第6話


「離して」

 有無を言わさぬ強い語調だった。弟は私から離れて、うち捨てられていた腕を拾う。自身の断面に押し当てていたが、勿論繋がることはない。

 彼は粘液の線が途切れた地点に顔を向ける。その表情は私の位置からは見えない。

「絶交だ」

 静かな声だった。だけど、失意と憎悪を色濃く感じさせる声色だった。大人は言わないような、幼稚な単語で懐かしくなる。その言葉を自分が使っていた時、どんな気持ちで言っていたのか。限られた語彙の中で、最大限自分の気持ちを表現しようと発言した言葉だ。彼はさらに付け足す。

「顔も見たくない」

 彼は背を向けたまま、一歩踏み出し、また一歩踏み出し、どこかへと歩み去って行った。

 言葉もなく立ち尽くす私の頭の中で、虫が言う。

「こんなこともあらぁな」


 何もする気が起きなくて、自宅のソファでぼんやりと横たわる。だらける行為から生じる幸福を心身に染みこませていた筈だった。それなのに脳がサングラスをかけているようで、気持ちが暗い。横になっていても、腕から針のように生えた爪が押されて痛い。目に見える範囲の変異は腕の爪だけだが、体勢を変えるとまた別のどこかが痛むのである。腹立たしくて叫びだしたい気持ちが、とにかく全てが面倒だという怠惰な気持ちに覆われて、大人しくしている。

 何の番組も流れない筈のテレビが、突然明るい光を発した。電源を入れっぱなしでいたらしい。突然の眩しさに目を閉じると、聞き覚えのある潔癖な口調が耳に届いた。

「臨時ニュースです」

 清潔なニュース番組の映像が流れる。過去の放送ではなく、新しく今録った物らしい。国民的ニュースキャスターのお姉さんが、変わり果てた姿でテレビに映り微笑んでいた。肌の色がおかしい。まばらに緑に変色した皮膚。中々に衝撃的だった、あんなに綺麗だった人が。

 お姉さんは前置きもそこそこに、早速本題へと入った。映像は時々かすれたり、音声が途切れたりと怪しい動きを見せている。そんな中でもお姉さんの語り口は、明朗として鮮明、プロの技量が際立っていた。

「変異治療薬が完成しました」

 映像が切り替わって、件の人間を信じる会が映る。

 喜色満面の人達がいた。その見た目に変異は見つからない。しかし時折、指や耳の欠けた人が混ざっていた。

 その連中が説明する内容によると、治療薬は一人分の量が肉塊十人分から抽出可能であって、今のところは数が限られていることから、肉塊提供者と会員を優先して治療薬の頒布が行われるとか。今度は治療薬量産のための研究を開始したとかなんとか言っている。

 液晶画面の中で起きている事態に、全く心が動かない。きっとすごいことなんだろう。誰もが待ち望んでいた日が今日だったんだろう……。テレビの中は祝いの色一色である。それがなぜか、理屈ではわかる。感情がついていかないのだ。


 歴史に残る偉業。今後もこの人類の歴史が続いていくという予測が立ち、危機を脱した可能性が高く見込める。それは素晴らしいことなんだろう。

 しかし私は、世界はもう終わったのだと思っていた。だからこそ、払った犠牲という物がある。私だけに限らない。誰もがそう、未来を諦めたからこそ平穏に暮らし、色々なことを放棄した。教育の場が消え、生活のシステムが崩壊し、人は友人知人を切り捨てた。それが今になってから未来を示されて、どうしろと言うのだ。これまでの選択が、来ると思っていた終わりに向けての準備の全てが、未来への礎の一つだったと言い捨てられるのか。

 治療薬の完成を喜ぶ人達が、もし本当に心の底から笑っているのなら、大切なものが欠けてしまった気がしてならない。あまりにも多くを失った。倫理を、人権を、尊厳を。私は笑いたくはない。

 それでも、人間の記録がこれからもずっと続いていくのなら、今日のような日は些細だ。例えば私が今少し絶望していたとしても。未来のためには、この思考はまさしく非生産的な感情論であって、全くの無価値なのである。

 世界はいつも残酷だ。誰かの光は、誰かの心の闇になる。

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