名もなき巨人の歌
鳥辺野九
名もなき巨人
巨人の歌を聴いたことがあるか。
独り呟くようにじいちゃんが煙草を燻らせた。しーっと口の隙間から細く煙を吐き、薄く立ち昇る靄を目で追う。その視線の向こう、灰色の煙霧にかすれる巨人が悠然と佇んでいた。まるで山だ。
その巨人はあまりに大きくて頭なんて霞がかかってよく見えない。今日みたいに煙霧な日にはなおさらだ。びゅうと風が鳴って、ひゅるりと煙霧が巻いても、巨人の腹から上が雲に隠れて見えない。
歌なんて聴いたことないよ。わたしが答えると、じいちゃんは煙を吐く合間に一言だけ返してくれた。そうだな。そして美味そうに煙草を喫む。
巨人の全高は四万メートル以上ある。体重なんて計り知れない。一歩踏み込むだけで野山はひび割れ樹木も揺らぐ。わたしみたいな人間サイズから見たら、一日に一歩動いてるかどうかわからないくらいに巨人は大きい。
わたしたちが暮らす惑星シグムントは地球よりもふた周りは大きな星だ。その分だけ空も高く、大気も濃ゆい。四万メートルある巨人の頭部は重たい雲の向こう側にあってうっすらした影にしか見えない。たまに良く晴れた日、はるか遠く空の高み、歪な角の生えた頭がかすんで見える。
あれだけ大きな巨人からすれば、人間なんて小さ過ぎて気にもとめない存在だろう。わたしがいることに気が付きもしないはず。
巨人って歌うの? わたしが尋ねるとじいちゃんはゆっくりと首を傾げた。ワシも知らん。そう答えた。
なんだ、そうか。どんな歌を歌うのか、知りたかった。遺骸掘りの名人であるじいちゃんですら聴いたことがないのなら、人類はまだ誰も巨人の歌とやらを聴いたことがないのだ。そう思う。
その巨人に生物学的名前はない。ただ巨人とだけ呼ばれている。人類が惑星シグムントへ入植した頃から姿は変わらず、数百年と共存し続けた静かなる生物だ。共存? 人類側の一方的な寄生かな。
また煙霧が巻いて風が吹き下ろされた。びゅう、びゅう。分厚い雲の灰色がゆらり波打って、どろり流れ落ちて、巨人の身体の一部が露わになった。あれが、巨人の胴体部だ。たぶん。
その巨人の肉体はいわゆる人類とはかけ離れている。
腕と思しきものには数ヶ所の関節があり、肩だと判断できる部位からだらりと垂れ下がっていて動きの自由度はわりとある。腕の先っぽの関節に二対のぐるぐるが生えていて、手のひらのようなものがあるので、たぶんあのぐるぐるは指だ。胴体は意外と長い。これと言って特徴がなく、山の岩肌のように空に向かって伸びているだけだ。脚だと思われる移動に使われるパーツは七本確認されている。人間との大きさが違い過ぎて、その動きは思いっきりスローに感じられる。七本の脚のうち二本は常に地面から離れていて、四本は接地していて、宙空の二本と地面の四本とを順繰りに進行方向へ踏み出して移動している。残りの一本の脚の用途は未だ不明。実は足じゃないかも説。そして尻尾が一枚。一本と言うよりも一枚。引きずって、たまに宙に浮かばせてバランスを取っているのだろう。引き摺り過ぎて尻尾には土が堆積してしまい森のように樹々が育っている。尻尾は歩く森林だ。若干前屈みの姿勢で、背中に大きな何かがひと盛り。これが何だかさっぱり。角の生えた頭は遠くてよく見えない。顔に目や口っぽい穴も確認できていない。
巨人が歌うかどうかは別として、仲間と会話するのかな。わたしは率直な疑問を声に出してみた。わたしがじいちゃんとお話しするように、どこかに巨人の仲間がいて、わたしのように声を出しておしゃべりするのかな。
じいちゃんは首を傾げて煙を吐くだけで、声には出さなかった。これだけ大きい巨人なのだ。声だって相当にでかいだろう。巨人の歌を誰も聞いたことがないのだとしたら、巨人は喋らないのかもしれない。どんな手段で仲間と意思の疎通を図っているのだろうか。
その巨人が何体存在するのか未だに把握されていない。わたしの十八年の人生で、生きて動いている巨人を見たのは三体だけだ。あとはすべて遺骸のみ。この惑星シグムントはあまりに広大過ぎて、人類が入植して数百年経つのにまだ全域調査が完了しておらず、未調査エリアにまだ見ぬ巨人がうじゃうじゃいるのかもしれない。それとも、目の前の巨人が惑星最後の一体なのかもしれない。
何もわからない。
その巨人の生態は何一つわかっていない。何年生きるのか。何を食べているのか。幼体がいるのか。今以上に成長するのか。どうやって生まれるのか。声を出すのか。歌うのか。何を考えているのか。どこから来たのか。どこへ行くのか。
どうやって死ぬのかだけは人類は知っていた。惑星の彼方此方に遺骸があるからだ。
その巨人はあまりに大きくて、遺骸が一つあれば、人間一万人が三世代に渡って食べていくだけの食糧とエネルギー源の発酵油が手に入る。遺骸掘りだなんて新たな職人が生まれたりする。遺骸は人間の棲家となる。巨人の遺骸は人間の街だ。
その巨人に生物学的名前は、まだない。
「巨人が死ぬ瞬間なんてワシも初めて見る」
わたしのじいちゃんは遺骸掘りの名人。みんなが暮らしている洞窟街もじいちゃんたちが掘った街だ。そんなベテラン遺骸掘り師が言うんだから間違いない。
わたしははるか彼方を仰ぎ見た。巨人は穏やかにそこにあるだけに見える。
巨人は、死んだ。
「ニケ、よく見ておけよ」
音もなく傾ぐ巨大な肉体。
すべての筋肉から緊張が解けていくのがスローモーションでわかる。踏み出していた大き過ぎる脚も、輪郭が緩んで力が抜け落ちるのが見てとれた。あれだけ大きくてもやはり惑星シグムントの重力に囚われているようで、その力ない巨体は見えない糸に引かれて前に傾き始めた。
わたしとじいちゃんのベースキャンプから数十キロ先、巨人はとても遠くにいるので、崩れ落ちる巨体の最期の足音がわたしの耳に届くのにおそらく数分はかかるだろう。
「まだ近付けないぞ。バカデカ過ぎて、完全に倒れるのにも時間がかかるんだ」
「何分くらい?」
「三時間ってところだな」
遺骸掘り師の見積もりで、あの巨体が地に沈むように倒れ切るまで三時間。巨人が崩れ落ちる時に脚が変に曲がってしまって、こっちに向かって倒れて来やしないか。倒れ方次第では全高四万メートルに押し潰されてしまう。
「慌てる必要はない」
腰を浮かしかけたわたしの気配に、ベテラン遺骸掘り師は教えてくれる。悠々と煙草の煙を吐きながら、あの倒れゆく巨人みたいに地面に寝っ転がった。
「巨人が倒れると地面が大きく揺れまくる。その後突風が吹き荒れる。それさえ凌げば、あとはワシらのものだ」
巨人の肉体が大き過ぎて、それが倒れれば衝撃ですぐに大地震がやってくる。じいちゃんが寝っ転がったかすかな振動がそうだ。そして大地の鳴動に遅れてくる暴風。巨大な身体に押し出された空気の塊が襲いかかってくる。寝転がるじいちゃんが巻き起こした小さな砂埃とは規模が違う。
「わしらはまだあの辺りにいる」
寝っ転がったじいちゃんは自分の身体を巨人に見立てて、地面に横たわるつま先から一メートルくらい向こうの草むらを煙草で指差した。
「ずいぶん遠いね。もっと近くで見たいな」
「腕がうまく身体から離れてくれればいいんだが、腕がどっちに傾くかはぎりぎりまでわからん」
安全な距離を取って地震と嵐をやり過ごし、地盤沈下が収まるまでさらに一日。そうして巨人が死んでから二日後、わたしたちはようやく遺骸に辿り着けるのだ。
「遺骸掘りは、できれば腹の上辺りからだな」
じいちゃんは自分の脇腹に指を這わせた。防塵ジャケットの上から指でなぞり、心臓の側を通り抜け、とんとんとつつく。
「心臓の辺りから掘るの?」
「あれが心臓ならな。血管が太いし、周辺に骨もないから掘り進みやすいんだ」
倒れゆく巨人を見やれば、目的の心臓らしき部位に特に目印になりそうな身体的特徴はない。今のうちに倒れる角度を見計らって、遺骸を掘り始める掘削ポイントを特定しとかないといけない。
「テントを畳んどけ」
むくり、起き上がってじいちゃんは言った。
「ここも危ないかな。巻き込まれる?」
巨人の遺骸はまだ立ち尽くしている。少し傾いてはいるが、頭部はまだ灰色の雲の向こうで見えていない。
「南に向かって真っ直ぐ倒れるだろう。少しだけ離れとくか」
ベースキャンプのテントを片付けて、荷物をまとめて車に積み込む頃になって、巨人の遺骸の全容が空を割って現れた。
灰色に染まった重そうな雲が押し退けられる。巨人の上半身が、歪に角が生えた頭部が雲間に現れた。雲の灰色を吹き飛ばす。散り散りになって掻き消える重たい雲。その様子はまさしく空を割ったようで、空の裂け目から巨人の頭がこちらを覗いているみたいだ。
死んだばかりの巨人の頭。初めて見た。遺骸の頭部は倒壊の衝撃で崩壊してしまう。それくらい脆い生き物なのだ。生きている巨人の頭部はあまりに遠くにあってよく見えない。それくらい儚い生き物なのだ。
左右非対称の大きさの角のせいか、頭部が身体の倒れる方向と違う角度に傾いた。ちょうどこちらを視るように。わたしと目が合うように。
巨人の頭部には七つの黒点があった。たぶん、あれが目なのだろう。巨大過ぎるがゆえにあまりにゆっくりと倒れる最中に、はるか遠い足元に佇むちっぽけ過ぎるわたしを見つめる巨人の七つの目。
ようやく巨人が倒れる音がわたしのところまで響いて来た。びゅう、びゅう。頭の角が風を切る音だ。そうか。これは風の音ではない。巨人の声だ。びゅう、びゅう。わたしは気が付いた。風音だと思っていた音は角が奏でる巨人の歌声だ。
巨人はまだ生きている。身体はもうすでに死んでしまい立っているのを維持できなくなっているが、意識はまだ生きているんだ。わたしを見ているんだ。歌っているんだ。
やがて、巨人は完全に倒れるだろう。数分遅れて轟音が響き渡り、すぐに地震がくる。嵐が吹く。この辺りの地盤はめちゃくちゃになる。
わたしとじいちゃんは急いで車に乗り込んで巨人の遺骸から距離を取った。
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