11.初めて

 志帆しほはその日、初めての行動を二つした。

一つは、初対面の人間に付いて行ったこと。

二つは、探偵という怪しいイメージが強い――否、怪しさしか感じられない職業の人間と一対一で喋ったこと。

内向的な自分では、考えられない大胆な行動だ。

……いや、過去にもそういうことは有った。的場晃生まとばこうせいの絵に惚れて、玉城たまきの事務所に働かせてくれと頼み込んだ時。

晃生が関わると、急にアクティブな自分が現れて、進め進めと背中をグイグイ押してくるのだ。


――気を付けないと……


今頃そう再確認した志帆だが、幸い、相手は探偵などと名乗らなければ非常にまともな印象の男で、いっそ公務員か銀行員のように見えた。

落ち着いた調子の話を聞くと、冷静ではいられなかったのは志帆の方だった。


「ど、どういうことですか、それ……!」


夜は半ば居酒屋となる賑々しいカフェの一角で、志帆はどうにか叫ぶのを抑えて言った。


「業界の方としては、皆さん、そういう反応になるんですかね?」


佐藤 誠さとう まことという偽名を疑う名を名乗った探偵は、音も無くコーヒーを啜って言った。昨今の探偵は煙草も吸わないらしい。それともあれは単なるイメージなのか。彼の物静かな雰囲気に比べ、むしろ興奮気味の志帆はカフェラテに手を付けるのも忘れて頷いた。


「と、当然です……!『レディ・ミント』のモデルが――……」


スッと佐藤の片手が伸べられて、――『夜の階段』のモデルだなんて、という言葉は何とか呑み込んだ。誰か聞いていやしまいかとそわそわと視線を巡らす女に、佐藤はあくまで静かに言った。


「そうですか。無知で申し訳ない。芸能界はともかく、芸術界を調べるのは初めてなもので」

「そ、そういうものですか……」

「骨董品絡みの相続トラブルは経験が有りますが」


男は曖昧に苦笑した。


「先程も申し上げましたが、話したくないことは仰る必要はありません。貴女や会社にとって不利益なことを公表するつもりは有りませんが、別の形で漏れ出て私が疑われるのは困りますから、社外秘はむしろご遠慮下さい。当然、こちらも貴女に伺った件は秘匿致します」

「わ、わかりました」


先に『レディ・ミント』の情報を聞いてしまった手前、何やら共犯者にでもなった気になるが、知っただけならどうという話ではない。面接やプレゼンよりマシだ……落ち着こうと呼吸を整えながら志帆は頷いた。


「尾川さんは、Aさんとは面識が有ると仰いましたね。いつ頃のことか伺っても?」

「は、はい、アシスタントに入ったばかりの頃に……彼女、弊社の展示の手伝いに来たんです。人づてということでしたけど、誰の紹介かはわからなくて……社長に相談したら、人出が足りないのは本当だからいいよって――」


あの時も、妙な話だとは思った。

まだ、玉城に何度も直談判し、まだ学生だからと駆け出しのバイトとして雇ってもらった頃だ。的場晃生がブランシュを手掛ける前の展示に、その女は現れた。志帆は美大生や専門学生など自身の同級生を中心に、展示のアルバイトの声掛けをしたのだが……美術に携わる人間は自分の作品でも忙しい為、興味は有ってもなかなか集まらず、募集は人から人へ広がった。

無論、Aこと、辻井甘理以外にも知らない人間は混じっていたが、彼女に目が留まったのは、ちょっと目を引く美人だった為だ。

そして、準備風景をふらりと見に来た晃生は吸い寄せられるように彼女に接触した。彼は他人に自ら声を掛けることは滅多に無い。見ていた人間によれば、知り合いであるかのように声を掛け、殆ど間髪入れずに「甘理を描きたい」と言ったらしい。


「それは、珍しいことだったんですか」

「はい……晃生さんは、世間では女好きみたいに言われていますけど、本当はそれほど人は得意ではないんです。公表されていることですが、初めて裸婦を描いた時が、初めて女性に触れた時だと聞いています。社長やニナさん以外は、何度会っても覚えられない人が殆どですし……」


この話をすると、何とも言えない惨めさが胸を占める。

晃生の心にそうした難儀な点があるのは、志帆も内部に入って初めて知った。玉城があまりにも上手くカバーしている為だ。

女にいやらしい思惑を向けることなく、純粋に美しさを描く彼への憧れは色褪せなかったものの、勤めて以来、未だに名前を呼ばれた記憶はない。

……晃生に描かれたのに、忘れられてしまう女よりはマシかもしれないが。


「彼女は知り合いではと思いました。晃生さんは集中が切れると、アトリエを出て散歩をしてきますから、何処かで会っていて……彼に会いに来たのかもしれないと……」

「なるほど。しかし、そこから例の作品が発表されるまでは、少し間が有りますね? 先に『ブランシュ』のシリーズが始まっているのは、予定されていたからですか?」

「わかりませんが……ブランシュはAさんが来た個展の後、すぐに決まったんです。社長が連れてきたニナさんは晃生さんと相性が良かったので……」


――相性と言うのはモデルと画家の関係のことだが、この二人に男女関係が有ったのかはニナの発言によって「YES」として公表されている。

志帆は少なからずショックは受けた。

あの無垢で透明な晃生も人間だと思い知ると同時に、やっぱり見た目が綺麗な女を選んだことにも打ちのめされた。だが、これまでのモデルも体に触れたのは事実だと言うし、ニナほどの美人ならば……と、切り替えてからの『夜の階段』騒ぎだったのだ。


「的場さんも、なんだか不思議な御方ですね。最初に描きたかった女性の前に別のモデルを描き、改めて例の作品を描くなんて」


志帆はつられるように頷いた。

そうなのだ。てっきり、晃生はニナとは公的に付き合うと思っていた矢先だ。ニナは世間に強気な自身を発信しているが、実際の彼女はアルバイトのスタッフさえ、体調を崩せば心配してくれるし、仕事で地方や海外に行けば皆にお土産を買い、卒業や結婚、出産などのお祝いを準備するほど細やかな性格だ。このタイミングでニナ以外を描くとは――両者を知る人間は、晃生の無神経とも言える行動に唖然とした。同時に、甘理という女にも。


「描かれた際、近くに居た人間は居るんですか?」

「さあ……知りません。居たとしても、社長ぐらいだと思います」


志帆とて、アトリエや問題の別荘に出入りすることは有ったが、描いている部屋に踏み入れるのはモデル以外は玉城だけだ。晃生はその性格や精神状態故に、他の人間は描いている最中の様子はおろか、声が聴こえる環境には近寄らない様に指示されている為、描かれる瞬間を見たことはない。


「的場さんは今や大御所ですが、ドキュメンタリー番組や雑誌などの密着取材を受けたことは?」

「私が知る限りは……有りません」


――あの晃生に、密着取材は不可能だ。

言わなかったが、雑誌などのインタビューのコメントも、晃生の言葉の殆どは玉城が代弁している。彼のふわふわと柔らかい綿毛のような話し方や、幼い言葉遣いは日本のTPOにそぐわないらしい。


「描く現場は、完全に非公開なんですね」


佐藤は思案顔で呟いた。

曰く有り気に聴こえて、志帆はやや戸惑いがちに頷いた。


「そんなに……珍しいことではないと思います。純粋にカメラが入るのを嫌がる方も居ますし、独自の技法を見せたくない方も居ますので……」

「なるほど。非常に参考になりました。最後に一つだけ」

「は、はい?」

「ここ最近、玉城画廊さんの周辺に、私のような人間が来たことはありませんか」

「え?」


ポカンとした志帆に、佐藤は言い含めるように静かに言った。


「探偵とは申しません。例えば事務所を撮影していたとか、急な取材を持ち掛けるメディア関係者を名乗る人物などです」

「……さ、さあ……私は気が付きませんでしたけど……」


『夜の階段』の炎上騒ぎの時は、事務所の傍をそれらしい人間がうろついたり、目つきの悪い記者が取材を申し込んできたことは有ったが、あれは甘理の父親が逝去した後にぱったり途絶えた。

元々、ニナには悪質なパパラッチやファンが付き纏い、ストーカー紛いのことをした事は何度か有るが、それはその都度、警察に届け出ている。

昨今は、取材もせずに勝手な考察を書き立てられる事が殆どだ。ネット上の批評家どもは、さも業界通のように偉そうな持論を掲載しているが、それさえ最近では、悪口が品切れたようで下火である。

志帆の説明を聞いた男はそっと頭を垂れ、手は伝票を取った。


「ありがとうございます。とても参考になりました」

「は、はあ……」

「遅くまでお引き留めしてすみませんでした。宜しければ駅までお送りします」

「えっ……あ、あの……ちょっと待って下さい……!」


腰を浮かせた志帆に、佐藤は座り直してくれた。


「あの……佐藤さんがAさんを調べているのって……どなたの御依頼なんですか?」

「ご協力頂いた手前で申し訳ありませんが、依頼主のことはお話しできません」

「じ、じゃあ……私が調査を依頼することはできますか?」

「は?」


意外そうに男は聞き返した。

今の問い掛けは目の前の女がしたのかどうか、確かめるような間を置いて、彼は自らを落ち着かせるようにゆっくり言った。


「何の調査をお考えか、伺っても?」

「……こ、晃生さんのことを知りたいんです。ずっと姿を見ていないですし……どうなさっているのか心配で……」

「的場晃生さんの――」


志帆は顔が赤くなるのがわかった。相手は探偵だ。こちらの思惑なぞ、とうに見抜いているかもしれない。ほんの数秒の間を置き、佐藤は言った。


「失礼ですが、彼が何処にいらっしゃるのかはご存じなのですか?」

「は、はい。知っています……」

「御本人や御家族などに、会うのを禁じられているなどは?」

「あ、ありません、けど……」

「そうですか。では、私の出る幕は無いと思います」

「え……?」


不安げな面を上げると、佐藤は手にしたままの伝票と共に立ち上がり、上着を取って静かに椅子を戻した。


「貴方が既にご存知のことを、調査する必要は無いということです。直接お会いするか、連絡を取る方が良いと思いますよ。私が調査して報告したところで、御本人以外が言う『近況』と、さして変わり有りませんから」

「……」


全くその通りなので、志帆は呆けた顔付きで探偵が上着を羽織るのを見つめ、「送りましょうか」と改めて訊ねられた一言に首を振った。


「だ、大丈夫です……ありがとうございます。少し休んでから帰ります……」


ではお先に失礼します、と終始、丁寧な調子だった探偵はきちんと頭を下げ、志帆の分も会計を済ませて店を出て行った。

志帆はぼんやりと、空席と空のコーヒーカップを眺めた。


――直接、晃生に会う?


それが出来るなら苦労しないと思っていたが……居所ははっきりしていて……別に止められているわけではない。直接、会う。会えるだろうか。私にも。

ニナや甘理のような魅力が無ければ話し掛けるのも駄目だと、勝手に諦めていた私にも?

……甘理のことを知った今、むしろ会わねばならないのでは?

不意に、店員に向けて片手を上げた。


「あの、すみません……生ひとつ下さい」


無性に飲みたくなるなんて、初めてだった。

三つ目の初めての行動として、その夜――カップルや仕事仲間などで沸くテーブルを尻目に、志帆は一人でビールを呷った。



 

 「ええっ!?」


明斗あきとが悲鳴じみた声を上げた拍子に、絵の具のチューブが机からバラバラと落ちた。あたふたと鈍臭く拾い始めるのを、南美子なみこは呆れ顔で手伝った。

例のチョコミントを巡った休日から、丸二日後の朝だった。

まだ描き始める前、準備をしていた時である。南美子が仏頂面で出勤してきて、開口一番の話だった為、甘理も私服のままポカンとしていた。


「驚くのは無理ないけれど、もうちょっと、どっしりしてよ」


先日のニナのような言葉に、明斗はチューブをどんぐりでも拾ったように手に乗せたまま首を振った。


「む、無理ですよ。傷害事件って……どういうことなんですか?」


ついに、恐れていたことが起きてしまった。

だが、渋面の南美子が警察から受け取った情報は、想像と少し違っていた。

まず、脅迫状の件かと思いきや、全く別の話だった。

先日のイベント・コラボ店に行った明斗を、数名の若者が隠し撮りしていたらしく、彼らが自身のSNSにその写真を投稿したところ、これに対して「失礼だ」と過剰反応した何者かが、写真を下げるようにメッセージを送ったという。

これを無視してそのままにした若者らの家に、剃刀を仕込んだ手紙が投函されたというのだ。恐らく、事前のメッセージと同一人物だろうが、この悪質な手紙に、若者らは強かに指を切られ、軽傷とはいえ傷を負った。

剃刀とはやけに古風な印象だが、SNSをチェックし、投稿者の自宅を調べ、証拠を恐れてか、手書きではない抗議文を直接ポストに入れた辺り、用心深く、ネットに詳しい人物とみて、警察は捜査を進めているらしい。

無論、指紋は出ず、SNSの方のメッセージは削除され、送信先も都内のネットカフェだった為、有力な犯人はまだわからないという。


「全く……勝手に投稿するガキ共も犯人もどうかと思うけどね……マスコミの方がうるさいったら。ウチは無関係だってことを説明すんのに一苦労よ」


どうやら、売名行為の為の自作自演だという話も有ったらしい。南美子の怒りのボルテージがこれ以上上がらないように、明斗は慎重に言葉を選んだ。


「脅迫状の犯人とは……違うのでしょうか?」

「そりゃね……動機が違いそうだもの」

「それはわからないんじゃない?」


明斗と南美子が振り向くと、甘理が探偵みたいに顎に手を添えて言った。


「ミントくんのことが好きなファンなら、『レディ・ミント』のモデルを嫌うような脅迫状も送るだろうし、今回の勝手な投稿に腹も立てるかも」

「うーん……そういうものですかね……?」

「誰か居ないの? ミントくんのものすごく熱狂的なファン」


画家とマネージャーは顔を見合わせた。

互いに記憶を辿るように沈黙するが、心当たりは見当たらない。


「美術界の王子サマの志方しかた先生ならともかく、明斗のファンは普通の人ばかりよ。”芸術が好き過ぎ”って意味で変わった人は居ても、ストーカーじみたファンは見かけないと思う」

「そうですね。年配の方も多いですし」

「志方先生や的場先生の方じゃ、出禁になったファンは何人か居るけど、明斗はそういうのは無いもんね」

「……なんかちょっと引っ掛かりますね?」


南美子だけではなく甘理まで、気のせいよと笑った。


「名前出て思い出したけど、志方先生、ついにお付き合いするんですって?」

『えええッ⁉』


最初の大声を上回る大声がハモった。

これには南美子も驚いて身を引いてから首を振った。


「なあに? あんたたちが焚き付けたって聞いたけど、知らないの?」

「し、知りませんよ! あいつ……なんでこういう話は黙ってるんだ……!」


言うなり自身の端末を出して電話を掛け始める明斗を横目に、甘理は首を捻った。


「お相手は、小町こまちさんですよね?」

「そうよ。夏の個展のお祝い兼ねて、マネージャーのたにさんに会った時に聞いたの。七瀬ななせさんのご家族にも、挨拶したって」


南美子の解説の最中、明斗が電話にぎゃんぎゃん言い始める。

合間合間に、「この野郎」とか「なんだよ」、「良かった」、「やっぱり」などと差し挟みながらの文句の羅列は、盟友というよりは悪友相手の調子だ。

おみのうんざり顔を思い浮かべつつ、二人の女は苦笑した。


「さすがの志方先生も七瀬さんも、親御さん達の反応には拍子抜けしたって話よ」


子供が、孫が、と言っていた親族らは、二人のお付き合いを諸手もろてを挙げて歓迎したという。

かえって狼狽うろたえた臣が「子供は望めないかもしれない」ことを再三、しつこい程に説明したが、むしろ彼らは娘が臣に見向きもされないから婚活をしていると思っていたらしい。小町は彼らには言わなかったが、谷の前では「気を遣って損した!」と怒り心頭だったそうだ。臣は治療は続けるつもりとのことだが、不妊は心的ストレスが影響するという話もある為、谷は呑気に「入籍前に出来ちゃうかもね、ウヒヒヒ」と妖怪のように笑っていたと南美子も笑った。


「おりこうさんに育ってる人ほど、気遣いや遠慮でタイミング逃すのよねえ」


あんたもそうでしょ、と小突かれた甘理は誤魔化すように笑ってから、端末を耳に当てながら頭を搔いたり、腰に手をやったりと忙しい明斗の方を振り返った。


「ミントくんは、言う時は言いますね」

「そーねえ……あれでも普段は気にしてんのよ。元はけっこう口が悪いから」

「え、そうなんだ。誰にでも穏やかな感じかと思ってました」

「此処だけの話、かなり鍛えたの。志方先生は顔で許されるトコあるけど、あんたはそんな態度じゃ、スポンサーがヘソ曲げるわよって」


甘理は苦笑した。その時も、よっぽどヘソを曲げた顔をしただろう。

今も電話向こうにブツブツと文句を言う姿からして、あの臣と仲が良いのは同世代と絵に対する情熱だけではなさそうだ。


「明斗は性格は優しいけど、母子家庭だからかな……色々と鬱憤うっぷんを溜めちゃあ爆発するタイプでね。最初の頃は、言葉遣いもそうだし、身だしなみだの、お辞儀や挨拶なんかで、私とも結構ボカスカやり合ったわよ。口論するたびに、いっつも最後は『母さんとも、よく口喧嘩した』って、後悔混じりにぼやくの」

「南美子さんも偉いけど、頑張ったミントくんもエライね」

「大人だもの。芸術は、人間在ってのものでしょう。見るのも、応援するのも、評価するのも、取引するのも全部ね。私だって、よっぽど礼儀がなってない連中をぶん殴りたいことはあるわよ。だけど、そういう奴らは暴力じゃなくて、芸術で黙らせないといけないのよね」


カラリとした南美子の言葉に、甘理が微かに表情を変えた刹那、電話を切った明斗の、どでかい溜息がこぼれた。


「ミント、志方先生は何て?」

「『夏の個展で忙しかった』とか、しれっと言いやがりました……『言えよ』って突っ込んだら、『いちいちお前に言うのか』って逆ギレするし。あの二人がくっ付いたのは――ちょっとぐらいは俺のおかげですよね?」


結果的に言い負けた様子の悔しそうな顔に、甘理は可笑しそうに頷いてくれたし、南美子も姉のような呆れ顔で頷いた。


「谷さんはそう言ってたし、天邪鬼で気遣い屋の志方先生のことはあんたもよく知ってるでしょ。これで安心してイギリスに行けるんだから、感謝してると思うわよ」

「私もそう思うな。後でコマちゃんにも聞いてみるよ」

「はあ……もう~……良かった筈なのに納得いかないー……」

「ハイハイ、こういう時のミント先生は描くに限る! もやっとしてるものはキャンバスにぶつけなさい!」


尚もぶちぶち言う画家と、それをアトリエに押しやるマネージャーを眺め、甘理はぽつんと呟いた。


「……大人、か」




 その会員制のバーでは、二人の男が向かい合っていた。

落ち着いた照明が照らすシックな空間の中には、ガラスに仕切られた小さな日本庭園が点在し、苔生こけむした岩や松の木、花の盛りを終えた梅や枯山水が柔らかな灯りにライトアップされている。ジャズピアノが流れる中、周囲にしつえられた席は、どこも二人から四人のグループが囲み、静かな会話と上等な酒を楽しんでいた。

その一角で、男の一人は良いウイスキーを傾けた。


「聞いたか? 三咲先生のパパラッチ事件」


可笑しそうな調子で出た言葉に、向かいの男はどこか憂鬱そうな顔で頷いた。

五十になったとはいえ、白髪混じりの髪を適当に撫でつけ、全体に痩せ型のほっそりした様相は、年齢よりもずっと老けて見える。

一方で、話し掛けた男はよほど若かったが、態度は尊大でエネルギーに満ちていた。


「聞いてはいない。ネットニュースで見た」

「そうシケた面で言うなよ。おかげさまで、またコラボがトレンド入りしたんだ。芸能人でもない三咲センセイに夢中なキモヲタ様様サマサマだ」

磯崎いそざき、そうとは限らない」


陰鬱な相手の声に、グラスのウイスキーを回した男は怪訝な顔をした。


「何がだ、十塚とつか? 三咲明斗が流行るのはいいことじゃないか。的場晃生は他に取られて、『ミント色の街』はあのマネージャーに阻まれた末の、やっと掴んだチャンスなんだからな」

「あの脅迫状、本当にイタズラだと思ってないだろうね?」

「脅迫状?……ああ、『レディ・ミントを殺す』ってやつ?」

「そうだ。突発的で、届いたタイミングも変だ。私はどうも嫌な予感がする」


男の顔色は生っ白く、目元は将来を憂いた高齢男性のように暗い。

磯崎は「落ち着けよ」と言ってから、そのグラスにウイスキーを注いでやった。


「考え過ぎは体に毒だぞ」

「アルコールよりマシだと思うがね」


男は真剣な目で注がれた琥珀色を見つめた。それはたった今、誰かから搾った罪深い血であるとでも言う様に。

出会った頃からこの調子ではある。犯罪歴はおろか、離婚歴さえ無いのだが、何か過去にとてつもない罪悪感を感じたらしく、一度とて健康そうにしていた試しがない。


「磯崎、芸術家というものは……君が思うより複雑怪奇だ。プロか素人かは関係ない。偉大な者ほど、生まれた時から芸術家なんだ」

「あんたは見る目が有ると思うが……時々、何の話をしてるのかわからん。酔ってるのか?」

「酔ってなどいない。私は……あの脅迫状は、三咲画伯に向けられたものだが、芸術家の意図を感じてならない」

「なんだそりゃ。どっかの芸術家が、三咲画伯に嫉妬してるってことか?」

「違うと思うが、それに近い。『レディ・ミント』を描き続けるのは……いや、描いても良いが、今のような流行はやり方をするのは、三咲画伯を危険に晒すと思う」

「何のことやら。それじゃあ犯人はスランプ中の的場か?」

「そんな筈有るか!」


突然、きりりとまなじり吊り上げた男に、磯崎は肩をすくめた。


「怒るなって。わかってるよ……前に見かけたが、あれは脅迫なんかできっこない」

「そうとも……! 的場晃生は世間が言うような男じゃない。あれは玉城とニナが、彼を売る為に作った虚像だ。本来の彼は、子供よりも純真無垢で清らかなんだ。だが、彼の絵はあまりにも人臭さが無い……画材そのものが描いていると言っても良い無色透明なあれを、淡白だとか無機質だとか言う大衆の所為で、女絡みの幻が生み出されたんだ……」


少し怒ったような声で言う男に、磯崎は頷いた。


「わかったよ、十塚……あんたは的場を推した、初めての一人だもんな」


その一言に、男はぎくりとした顔をした。慌てた様にウイスキーグラスを掴み、細かに震える手でひと口飲んだ。

こう見えて、十塚は名も評価も優れた美術評論家だ。親類の知り合いだったこの男に近付き、顧問になってくれと頼み込んだのは、彼が高評価を下した的場晃生が爆発的に売れたのを見て、ピンと来たからだ。


「あんたの評論家としての目は頼りにしてる。的場じゃないのなら、あんなものを送りつけて我々のビジネスを妨害するのは一体誰なんだ? わかるなら教えてくれ」

「芸術家だ。しくはプロではなくても、私並に見る目の有る人間だ。だが、そいつは恐らく、君のビジネスなんかどうでもいい。きっと……『レディ・ミント』に何かを望んでいる……」


――描かれた女に、脅迫者が何かを望んでいる?

いよいよもって意味不明になってきた言葉に、磯崎はウイスキーを呷って首を振った。


「参ったな。俺には皆目見当もつかない」

「そうだろうさ。君は売れれば良いんだから」

「言いたいことはわからないでもないが、売れなけりゃどうするんだ。芸術家も画商も、芸術を愛する心なんかでメシが食えるわけじゃないだろ?」

「わかっているとも。肝心なことを忘れてはいけないということだ。真に売れる芸術は売れるから優れているのではない。優れているから売れる。ああ、しかし……売れていない芸術が優れていないとは限らない……金の有る者が必ずしも審美眼を持っているとは限らない……見誤る事だって……――」


神経質にブツブツと呟く男に、磯崎は嫌そうに眉を寄せた。

――審美眼を持つ者が、まともな人間とは限らない。

とはいえ、面倒臭いこいつの見る目は間違いない。

時代の流れが早すぎる今、ポッと出の流行なんか追い掛けるとロクな事にならない中、長く評価される価値の有るものを見極めるのは重要だ。

目の前のウイスキーだって、幾度も低迷を経験したが、確たる品質を維持したからこそ、プロデュースが上手い奴に巡り会えて此処に在り続ける。

流行りはマーケットには欠かせないが、若者が言う『カワイイ』なんて、たった半年後には『ダサイ』に格下げられていることが有るし、そもそも何故流行ったかもわからない。まさに流れされるようにバカみたいに売れたものにノッて店舗を増やしまくった企業が、二年を待たずにぶっ倒れたのも見て来た。

自分は、そんなてつは踏むまい。

今回、雇ったパティシエは良い腕だし、レストラン以外でのスイーツ店でのコラボも成功した。

三咲明斗は、まだ売れる。

彼が売れると見込んだ、目の前の面倒臭い評論家は正しかった。

だが、この男は時に奇妙な行動をとる。

一度は推したはずの的場の『ブランシュ』には目もくれず、後の『ミント色の街』を何としても手に入れろと言い、明斗が三年沈んでいた際も絶対に復活すると言い張り、全く違うジャンルで浮上して来たのを苦し紛れとしか思わなかった磯崎に対し、売れるから一刻も早く接触しろと太鼓判を押したのもこいつだ。

そして、いざ『レディ・ミント』と対面した後は……しきりに何かを恐れている。


「なあ、十塚よ……あんた、本当は何か隠してるんじゃないか?」


磯崎の問い掛けに、男はやつれた目元を上げた。


「何かとは何だ」

「さあね……俺にはあんたが、躍起になって三咲明斗を売ろうとしてるように見える。それとも……売りたいのは、このモデルの女か?」


恐ろしく座った目が、じっと見つめて来た。

もし、凶器を持っていたら殺される気がしそうなほど、鬼気迫る目だった。


「私は売れると思ったが、売れるかどうかは問題にしていない。芸術は正しく評価されるべきだと思っている……私はこれまでも正しい評価を下した筈だ……君のビジネスを手伝うのは、それを確認する為だ」

「やれやれ……さっぱりだ。もう良いから落ち着いて飲むといい。俺は三咲画伯が売れる間は支援するが、彼にこだわる気は無い。ダメになったら、また良い芸術家を見つけたら教えてくれ」


気軽に言うビジネスマンを見つめ、男は憂鬱な表情でウイスキーに口を付けた。


――愚か者め。芸術をダメにするのは作家ではない。


一流の店で出されるそれは、瓶も中身も同じものの筈だが、店、サービス、椅子、グラス、此処に揃えられた全てが値段を吊り上げる。

一流。最高級。丁寧な仕事。洗練された香りと味わい、美しい色。

この酒の有る場所は此処で良いのか。

此処が正しいのか……

男は憂鬱だった。

かつて、的場晃生に賞を与えた際の評価は正しい。

だが、その正しさを思う度、男は憂鬱だった。

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