、そのせいで最近は部活動が眠くなってくる。実にうっとうしいものだ。しかし、やはり、彼女のほうを見つめてしまう。五時間目の現代文の授業は彼女のおかげで大変つまらない授業からとても楽しい授業に変わっていた。学生として、二年の九月の五時間目というのがとてもつまらないものだというのは皆さんもその経験からわかると思う。もちろん先生もそれをわかっているのか、はたまたこの時期のせいなのかは知らないが、あまり注意をしない。周りを見渡すと、きちんと授業を受けようとしている人も十二、三人ほどいるが、そのほかの生徒たちは周りをきょろきょろしたり、別の授業の課題をやっていたりと、このありさまだ。以前先生が言っていたことが頭に浮かぶ。「現代文の授業では横書きをすることがないから、ペンの進む向きが違っている奴は全員他教科の勉強をしていると一目でわかってしまう」って。この注意を受けて、縦書きで英語の宿題を始めるという猛者が現れたのだが、実際に効率的なのかどうかは知らない。そこまでして、授業中にするんだったらいい加減家でやってくればいいのにと思ってしまう。そうすれば、今までの僕みたいに授業中はうとうとしながらその集中力を休ませることで活力を温存させることができて、午後からもしっかり騒げるのにとも思ったりする。

 さて、授業中に寝ている人がそのおよそ半分を占めるが、そのうちの一人に彼女の存在があった。目を開けようと必死に頑張っていたが、やがて、目をつむった。そこからずっと、僕が視線を送っても全く動かないというか、動いていないから死んでいるのではないかとかそういうわけではないが、とにかく自分の視線を絶対に感じないであろう状態になっている。

 前から好意があった、と言われればそうだったかもしれない。凛としたその姿から、全く以ってイメージ通りの優等生。学業もさることながら演劇部としての側面も持つ。そのうえ、顔立ちが僕好みということもあった。いったい、彼女がどんな演劇をするんだろうと妄想を膨らませたりもした。別に特段かかわりを持ったわけではなかったが、席替え前の化学の時間で一緒にグループ活動をしたとき、何だか勝手に、体が熱くなり、手が震えてきた。緊張をしていたのだ。こちら側の変(?)な気持ちが相手にばれるとちょっと微妙な空気になりそうだから、積極的にはいけなかったが、うまい具合に、お互いに話し合った。もちろん、原子として、最外殻の電子殻が完全に満たされていないときにその原子は不安定な状態であるから共有結合やイオンに変化をしたりしてその安定性を保っていることは、受験勉強期の僕が知ることになるので、この時の話し合いはうなずくだけで終わってしまった。もっと予習をしておけばかっこよく話せたのにと思ったが、彼女とグループ活動をすることそのものが予想外のことだったわけだ。しかし、その時の彼女もやっぱり明瞭にすらすらとその話をグループ内で披露し、拍手が巻き起こったのは言うまでもない。何も考えずに理系に進んだ結果、そこがいばらの道であったということに気づいても後戻りができないわけだが、まあ、彼女に出会えたというだけでも理系を選んで正解だったかもしれない。文理選択なんてそんなものだと思っている。その時が、初めてしっかりと彼女と会話した時だった。

 それからというもの、ずっと彼女のことを気にかけていた。なんてことない、今までが雲の上の存在だと思っていた人とようやく接触したのだ。気になるのは当然のことだと思う。別にあら捜しをしていたわけではないけれども、成績優秀で予習も復習も完璧。おまけに、部活動にも取り組んでいてなおかつ、その端麗な顔立ち。どこかに欠点があるはずというお決まりのことなんかを思いながら、気がつけば、ずっと目で追っていることになったのだ。この前も、彼女が先生に授業中に指名されると、ちょっと胸がドキリとしてその透き通った顔に心配と期待の視線を送るが、結局完璧な回答で先生を満足させる。本当に才色兼備で非の打ちどころのない完璧な人のように思える。

 そんな彼女、犬塚羽女いぬつかいぶきが授業中にまどろみの中にいるのは、間違いなく今週の金曜日に控える文化発表会の準備のせいだと確信している。彼女は演劇部の中でもエース的な存在だろう。一年の時には、生憎、クラスが違っていたので、存在自体は知っていたのだが詳しくは知らなかった。ただ、頭脳明晰であるという噂はどこかで聞いたことがあった。去年の文化発表会を思い出してみても、全く彼女の記憶はなかったので、実力とかそういうものは全く知らないのだが、とにかく、部活動に一生懸命に取り組んでいそうだという印象が先走っていた。今までの授業だったりテストの成績を見る限りでは、何事にも一生懸命に取り組んでいそうだ。勉強以外の一面を考えるだけでも、彼女は本当に魅力的に見えるんだろうという妄想が広がってしまう。ステージの上で演技する彼女の姿を思い浮かべてみたりする。きっと今週に控える文化発表会にむけて、最後の追い込みで疲れているんだろうな、と思った。文化発表会は例年十月のあたまに開催されていて、文化部が全校生徒を前にその部活動の成果を示すのだが、これは受験の関係上、三年生は発表側として参加できないことになっている。つまり、演劇部の彼女にとっても最後の全校生徒の前での舞台となる。

 なにやら、先生が大きな声でしゃべりだした。起きろというサインだろう。どちらにしても、起きない人はそれでも起きないし、授業なんて受けたい人が受けるものだと考えていたのでどうでもよかったが、どうやら彼女はこちらの世界に戻ってきたようだ。視線を感じられないようにそっと黒板に目を移す。先生が言うには、「つまり」がキラキラワードらしい。「つまり」の後には言い換え表現だったり、簡潔にまとめた表現がのちに続くということが言えるそうだ。つまり、テストで傍線部の近くに「つまり」があれば、そのあとに続く文字列の中からキーワードを見つけ出すことで、選択肢の中から一番近しいものを選ぶことができるようになるらしいということだ。これを知っているのと知っていないのでは論述文を読むための時間に差が生まれ、合否を分けるのだ! と豪語していたが、実際本番でこの知識が頭に残っていたかは全く持って覚えていない。無意識的にその知識がついていたのかもしれないが、まあ、とにかく、そんなに重要ではないと思われる。それと、なんだか文字で書くとゲシュタルト崩壊して「つまり」がどんな意味なのか分からなくなってくるが、そんなに重要じゃないのでこれも安心してほしい。

 しばらくしてまた彼女の方をちらりと見ると、その睡魔に引き込まれまいと必死に戦っていた。なんだか、ほほえましかった。やっぱり目を離さずにはいられない。まだ体は微熱を持ったまま、しかし、ようやくしっかりと黒板の方を見る。すると目は開けていたはずなのに記憶のない文字列が並んでいる。それを急いで書き写しておくのが起きている者の使命だ。授業ノートは良い取引道具になる。授業は本当に楽しくなってきたところだ。この素晴らしい時間を睡眠に使っていたなんて、僕は今までかなり損をしてきた気がする。彼女、犬塚羽女の意外な一面を見ることもできるし、授業ノートを友人に見せて交渉することもできる一石二鳥のこの時間を。



2.いつまで言ってても解決しないのはわかっていたが、それでも悔しかった。もう二か月前にもなるらしいが、夏休みの初期に台本が出来上がった。八月のあたま、ギラギラと私たちを照らしていた太陽がかすかに記憶に残っている。九時半という意外と朝早めの時間だったのに、部室につく頃には汗が噴き出ていた。汗が噴き出ていてあまり楽しい気持ちではなかった。なんと、今回の原作は同級生の水田みずたさんが作ってきた。われらが演劇部の誇れる作家である。その台本は、地下帝国に連れ去られた女王様とそれを追いかける王子様がその愛の力から二人が陥った絶望的状況を何とかして、ハッピーエンドで終わるというものだった。とりあえずは、これから先の情報はまだ教えることができない。発表会まで楽しみにしていてほしい。要するに、台本が出来上がればそれだけ「役」が存在するわけで、当然のことだけど、主役、悪役、脇役まで様々な役が決められていった。ここでも、今回は原作者である水田さん本人がヒール役を担ってくれるみたいでこれまた度肝を抜かされることになる。ヒール役といえばいわば悪役で、物語の主役にはなれないけれどその物語を作るうえで最も重要な役の一つであると言える。その分演技力が重要になってくるけれども、水田さんが言うにはこの物語で一番わかりづらい考え方をしているのは悪役だという。だからこそ、自分自身がすることが一番適していると言い放ったので、もちろん、誰も反論することはできない。悪役は水田さんで決定だ。

 一番は主役の決定が大事だろうと思う。というか私は主役の座を狙っていた一人だ。演劇部に興味をもって入部を決めた一番の理由はその演劇の世界で活躍している人たちに憧憬の念を持ったから。だから、私が一年の文化発表会の時に小道具役としてステージ上を歩き回ったのはいい思い出になったわけだ。

 明るいステージとは対照的に暗い客席。そこには見知った顔、知らない顔も様々だったけどみんながそのステージにくぎ付けになっていたことは舞台袖からでも確認できた。そこで、台本に書いてある以上の演技を目の当たりにし、私も演劇部として驚かされた。はかない気持ち、そう言葉にできない気持ち。頭ではわかっていてもそれを言語化することができないような不思議な気持ち。そんな気持ちにさせるような先輩方の演技、かっこいい、そう思った。もちろん私の担当部署の小道具としての動きは完璧だったと思う。舞台袖に一緒にいた先輩もせっせと動きながら小道具を準備する。暗転したわずかな時間で、できるだけ少ない時間で、進行に迷惑がかからないよう舞台をコーディネートすることはとてもやりがいを感じた。でも、やっぱり思っている演劇ではない。感動的なシーンの裏で、舞台袖で次のフィナーレに向けて蝶々の小道具を準備するという去年の役回りが、私の目指していた、なりたかった未来の姿ではない。感動シーンでその演技をして、たくさんの人に演劇ってすごいって思わせて、あの劇の主役だった人だってみんなから呼ばれたいんだ。絶対に舞台に立って、みんなから盛大な拍手をもらって、その名を学校中にとどろかせるんだ。こういうわけで、来年こそはきっと主役を張ってステージ上で演技をしてやるって決めたのだった。

 一応、台本をもらった次の日だったのだが、この日も太陽がギラギラ光っていたような気がする。汗でべたついた制服を着たまま冷房がしっかりと効いている2―4教室に入った覚えがかすかにある。早速始まった役決め会議は、悪役(№2の役)を除く、四人の主要人物に関する役決めだった。ストーリー進行で重要な役目を担うその五人は覚えることが非常に多い。したがって、早めに決めておくことはこれから行っていく練習、例えば、台本の改変、その他脇役の配置などでとても重要になってくる。例年、夏休みが終わるころにはこの合計五人で、大体の流しができるようになっていると御の字というわけだ。

 事態がそんなにうまくいかないことは想定通りだった。私が主役を張ると主張してもほかの二年が主役をやりたいと立候補してくるのは明白だったのだ。去年の発表会で№3の役に抜擢された副部長は、周囲からの人望の厚さから副部長という地位にたどり着けたのもあるし、もちろん、その演技力もピカイチでその演技力に勝てる人はいないのではないかと言われていたのも信頼を得ている一つの点だ。この副部長と戦わないといけないということはかなり前から、言ってしまえば、去年憧れの感情を抱いた瞬間からわかっていたことだけど、こんなところで信念を曲げたくないというのが当時の私の気持ちだった。

 立候補者は次々に出てきた。総勢三十人ほどの井ノ山学園演劇部はすべての部員がどんな役にでも立候補できるようになっている。だから、主役に新入りが立候補してくることもあるけれど、結局立候補がある程度済んだ後に短い課題が与えられ、その演技を考慮しつつ、普段の演技だったり、学年の違いだったり、仲の良さだったりで判断される。一応、部の認識としては実力主義らしい。そしてもちろん予想通り、№1の座を狙いに来た私以外のただ一人の人物はあの副部長だった。どちらかというと部のみんなは、圧倒的副部長に反旗を翻した唯一の人物がこの私、犬塚羽女という認識だったとは思う。さあ、下剋上の時間だと勝手に一人で意気込んだ。



3.熱でもあるんじゃないかと言われて、やっと正気を取り戻した。今日は少しついてない気がする。せっかく部活が休みなのに、土砂降りの雨のせいで外に遊びに行くこともできない。それこそ、水曜日にふさわしいのかもしれないが、そんな冗談は今はいらない。そして僕にとって過去最大級についていないと思ったことはこの時間に犬塚さんが来ていないことだった。

 この時間といっても授業が始まっているというわけではない。いわゆる、朝課外と言われる井ノ山学園に伝わる謎の風習だ。朝礼自体は朝九時に始まり、その時間に着席していれば遅刻扱いにならないのだが、朝礼の前にみんなで勉強をしようという時間が設けられている。井ノ山学園の教職員は口をそろえて、この地方じゃ一番の国立九都大学に進学した先輩たちは毎日この授業に出席していたとか、数年前はあの帝都大学に進学した人も毎日この制度を利用していたとか言って、僕たちにうるさく指導する。それはその人に勉強の才能があったからだろと言いたくもなるが、一生懸命勉強しているあの犬塚さんが勉強の才能があったからあれだけ勉強ができているのかといわれたら、ちょっとうなずけない気がしてきた。間違いなくと断言できるかどうかは微妙だけど、あんなにきれいなノートでなんでも完ぺきにこなす彼女は絶対に努力を惜しまない人だと思う。家でもずっと勉強してるわけではないだろうけど、しっかりと勉強時間を確保して完璧に物事をこなしているんだろうなって。そんな人たちのことを才能という薄っぺらい言葉で評価するのは少し違う気がしてきた。それでも、ノートもろくにとらずに授業中は寝たりゲームをしたり落書きをしたりしてめちゃくちゃ注意され、挙句の果てには卒業単位すら怪しかった奴が、渡米するとか言ってアメリカの大学入試を受けたのは衝撃だった。こいつには才能があるのかもしれない。とにかく、この朝課外の時間帯に犬塚さんが来ていないのは大問題だ。毎日欠かさず来ているはずだ。少なくとも僕が彼女を認識し始めてからはずっと、彼女はこの時間に来ていた。

 不安感が高まっていったのは言うまでもない。土砂降りの雨の中一人で登校しているときにスリップして転んでしまったんじゃないかとか、実はとても重い病気にかかってしまって、もう学校にはこれなくなってしまったんじゃないかとか、彼女は高校生だけど体つきはもう十分大人だからやばい奴らに絡まれてるんじゃないかとか。最後は少々想像が飛躍しすぎているが、まあ、心配性が発動してしまったわけだ。心配性? 僕が今までこんなに個人のことを気に掛けたかどうかはよく覚えてはいないが、これもまた初めて感じる気持ちだった。遅刻でした、寝坊しました、微熱がありますとかだったらそれはそれでいい。彼女ができるだけつらい目に合っていなければいい。何もなく普通にまた学校に出てきてくれればいいんだけど。以前までと同じようにその凛とした姿を学校で見せてくれたら。急にこんな心配をかけられるんだから大変なものだと思う。これじゃ彼女はきつくても学校に来ないといけないみたいになるじゃないか。でも休みたいときは休みたいって言っておいてもらえると嬉しいんだけどな。なんて、一人で妄想をしていたところのそんな僕の表情が熱でもあるように見えたらしい。

 実際には犬塚さんは朝礼の五分前の予鈴が鳴るころに教室に入ってきたのでひとまず安心だった。ほぼ同じタイミングでクラスメイトの水田さんも教室に入ってきた。ちょうど僕の一つ後ろの席に座っている、ちょっと変わった人だ。彼女も演劇部だったことをここで思い出して、それに水田さんと会話を楽しむ友人ポジションの一人として、話しかけてみることにしたんだ。そこで聞いた話でだいぶん納得がいった。要するに、平日の放課後はゴリゴリ体育会系のバスケ部の顧問が体育館の使用を譲らずに、陣取ってたらしく、使用許可が下りたのは発表会の週だけらしい。しかも、放課後も、体育館の半面はいろんな体育会系の部活が使っていて、ステージを使えるのはかなりうるさい状況の中。ましてや、ネタバレなんて防ぎようがなくて、されたらたまったものじゃないという具合。今日の放課後と明日の放課後は運動部は使わないらしいから練習できるらしいんだけど、ぶっちゃけ、ダンス部、ブラスバンド部、書道部、放送部等々、ステージ発表をするグループの数をなめてもらっては困ると水田さんは激怒していた。結局全く時間がないし、ネタバレもされたくないから、誰もいない朝っぱらの早い時間帯から、セリフ合わせと舞台上の動きの練習をしていたと聞いてストイックすぎるだろと心の中で思うと同時に自分勝手な運動部の考え方はどの部活でも健在なんだなと思った。僕は適当に相槌を打ちながら、遅れた理由には正当性があったんだなと、変な妄想が杞憂に終わってよかったと胸をなでおろしたのだった。

 もう一つ、ここまで話をするなら気になるのは、犬塚羽女の役柄だろう。彼女はどんな風な役で演技をして、どんな風に姿を見せてくれるのかは今一番知りたいことだ。朝から微分して共通接線の傾きを調べる方法を教え込まれるなんて、ちょっと頭がパンクしてしまう。そんなことよりも、金曜日に控える発表会の情報を少しずつ集めていった方が百倍楽しい。水田さんに演劇ってどんな感じなのか聞いてみると、完成度はアンケートでいうところのやや良いくらいに仕上がってると言って、本番を楽しみにしててほしいとのこと。文化発表会という舞台では人を呼ぶ宣伝活動をしなくてもよいのが大変ありがたいらしい。役についてもまだ秘密と言っていた。犬塚羽女の役についてもたずねてみたところ、「彼女の役はこの物語を完結させるうえでかなり重要な役だよ」とよどみなく言っていたので信じることにしよう。でも、まだ詳細は言えないよ、と付け加えた。ますます、二日後が楽しみになってきた。



4.課題に出されたところは確かに昨日の夜にしっかりと見たところだった。勝ちを確信したわけではないが、その課題が与えられた時のあの副部長の顔からは困惑した表情が見て取れた。猶予は三十分。主役からその演技が始まれば一番短い時間でその勝負ができる。幸いにも願った通り、一番最初に主役の演技審査が行われることになった。もう、笑っても泣いてもこれが全校生徒の前で自分を表現できる最後の場所。そう思って、昨晩あれだけ台本を読みこんだのだと私は私自身を奮い立たせた。

 ひとつ前の日、私はすぐさま家に戻り、台本の読み込みをおこなった。もちろんお昼ご飯を食べてからなので、正確には午後一時半ごろから始めた。確かになかなかに難しい。悪役の思考が難しいと言っているが、これは登場人物の考え方すべてがおおよそ難しいのではないかとも思うほどだった。何とか読み終わったと思えば、時計は四時を回っておりだいぶん時間がかかってしまったと思った。ここから、この主役となるサザンクス王妃の心理を読み取っていき、深層心理にまで注目しながらその動きとセリフの出し方を考えていかなければならない。考えている途中に水田さんと連絡を取って王妃の考え方を聞いたりもした。だんだんと、ストーリーの骨組みに肉がついてくる感じで、その難解なストーリーも徐々に理解できるようになっていった。それでもやはり、ずっと不安ではあったから、夜寝る前にもう一度ストーリーを一読して就寝した。絶対にこれほどの理解をしている人はいない。そう思って役決め会議に向かっていった。

 演技は完ぺきだったとは言いづらかった。頭でわかっていても表現するのが難しいというのは演劇の世界に入る前から思っていたが、入ってみていっそうそれをしみじみと感じる。しかし、副部長の演技は大変すごかった。それが、すごい、の一言で言い表されるから完璧であるというわけではない。もっとも、私のこの解釈の下では彼女の演技は違っている。ここで行われていることは、後から明かされる通り、サザンクス王妃が仕掛けたことであってつまり課題のセリフの場面はただの茶番の場面。それをうまく、いかにも本気であるように見せている、という演技が必要と思っていた。言語化するのが難しいというのはこういう感覚のことを言うのだと思う。台本をしっかり読み取り、登場人物の心情変化から、この時のサザンクスの気持ちを乗せ演技を披露した私は、その決定投票の結果には期待できると思っていたが、下馬評通り、私は大差で副部長に敗北を喫することになってしまった。

 悔しいというよりは、若干の諦念が入った悔しさだった。つまり、求められていたものは技術力と人間力の二つであることにも気づいた。この人気投票のシステムは改善すべきとは声を大にしては言えない。多数決というのが一番手っ取り早い。しかし、次々に決定していく演者たちは、よく考えてみれば、本当にこの作品を理解してその演技をしているとは考えられなかった。それに、技術力が伴っているかどうかも素人目からしてみてあまりよくわからなかった。素人といっても一年は演劇の世界にいるはずなのだが、それでも見分けがつかなかった。私は完ぺきな演技を求めるわけではなく、というかそれは不可能である。なぜなら、それを練習するために今からの期間が存在するわけで、最初から完璧ならあとは何もせずに本番を迎えるだけでいい。話がそれたけれど、完ぺきな演技を求めるわけではなく、その役が物語の中でどのような役割を果たし、この場面はそのキャラクターの背景からこういった感情の動きをするんだなとか、その部分を見て評価してほしいと思った。そうでなかったら、台本をもらってからの短期間でオーディションをするときに見るポイントがわからない。しかし、投票する人もまた部員であって、そのすべての部員が台本を深く考察しながら読んでいるとは考えにくいし、それで過半数の票を取ることも考えにくい。これなら、誰でもわかるような大多数を相手にした演技の方が、得票率は上がってその役の演者としての権利をつかむことができる。たしかに、大衆受けする演技というのは、演劇界においてかなり重要なことではある。でもこれじゃ、結局日本の政治社会と同じだ。少子高齢化が心配だと問題点にしているが、結局私たちの生活を少しでも楽にしてくれるわけじゃなくて、防衛費や年金のためにどんどん税率を上げて、何もわかっていない高齢者からの票を集めようとしている。若い世代の苦労を知らない高齢者は選挙のことなんてろくに考えてもいないのに、今日は選挙の日じゃったとか言い出して、適当に自民党に投票しているのかもしれない。努力して、政治に関心をもって、何とかしてこの社会を変えたいと思って投じた一票と、今日は選挙の日だから一応選挙に行くかと言って投じられた一票が同じ価値というわけだ。なら、あまり考えていない人の耳に残るような発言をする方がいいに決まっている。世間的に必要なことだけれど、耳に障るようなことを言うメリットはあまりない。

 ただ、確かにあの副部長だけは技術は持っていると思った。やっぱり、彼女は演劇部というコミュニティの中での立ち振る舞いの力を持ちつつ、圧倒的な技術力を持ち合わせていることは明らかだった。技術力では負けた可能性しかない。自分の技術力を正当に評価することはできないけれど、やはり、技術面で見れば、部内一の実力はあるだろう。この副部長に負けるんなら仕方ないなとは思えた。もっとも、ほかの役に当選したような奴らに負けたのだったら、さらに腹が立って仕方がなかったのだと思う。というか実際そう思っていた。でも、私はやっぱり人間で、してはいけないはずの恨みさえ持った。つまり、対戦相手を変更すればステージ上に立てたのではないかという憶測だ。もっと重要度の低い役のオーディションを受ければきっと当選できたかもしれないと思ったのだ。あいつの演技だったら私は越えられないだろ。そうすれば主役級の活躍をステージでできる……。でも、自分自身がやりたかったことはその演劇の舞台で主役を張ること。そこで妥協してしまったらなんか違う気がする。そんなプライドの高い気持ちで、やり場のない不思議な感情を持ったまま、確かに悔しさだけ頭の中に残り続けたまま、その部会は終了間際になった。

 その時に彼女が声をかけてくれなかったら、今の私はないだろうしあれほど文化発表会を成功させることはできなかったと思う。いまだにあの時に声をかけてくれたことは感謝してもしつくせない。やっぱり演劇が好きだ、と、逆説的に演劇を嫌いになりかけていた私を何とかつなぎとめてくれた命の恩人といっても差し支えない。

 部会が終わったら一目散に帰宅するというのも悪くはないと思っていた。世間話をするようなテンションではなかったから。オーディションは大方予想通りとなって、だから順当に役が決まっていった。なるべく人が演者になったという感じだ。二年生の立候補者から順番に決まっているから、特段、変な雰囲気になっているわけではない。そこに、いきなり何の前触れもなく主役に立候補してあえなく撃沈するというわけのわからない生徒がいても、世間話は全く盛り上がらないし、かえって話しにくくしてしまうと思った。荷物をまとめ、解散したらすぐ帰る準備を進めていると、突然声をかけられて呼び止められた。「ちょっと話したいことがあるの。この後、時間もらえるかな」演劇部二年の誇れる作家・水田が確かに私の目をまっすぐ見ながらそこにいた。



5.まさか僕も発表会の前日に犬塚羽女と接触できるとは思ってもみなかった。舞い上がってしまいすぎて多くの話はできていないけど、このセクションではその一部を書こうと思う。

 簡単に言うと、一時間目と二時間目の休み時間に、水田さんの席に犬塚羽女がやってきて二人で演劇の最終確認について結構しゃべっていたので、僕が「明日が本番だよねー」みたいな感じで会話の中に強引に入っていったわけなんだけど、二人は僕のその行動が予想外だったのか台本を勢いよく胸の前まで引き上げて背表紙を見せ、ネタバレは厳禁と言わんばかりの態度をとったってこと。「あ、そうだよね、ごめんごめん。じゃあ、明日は期待しちゃっていいかな。じゃあ、二人とも頑張ってね」って言ってまた前を向きなおしたんだけど。そしたら、水田さんが「絶対成功させるから楽しみに待っときな」って言って多少強引に犬塚羽女の手とつないでそれを見せてきてくれたからうれしかった。ちょっと照れながらも手を握っている(?)手をつかまれている犬塚さんのその表情がまた何とも言えず美しいというかかわいいというか。結局、そのあと彼女らは少し打ち合わせをしてから解散して、また二時間目の授業が始まる。

 待ち望んでいたことはこういうことだった。期待しているとはわざわざ彼女の近くまで行って伝える勇気も度胸もないけれど、何とかして応援しているってことは伝えたかったんだと思っていたところに偶然のチャンスが訪れたのだ。しかし、よくぞ、水田さんの席が僕の真後ろであってくれた。もし彼女が後ろの席に居なかったら、課外に遅刻してきた理由もわからなかったし、彼女に応援のメッセージを送ることもできなかっただろう。神様に愛されてるな、と心の底から思った。

 そんなロマンチシズムな世界に入っていても、化学の先生は容赦をしない。突然、僕を指名し、炭酸ナトリウムの工業的製法を聞いてくる。ちょうど、勉強していたところだったのでアンモニアソーダ法と答えることができたが、あの原理は上手に説明してもらわないと何が何だかわからない。まあ、それでも、あの先生は運動部の人を中心に復習チックなことをやっていたので多分優しい先生だ。それと発表が終わった時、席に座る前に無意識的に犬塚さんの方を向いてしまったんだけど、その時彼女もこちらを見ている気がした。気がしただけの可能性がおそらく九十パーセントを超える。

 それにしても、彼女らが持っていた台本は数えきれないくらいのラインだったり、文字だったり、吹き出しだったりで、圧倒されるものが多くあった。彼女らがすぐに隠したのでその内容は全く分からなかったけれど、犬塚さんは部活にも全力を尽くしているんだろうという妄信は、ここで確信に変わった。あれだけ台本に書き込みをするのは、その努力と熱意からに他ならない。それに、劇を完成させるのに必要不可欠な役柄だなんて。

 明日の文化発表会がますます楽しみになる。一体彼女はどんな姿をステージで見せてくれるんだろう。



6.水田に相談された内容は、ナレーションをやってみないか、というものだった。あなたは私の作品をかなり理解してくれている、と言って、一緒に盛り上げてくれと頼みこまれた。急にナレーションといっても何をすればいいか全くわからないし、私でその役が務まるのか、まったくわからない。でも、作品を咀嚼してしっかりと理解をしようとしたその努力が認めてもらえたような気がしてうれしかった。結局のところ何も深く考えずにOKサインを出した。

 彼女は、少し後悔していることも後から打ち明けてくれた。作品を書くのが楽しくなっちゃって、途端に意味不明な展開になっているもんだからいろいろ訂正しながら作品を完成させたらしいのだが、どう頑張ってもたった一回の演劇で、その作品のストーリーが理解できないだろう、というものだった。そんなことは言っても、長い時間をかけてかいた物語だから、今更棄却することはできない。悶々としながらもオーディションの日を迎えようとしてたんだけど、その時に電話がかかってきたらしい。私から。この人の考え方はこういうことなのかという電話をね。その時思ったらしいの。私が状況を言語化する能力に優れているって。その電話で私が主役に立候補するのはわかっていたと思うから、それでいてナレーションがいいんじゃないかと思いつくのはなかなかに奇抜な考え方だと私は思うけれど、どうなんでしょうか。

 私なら感情的にナレーションができるらしい。知らない間に聞き流しているナレーションは実際、そんなに無機質じゃない。今はユーチューブで、謎の機械音声が動画の声をするのもあるけど、あれよりも人間の声の方が百倍聞きやすいと思う。ましてや演劇のナレーションはもっと重要だ。ストーリをかなり理解してきた手前、その内容を観客に届けるためには私の力が必要というわけになった。


 不安はものすごくあった。同時に、期待も高揚感もそれを上回るほどにあった。どれだけの人間が私を見ているのかは、この役をもらってから今まで考えもしないことだったがこのステージで表現するうえで私一人に注目が集まる時間は多い。今の今まで、演劇を成功させることだけを考えてやってきた。そうさせてくれたのはもちろん彼女、作家水田のおかげだ。

 自信をもって! 影の重役さん! って励ましてくれた。さすがは水田。それでこそ、この作品を作り上げた劇作家だ。もう明日のこの時間にはいったんの区切りがつく。終わりはしないけど、二か月以上本気で取り組んできたこの努力の真価が問われる。ふう、私だってずっと主役を張れるような天才少女に生まれたかったけれど、劇作家ができるような天才少女に生まれたかったけれど、この立場からの演劇も悪くはないよ。よし、今日はもう早く寝よう。



7.午後の部がスタートしてまもなくダイナミックな音楽とともに書道部がステージ上に現れた。井ノ山学園の文化発表会は例年通りの盛況を見せている。八川廣はちかわひろはその書道部の演技にも見とれていた。

「同じ高校生とは思えない」感嘆の独り言が思わず漏れた。次から次に変わっていくパネルに書道部の人たちがカラフルな墨汁で、一心不乱に書き上げていく。最後の大技、クライマックスに差し掛かったようだ。

「二年部長の〇〇です」「一年副部長の△△です」と大きな声で二人が発し、大きな筆をつないでいく、確かに1年の副部長にその筆が手渡された。その筆が文字を書ききったと同時に音楽が停止し、ステージは暗転した。

 書道部の発表は、「継ぐ」の文字で締められた。会場中から拍手が巻き起こり、書道部も満足げな表情でステージを去った。

 八川廣は手元のパンフレットを開いた。「十四時~ 演劇部」と黒い文字で印刷されてある。パンフレットはいつの間にか、手汗で端の部分がしわしわになっている。制服のズボンの袖で、手汗を拭くとまた、パンフレットをしまった。待ちに待ったというのは何か違う気もするけれど、気づいたらこの日を待っていた。犬塚羽女のことを目で追い始めた時から何かと、この日のことは考えに考えを重ねてきた。また、いったいどんな姿を見せえてくれるんだろうと妄想が膨らむ。午前の部の時に座っていたあの席にはもう彼女がいないことを確認した。頑張ってくれ、と心の中で願った。

 犬塚羽女は手元の台本を開いた。きれいに飾りつけされたこの台本は小道具担当の人が頑張って作ってくれてものだ。なれない豪華な衣装に身を包み、トップバッターとして、タイトルコールを宣言するのが、一番大きくて緊張する仕事だ。思えばあの日、水田に電話していなければこの舞台には立てなかったわけだから、それは、演劇が好きだという力でこの役を勝ち取ったのだと思って自信をつけようとしていた。大丈夫、今までの練習通り。物理的に背中を押されたような気がした。水田は笑いながら、もう一度背中をたたいた。


「準備はできましたか。もう放送入れちゃいますね」実行委員が舞台袖から消えていった。


 放送の音で、パンフレットに落としていた視線を上げ、バタバタと音を立てながらパンフレットを畳み込んだ。八川廣はその放送に耳を傾けた。

「お待たせいたしました。演劇部の発表です」

 一呼吸おいて、では、ご覧くださいとつづけられた。



「お待たせいたしました。演劇部の発表です」

 犬塚羽女の緊張は最大級まで高まった。でももう大丈夫だと自分に言い聞かせながら、一歩、また一歩とステージの中央への歩みを進めた。


 ステージ中央まで歩いてくる女性の姿をみて、八川廣はすぐに犬塚羽女であることに気づいた。いつもの凛とした姿勢は健在で、それでいておしゃれな衣装に身を包み、ステージの前に堂々と立った。マイクの電源が入る音が聞こえた。八川廣は、その一瞬の緊張から、ぐっと息をのんだ。


 理想の世界だった。真っ暗な客席には見知った顔がたくさんいて、その誰もが私を見つめてる。そんな感慨に浸ることができたから、緊張が少しはほどけたのかもしれない。タイトルを頭に浮かべた。大きな深呼吸をして、息を吸った。

「こんにちは。この度は、私がナレーションを務めます。よろしくお願いします」

 軽めの拍手が起こる。

「それでは、早速ですが、皆さんを演劇の世界へとお連れしましょう」

 劇場はその期待感で静まり返った。もう一度、息を吸った。





 エピローグ

「やっぱり、常人には理解しがたい内容だよね。王子様だと思っていた人は実は女の人で、その愛の力が同性愛だということに気づいた王様が、その別の国の王様と手を組んで、王女様を連れ去っていないものにしてしまおうなんて題材。自分でもよく思いついたと思う。ほんと、何考えてたんだろう。でも、ありきたりな演劇をするのも面白くないよね。実際のことを言うと犬塚さんの演技はほかの人と違った気がしたんだ。彼女はまじめだし、一番演劇が好きなんだという気持ちがある。そして何より、私の作品を理解していたその当時の唯一の人でもある。彼女に任せれば何とかなるかもしれないと思った。もちろん、練習を重ねるうちに何度も台本は改変されていったけどね。

 ああ、八川廣という男はどうも、演劇部の誰かに興味があるらしいね。彼の話し方から行くと、彼女の可能性は高いでしょう。ふふふ。ますます楽しくなってきたじゃない。これはまた、台本を書く手が止まらなさそうだわ」

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