第2話 守り神様

──それから、十数年後。

 あの人の予言通り真冬には弟が生まれ、安産であったため母も健在である。両親と三兄弟とで仲睦まじく暮らしており、今日も絶好の農業日和であった。

 田んぼの拡がった光景を横目に真冬は走っている。手にはお茶菓子を詰めた風呂敷。軽快な足どりのまま、森の神社へ向かっていた。

 道中すれ違う友人に呆れ顔で「またか?」と笑われながらも、真冬はあの人に会いに行く。


「葵さーん!」


 しっかりと参道の端を駆け抜け、立派に構える本殿の前に立ちはだかる。恐らく村の中では真冬だけしか知らない抜け道を通り、本殿の扉のすぐ前へやって来た。

 一体この神聖な場所を何だと思っているのか。

 大きな声を上げて本殿の扉を叩き、中にいるであろう人物を叩き起こした。

 するとその行為が中にいる「誰か」の怒りを買ったらしい。真冬の後ろで一閃が走り、爆音と共に荒々しい雷が境内の地面を抉る。

 雷鳴が雨雲を呼び、穴となった地面に土砂降りの雨が溜まり始めた。反り返る屋根が真冬を守ってくれたけれど、鳴り始めた空模様に「あちゃあ」と顔を覆う。


「……真冬」


 扉の奥から地を這うように低い声色で名前を呼ばれた。ここに来るまでに走って描いた汗が一気に冷え込む。

 ああ、怒っている。

 これは確実に、無理やり起こしたせいだ。

 扉越しでも感じる怒りの雷に乾いた笑いを見せる。


「いや、もうお昼どきですし……」

「じゃあ何。もう私は夜中に起きて村の結界を強化する日々から開放されて良いわけ。結界が壊れたら獣に脅かされるのは君たちの方なのに?」

「うわああごめんなさい! ありがとうございます!」


 しかし決して許さないと言わんばかりに雨の勢いは増していく。同時に吹き荒れる強風も相まって、屋根の下にいるはずの真冬にも雨風が当たり、服が濡れてしまった。

 寒い、寒いなあと思っていると次第に雨風は弱まり、数分後には元の晴天に戻った。

 上を見上げると青空が覗く。

 真冬は後ろの扉を見つめ、この奥にいるであろうその人を思い浮かべてクスクスと笑った。


「……なに。風邪を引かれて──」

「風邪引かれて困るのはこっちなんだからしょうがなく、ですか。全く……素直じゃないにも程がありますよ」


 全く困ったものだと大袈裟に首を振る。

 すると雨は振らずとも強風が真冬を突き上げた。

 右に左にと風が吹き荒れ、下から上にと縦横無尽で舞う。髪も服も乱れ崩れの強風に、参ったと真冬が降参すると次第に収まっていく。

 すうと消えていった強風を見つめて、すっかりと水気の飛んだ服を伸ばしながら微笑んだ。


「今ので服が乾きましたよ」

「……運が良かったね」


 まるで故意とは思わせない口ぶりに、滲み出る隠しきれない優しさが真冬の心を鷲掴みにしていた。



───もうここに来てはいけないよ。



 そう言われたあの日。

 母と共に家へ帰ったはいいけれど、真冬はそのまま忘れてやる程聞き分けの良い幼子ではなかった。

 言われたことなど忘れたフリをして、真冬は翌日、再び神社へ舞い戻る。まるで道場破りにでも来たような態度で、葵を呼び出したのだ。


「鈴の人! 出てきてください!」


 葵はさぞかし困惑したことだろう。

 つい先日忠告したというのに、境内の中にあの幼子の姿が見えたのだから。

 しかし呼ばれたからといって葵は姿を現すことはしない。本殿の中から真冬を見つめ、諦めるまで隠れ続けた。

 夜になって母が真冬を連れ戻す。けれど真冬はまた翌日にやってきて、その翌日、そのまた翌日と神社に通い続ける。

 決して諦めない真冬の姿勢に、先に折れたのは葵の方だった。

 トントン、と本殿の扉を叩き、自ら音を出すことで真冬に気づかせる。思い通り音に気づいた真冬は、扉の前まで急いでやってきた。


「村の、っ守り神様!」

「……そう、お母さんから最低限の知識は貰ったんだね」


 より近くに寄りたいと真冬は本殿に乗り上がり、扉に触れながら会話を続ける。

 扉の奥から聞こえる声に喜びを隠せずにはいられない。屈託のない笑顔は健在で、聞かれた質問に嘘をつかずに答える。


「……で? どうして君はここに来るの」

「守り神様に会いたかったんです」

「今、会えたわけだけど。これでもう来ないでくれる?」

「……? 何をおっしゃいますやら、会えてなどいません。顔をお見せください守り神様」

「君の両親が常にどういう会話をしているのかが目に浮かぶね」


 幼子は遠慮も知らない。

 会話がしたいと口を挟み、途切れることなく今度は自分から質問を重ねた。

 物理的に迫るにはもう距離が足らず、精神的に迫ろうとしたけれど、葵は仔猫と戯れるかの如く幼子を操る。

 ふわりと浮遊感を感じたと思うと、真冬はその場で意識を落とした。


──気がつくと目の前は家だった。


 突然の出来事に眉を顰めて首を傾げると、目の前の扉が勢いよく開いて顔面をぶつける。


「あっ、ごめん」


 中々帰ってこない真冬を心配した兄が、丁度玄関の扉を開けたらしい。ジンジンと痛む鼻先を抑えて丸み屈むと、真冬の兄──斗馬が慌てて背中を擦る。


「ごめんな、全然帰ってこないから心配で…」

「ううぅ……」

「痛むか」


 血は出ていないかと確認して、大丈夫だと親指を立てる斗馬の笑顔に目を細めた。

 家に入る前に森の方向を見つめ、つい数分前まではあの中にいた筈なのにと不思議に思う。

 恐らくこの不思議な行為は守り神様によってもたらされたものなのだろう。帰れと言われても帰らなかったからだろうか。それで邪険にするように家に放り投げられたのか。


「真冬、今日はどこに行っていたの?」

「守り神様のところ。でも気づいたら家の前で……守り神様に返された」


 ご飯口にしながら不満を流し、森の方向を睨みつける。その視線に気づいた斗馬に行為を咎められたが、納得の行かない真冬はフンとそっぽを向く。


「村の守り神様に会いに行って何が悪いの? 村にとって大切な人とは、仲良くなっちゃいけないの?」


 自分の気持ちを否定されているようで気に食わないのだ。幾ら腹を満たしたところで、この鬱憤は晴れそうにない。

 仲良くできないことに悲しみを抱き、それが怒りに変わっている様子を見て、母は神妙そうに真冬を見つめた。

 真冬は母の視線に気づくと箸を止め、首を傾げて「なに」と問いかける。


「真冬、あなたもしかして守り神様の鈴の音を聞いたの?」

「え、鈴の音を?」


 母の言葉に驚いた表情を浮かべて、斗馬も真冬の顔を見つめてきた。二人の強い視線に目を見開き、真冬は隣に座る父の袖を引く。


「と、父さん」

「聞いたのか?」

「な、父さんまで」


 汁物を啜りながら父も真冬を見つめる。

 合計三人の視線と、さらに加えれば母のお腹の中からも視線を感じる気がした。尋問を受けているような感覚に少しだけ怯えながら、けれど聞こえた事に罪はないと顔を横に振って答える。


「……聞いた。すごく、キレイな音だった」


 真冬の言葉に三人は息を飲み、斗馬は驚き、

母は笑みを浮かべ、父は汁物を啜った。


「ふふ、家に返されたのはそれのせいね。守り神様はあなたを守りたいのよ」

「お前鈴の音聞くの早いなあ。普通は十二を過ぎてからだぞ」


 二人が納得したように談笑する。

 会話の内容は全く知りもしない事柄で、真冬は頭の上に疑問符を浮かべて父の袖を引いた。父はズズズと汁物を飲み終える。

 真冬はこの村のことについて、村を守る神様のことについて何も聞かされていないのである。

 ちっとも箸に手がつかなくなった真冬を見て、母は微笑ましそうに笑った。


「じゃあ、今日は守り神様についてもっと詳しく教えてあげるわね」


 両手を合わせて母は嬉しそうに微笑む。

 斗馬は囃し立てる様に拍手をして、真冬の隣に座った。

 父も汁物の器を下に置き、始まった物語談話に耳を傾ける。


「昔々、他の村よりも獣による被害が多く、作物や人への影響がとても酷かった村がありました。太陽のご機嫌を取るのも苦手だったその村は、天気すらも味方につけられません」


 大きなお腹を愛おしそうに撫でながら話を続けていく。今度生まれてくる子供にも聞かせているようだった。

 斗馬も同じように真冬の頭を撫でながら、母の語りを催促する。


「そんな村を助けてくれたのが、今もこの村を見守ってくれている、森に住む神様です。神様は獣の被害を無くすため村を覆うように結界を張り、お天道様との仲を取り持ってくれたため作物もよく育ちました。そうして栄え始めた村は、助けてくれた神様を祀り、讃えます」


「そして同時に、何故こんな冴えない村を助けてくれたのかと疑問が生じました。その疑問は瞬く間に村中に広がり、村人全員で神様の住む本殿まで聞きにいったのです」


 母の語りに斗馬も加わる。

 こくりと水を飲み、わざわざ喉を潤わせていた。母も斗馬も、そして聞いている父も、森に住む守り神様のことを思い浮かべて話し、聞いているようだ。


「聞かれた神様は答えました。『ずっと、伴侶を探している』顔を赤らめながら答えるその姿に、村人は一層困惑します。『この村に貴方様の伴侶がいるのですか?』そう聞くと神様は困ったように笑い、こう言いました」


「『未だ、いない』その呟きの後、神様は続けて言います。『いつかきっと、この村に私の伴侶となる人が現れる』だから、この村が消えては困るのだと、神様は言いました」


「『ならば我々も、身を尽くして貴方様の伴侶となる人を探し出しましょう』村人はそう団結し、今でも神様の伴侶となる人物を探し続けているのです」


 ぱちぱちぱち。

 物語の終わりを迎えたように母と斗馬は拍手をする。「運命的な話ね」やら「何度聞いても美しい」との感想が飛び交っていた。

 しかし、真冬は首を傾げる。

 話を聞いても重要な箇所が説明されていないではないか。


「それが、鈴の音と何の関係があるの?」


 斗馬の袖をグイと引いて問いかける。

 斗馬は真冬を見つめ、何かを思い馳せるように呟いた。


「鈴の音色が聞こえた人が、神様の伴侶となる可能性がある人なんだ」

「……え」

「この村で生まれた子供は必ず神社に出向き、守り神様と対面する機会が設けられるのよ。本来なら十二を過ぎた辺りに会う筈だけれど……、真冬は運が良かったわね」


 突然の好機に何度も瞬きを繰り返す。

 鈴の音を聞いた人物が、守り神様と伴侶になれる人物だと。それはつまり、真冬はあの守り神様と共に暮らせる運命が存在しているということか。

 にまにまと嬉しい笑顔が止まらず、えへへと両手で頬を抑えて体を揺らした。嬉しい、嬉しいと笑顔で溢れている時に、ふと気づく。

 一体それでどうして家に返されたのだろう。

 守り神様ならば鈴の音の話の下りを知らない筈がない。なにせ当人なのだから。

 それなのに、何故「来るな」と言ったのだろう。


「ねえ、母さん」

「さっきも言ったでしょう。守り神様はあなたを守りたいのよ」


 先程までの笑顔はどこかへ消え、母は静かに目を伏せてそう告げた。

 守りたい。

 自分を?

 一体どういうことかと隣を見上げる。

 斗馬は頷いて、口を開いた。


「物語の中では伴侶となる人が村に現れたなら、今までの感謝も含めて有無を言わさず守り神様の元へ行かなくちゃいけない……んだけどね、どうも、それが嫌らしい」

「嫌? 嫌って、何が」

「……そうだな。俺が十二になった頃、守り神様の元に行って鈴の音を聞いたんだ」


 斗馬は真冬の頭を撫でる。

 そうしてあの日を思い返すように瞼を閉じて、自分の体験談を話し始めた。



──斗馬は白い衣装で身を包み、緊張しながら本殿の中へ一歩足を踏み入れる。


 一歩、二歩とゆっくり進んでいくと、入ってきた扉が閉まり、目の前に狐の面で顔を隠した大人が座っていることに気づいた。

 ゴクリと唾を飲み込み、その場に正座する。


「……ま、守り神様……ですか?」

「そう固くならないで。まずはこの音を聞いてほしい」


 守り神様が取り出したのは短い紐に括り付けられた一つの鈴であった。穢れのない綺麗な指先で紐をつまみ、ゆっくりと左右に揺らす。

 リン──とその場に鈴の音が響く。

 心地の良い響きだ。ずっと聞いていたい。

 先程まで緊張していたのが嘘のようで、トクントクンと正常に鼓動する心臓の音までもが心地よく感じる。

 思わず笑みを浮かべて、ほうっと息を吐く。


「……聞こえた?」

「はい。……凄く、綺麗な音でした」

「そう。じゃあ、もうここに来てはいけないよ」

「え?」


 守り神様は手にしていた鈴を胸元に仕舞い、狐の面を抑えながら淡々と語る。


「いいかい。君にだって生きる自由がある。鈴の音が聞こえ、伴侶になる可能性があるからと言って、君の人生を縛りたくない。自由に恋愛をして、好きな子ができたらその子と婚約を結ぶといい。その時に君が本当の伴侶だと分かっても、私は君を求めない」

「え……ですが、守り神様は伴侶を求めてこの村を」

「随分昔のことだからね。忘れてしまったよ」


 そう言ってクスクスと笑う守り神様は、狐の面で顔を隠していても見えない美しさを感じた。

 きっと面の下はもっと綺麗なのだろう。

 けれど、これ以上踏み込むのは無礼だと我慢する。


「だからね、もうここに来てはいけないよ。ここに来て私のことを想ってしまえば、自由とは無縁の人生を歩むことになるからね。村を出るのも良いかもしれない」


 ピンと指を立てて提案を続けた。

 そのどれもが村人に寄り添った現実味を帯びている実現可能な内容だ。一体どれだけの時間をかけて、村人のことを想ってくれたのだろうか。

 なんて優しい方なのだろうと胸を熱くさせる。

 すると突然、バンと大きな音を立てて後ろの扉が開いた。


「さあ、もうお帰り」


 開いた扉から漏れた光が本殿の中を照らす。

 視線の先には狐の面をつけた守り神様がいる。優しい声とは裏腹に、狐の面は笑顔も涙も見せてくれない。


「ここに留まる理由はなくなっただろう」


 どこからか笑い声が聞こえてくる。

 来るな来るなと騒ぎ立てている。

 狐の面は恐ろしい程に無表情であった。


「私が本当に君を欲しいと思ったなら、天を味方につけて奪いに行くよ」


 鳥の甲高い声が耳を支配する。

 目の前の暗闇は簡単に幼子を呑み込めるだろう。後ろから差し込む光が暗闇をより一層際立たせた。

 ゾッと背筋が凍りつく。

──逃げなければ。目の前の恐ろしい「誰か」に捕まってしまう。早く、早く。

 笑顔の似合う幼子は、暗闇よりも光を求めて走り出した。後ろは振り返らず、暗闇と扉の境界線を踏み越えた、その瞬間。


──バンッ、と本殿が閉じた。


 冷や汗が止まらない。

 暗闇から逃げ出せたことに喜びを感じ、拳を掲げ、大きく息を吸い込んだ時、ハッとする。


「……」


 鳥が鳴いていた。

 先程聞こえた甲高い声とは程遠く、仲間を呼ぶようにチュンチュンと可愛らしく鳴いていた。

 光が差し込んでいる。

 暗闇と対比するために生まれたわけではない。斗馬の体を包み込むような、優しい光がこの場に満ち溢れている。


「……」


 守り神様から逃げたこの瞬間、理解した。

 恐らく今までも、斗馬と同じように守り神様の優しさを感じて帰ろうとしない幼子が沢山いたのだろう。

 あの優しい守り神様は、そんな幼子たちをどうするべきか考えあぐねて、そうしてこんな方法を見出したのか。幼子を守るために、幼子に嫌われるやり方を見つけたのか。

 斗馬はグッと拳を握りしめて、本殿に向かって頭を下げた。


 この村は守り神様によって守られている。

 村だけではなかったのだ。斗馬も、幼子も、村人も、全て守り神様に守られていた。


 深く深く頭を下げて、斗馬はお礼を述べる。

 最後の台詞に怯え、逃げ出してしまった。斗馬はそのことを今も後悔していた。



❊❊❊


 また一つ、守り神様のことを知れた。

 床についた夜更けの時間帯。

 真冬は瞼を閉じながら、守り神様の事を思い浮かべる。


 鈴の音を使い、伴侶を探している守り神様。

 伴侶の為に村をずっと守ってくれている神様。

 けれど、実際は伴侶を見つける気が一つもない神様。


 村人の自由を何よりも大切に思うのに。

 自分自身の自由については考えていない。

 そんな守り神様を想い、真冬は眠りについた。



❊❊❊



 翌日。目を覚ました真冬は、再び神社へと赴いていた。


「守り神様ー!」


 一体昨日の夜に何を聞いたのか。

 鈴の音が聞こえる幼子が、神社へ来ることを嫌がっていると知れた筈なのに。守り神に対して過干渉になるのを何よりも危惧している守り神だと気づいた筈なのに。

 真冬の行動は守り神様への冒涜であるだろう。

 それでも真冬は神社に佇み、本殿の扉の前で、守り神様に届くよう大きく叫ぶ。


「俺達の心配をしてくれている守り神様! 伴侶となる可能性がある人を全て遠ざけ、自由にさせている守り神様!」


 昨日の夜に聞いた言葉を利用する。

 幼子だから軽くあしらえば良い等、簡単に考えてもらうと困るのだ。背伸びをするように大人びた言い回しを叫ぶ。


「あなたの考えは理解しました。きっと俺を避けるのも、過干渉を防ぐためなのでしょう?」


 その通りだと言わんばかりに風が吹く。

 また砂埃が舞うだろうか。舞ったところで、真冬が見つめる先は変わらない。

 この視線の先には守り神様がいる。自由を選べと村人を遠ざけている、最も不自由な人が。

 グッと涙を抑え、大きく叫んだ。


「けれど、そうしたら守り神様はずっと独りだ!」


 静寂がこの場を襲う。

 先程まで吹き荒れていた風も砂埃もシンと収まり、鳥も木の葉も音を出さない。周りの環境が変化しても、真冬の視線は一点に注がれていた。

 石段の上を歩き、この前のように本殿に乗り上がる。扉に両手をついて音を鳴らし、もう一度「守り神様!」と呼びかけた。

 返事はない。


「……そんなのおかしいでしょう、守り神様」


 一切の音が消えた境内に、真冬の呟きが響いた。コツリと額を扉に当て、自分の幸せを願ってくれと祈りを捧ぐ。

 あの日の母のように。

 一心に守り神様のことを想って。


「──うるさい」


 扉の奥から地を這うような低い声が響いた。

 聞こえた声に真冬は目を輝かせる。

「守り神様」とかけようとした声は、突然感じた浮遊感覚に遮られた。その言葉通り真冬の体は宙に浮いており、わたわたと暴れても空を切るばかりで自由が効かない。


「うわぁっ!?」


 ヒュンっと体が空を飛び、ドサリと落とされた場所は、酷く見知った場所。


「……家」


 また、返された。

 けれどここまでされて諦める筈もない。何度家に返されても、何度家に飛ばされても、決してへこたれることなく通い続けようと心に誓う。

 両親はそんな執着心に呆れて物も言えず、友人もケラケラと笑うばかり。応援してくれたのは斗馬だけだろう。

 誰に何と言われても、真冬の辞書に「諦める」の言葉は存在していなかった。雨に振られても、風に吹かれても、雪の日も熱暑の日も神社へと足を運んだ。

 本殿の前に座り込んで、コンコンと扉を叩いて守り神様に存在を知らせる。こんなことしなくても気づいているかもしれないが、自分から来たことを知らせたかった。


「守り神様」


 面白い話、嬉しい話、悲しい話。

 村で起こった様々な出来事を、物語形式で語っていく。果たして聞いてくれているのか。全く確認する術はないけれど、聞いてくれている可能性があるのなら、せめて退屈しないようにと言葉を連ねた。

 通う日に休みはない。

 発熱をしていても、親の目を盗んで神社へ向かった。いつも通り、気づかれないようにと話していたのに、目が覚めれば家の中で眠っている。その度に母に怒られるけれど、守り神様が心配してくれたのだろうかと上の空だ。

 心の中は守り神様で埋め尽くされていく。

 この気持ちは誰にも止められそうにない。

 例え返事がなくても、側に居られるのなら。あの本殿の前に座ることが許されているのなら、真冬は何があっても平気であった。


──しかし、不運が巻き起こる。


 何度も何度も神社に足を運んでいたら、いつの日か神社に入ることすら許されなくなった。

 真冬専用の結界が張られたのか、鳥居を潜ろうとすると弾かれるように後退してしまう。


「っ守り神様!」


 見えない壁が真冬を阻む。

 どんなに押しても、どんなに回り込んでも入れない。何を持ってきても、何を投げ込んでも、真冬だけは入れないように結界がそこにあった。

 何度も結界を叩く。

 壊れることはないと分かっている。獣の被害のために村に張られている結界と同じものだ。真冬のような子供が壊せるようなら、獣は今にでも村を襲っているだろう。


「……っ、……守り神様……どうして…」


 夜になって母が迎えに来るまで、真冬は鳥居の前に座り続けた。母が「真冬」と名前を呼ぶ。その声が聞こえたら、帰るようになった。


 結界は真冬が十六になるまで続くことになる。

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