第二十二話 Starting Over
二人のアパートはロフト付きの小さな小さなアパートだった。何も持たない二人は最低限の家具とニューヨークから持ってきた楽器と機材だけで暮らした。
時折揺れる部屋にマイルスは日本はなんと地震が多いんだと思ったが、なんてことはない大型トラックだった。ニューヨークでは地震は一度もなかった。大きな古代の岩盤の上に乗っているマンハッタンは地震は皆無だった。この岩盤はセントラルパークでむき出しとなっていた。
マイルスはここからネットを利用して「Neo Maggio 5オクターブ歌唱法」を始めた。徐々に生徒が集まり、少し広いところに引っ越すことが出来た。
静も仕事をやめマイルスを手伝った。
久々の日本でマイルスは食事を堪能した。日本の食べ物は何でもおいしい気がした。そして自分たちでも工夫した食事を作るようになった。
静は最初こそ不器用に調理をしたが、すぐに上手に料理を作るようになった。なにより静は丁寧だった。生徒の多くはレッスンの後のもてなしに舌鼓を打つようになった。思えば静がニューヨークで作ってくれたみそ汁は、とてもおいしかった。あの味は忘れられない。
マイルスはみんながそれぞれの歌を録音できるようにカバー曲を作るようになった。なんだか楽器が増え始めた。ニューヨークを出る時機材の多くはジェフに預けたが、連絡が取れなかった。マイルスはあまり気にしなかった。またやり直せる気がした。
“Starting Over” やり直しだ…
新しいマンションは部屋全体より大きなベランダがあって富士山が真正面に見えた。花火は四方から上がった。駅1分でスーパーは眼の前だった。前のアパートは寂しい場所にあったのに、そこから遠くない所にこんな開けた場所があったのは驚きだった。まるで壁に向かって立つと先が見えず暗い、進むに進めない感じだが、振り返るだけで明るくて開けていて見通しが良い所が見える、そんな感じだった。
静との生活はマイルスの冷え切った体を温めるようだった。少しづつ聴けなかった音楽が、聴きたくなかった音楽が、聴けるようになった。聴きたいと思うようになっていった。もう日本には帰らないつもりだったが、帰ってきて良かったとマイルスはつくづく思った。
静をマイルスの母にも会わせると、静はすぐ母のお気に入りとなった。マイルスは静を父にも会わせたかった、と思った。その事だけが残念だった。きっと父にも静はお気に入りとなったろう。
しかし静は家を飛び出したままだった。マイルスは自分だけが元の体温に戻るのが許せなかった。そして静の伯母に相談した。
その介あって静の両親はやって来た。静とマイルスはマンション1階の高級日本料理店を用意して、結婚の許しを乞うて頭を下げた。
静の父は一言も口をきかなかった。料理にも手を付けなかった。ただ睨んでいた。マイルスも料理が喉を通らなかった。静と静の母が会話しているそんな感じだった。しかし結局二人は許して貰えたようだった。
マイルスはネクタイを緩めると静の親子関係が修復できた事にようやくほっとした。そして二人は両親の気が変わらないうちにと、市役所に駆け込んだ。
まだ夜も明けやらない時刻に、人目を気にするようにマンションを出て行く二人の影があった。人一人は入りそうな大きなスーツケースを引きずって、二人は待たせてあった車に滑り込んだ。
「池袋までお願いします」と、妻が運転手に告げると、「ご旅行ですか?」と、彼は尋ねた。これから羽田で宮崎までの早朝便に乗る、と告げると、「お客さんここから羽田行きの早朝バスが出ていますよ」と、商売気なさげに教えてくれた。バスは遅延もあるかもしれないし、高速道路で渋滞や事故に巻き込まれたら、スケジュールが台無しになるのだと妻は訳を話した。
そう、時間刻みの計画を壊すわけには行かないのだ。朝の8時20分には宮崎空港についていなくてはならないのだとマイルスは思った。Miles Davisの “In A Silent Way” が流れた。
朝のフライトは遅れもなく晴れて快適だった。飛行機が地上を離れるとマイルスはとたんに眠りに落ちた。静と一緒に遊びに行った所沢の航空記念館のフライトシュミレーターで、着陸に失敗して海に突っ込んだ夢を見て目が覚めた。機内アナウンスでまもなく着陸するとの案内が流れた。着陸は意に反してあっけなかった。
飛行機を降りるとそこはもう南国の眩しい日差しだった。曲はJimmy Cliffの “I Can See Clearly Now” に変わった。
マイルスと静は空港でマイルスの母の歓迎を受けた。81歳になる母は元気そうで、しばらくぶりに会えた静の顔を見て嬉しそうだった。息子との対面もそこそこに、母はマイルスに荷物を預けると、妻の静を誘ってそそくさとお土産売り場のほうに連れて行った。その間マイルスは「息子より嫁の方が良いのか」とぼやきながらも二人の仲の良さに喜んだ。静の両親と義姉の名古屋からの到着を一人待っていた。
彼らは、横にすると出口を出られないほど大きなサーフボードを抱えた日焼けした若者の一団の後にやって来た。久しぶりの全員での再会と、初めての宮崎にみんな顔を輝かせていた。
「お疲れ様です。良くいらっしゃいました」
あれからマイルスに対する静の両親の扱いは180度変わった。静を大事にしている事や、マイルスの母の印象も大きかった。結婚の挨拶に犬山に行くとその歓迎ぶりで自分は受け入れられたとマイルスは思った。
みんなは7人乗りのレンタカーでマイルスの実家に向かった。明るい日差しを受けて白く光る道路と、道なりに続くワシント二アパームの中央分離帯が、夏の白い雲の浮かぶ真っ青な空に映えて、南国に来たのだと実感させられた。
バイパスを離れ、団地の道に入るとまもなく実家に着いた。そこにはマイルスの義姉とその息子夫婦、そして今年生まれたばかりの息子夫婦の長男が待っていた。
実家は母の離れと二棟で、吹き抜けにシーリングファンのある、ちょっと小さい教会の様な造りだ。昔は暖炉があって、外壁には蔦がからまっていた。
マイルスの甥とお嫁さんは静と年の変わらない年齢だが、静は叔母さんということになる。彼らには生まれたばかりの男の赤ちゃんがいて、マイルスは大甥と呼ぶのか、又甥と言うのかと迷っていた。
義父は昔取った杵柄で、まるで自分の孫でも抱くように抱え、赤ちゃんの方も、見知った人に抱かれるようにとても懐いていた。
「かわいいねえ」「うふふふふふ」
離れの母の家で亡き父にみんなで手を合わせた。父はマイルスがニューヨークにいる間に癌で若くして亡くなった。マイルスの自宅にも父の写真が飾ってあるが、一緒に宮崎に帰って来た気がした。「只今、お父さん」
挨拶を済ませ、チェックインするため、宿泊先のホテルに向かった。沢山の橋の架かる大淀川を渡ると、市街地の脇を港の方にすり抜けて、一ッ葉有料道路をわざと遠回りした。光る海を右手に、途方もなく広い松林と九州一高いシェラトンホテル群を左手に見て、フェニックス自然動物園のある反対側の入口からシーガイヤに入った。ここにはダンロップ・フェニックス・トーナメントの行われるトム ワトソンコース等18ホールのゴルフコースが2面あって、ホテルが3つとコテージ、テニスコート、ビーチ、温泉施設と植物園、動物園そして休業中のオーシャンドームがある広大な敷地で、敷地は敷地内にある神社の持ち物だということだ。
敷地に入ってからかなりの距離を車で走ってから、ようやく宿泊するホテルに着いた。かなり時間前のチェックインだったが、難なく部屋に入ることが出来た。
「ワー、広い!」歓声が上がった。
部屋はコンドミニアムタイプのホテルの8階だった。入って見ると驚きで、広い玄関、旅行の荷物がたっぷり入る大きなクローゼットが2面、女同士3人はゆっくり入れる広さで洗濯乾燥機も付いている化粧室、浴槽とは別にシャワーフロアのある浴室、基本のキッチンセットや食器が付いているIH式のキッチン、6畳の和室、8畳に2つのベッドのある洋室、そして12畳のリビングの間取りで、これらは全部開け放したり個室にしたり出来た。造りはかなりゆったりしていた。広さは今のマンションよりかなり広かった。
そして幅の広いカーテンを開け放つと、みんなはさらに驚く。広いベランダと目の前には松林、そして青い海が真っ直ぐ横に広がって、思わず息を飲んだ。静はマイルスがホテルを何度も確認するようにインターネットで調べていたのを思い出した。「ありがとう」と静はつぶやいた。
このホテル群は昔マイルスがラッパを吹いていたあの場所だった。今はシェラトンホテル系列になっていた。温泉が出来たのと、バンマスAがいないのが違っていた。
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