【大人の精神は】
雪奈と別れた春斗は、廊下まで話し声が聞こえてくる2年A組の教室の前に立っていた。
既に朝のホームルームは終わっており、次の授業の準備をする時間。
当然のように教室内はざわざわと騒がしく、これからそんな空間に自分が入って行くのだという事を想像すると、体は金縛りにあったように動かなくなっていた。
春斗は緊張を解くために深く深呼吸をする。
そして、扉に手をかけるが……。
――ふぅ……次は開けよう……次こそは……。
次の瞬間には手を元の場所へと戻していた。
扉に触れ、離す。
そんなことを繰り返すこと数回。
"次"という言葉は自分への甘えの免罪符になるという事を、大人である春斗は知っているはずだった。
しかし、混乱した頭ではそのことを思い返すことなんてできなくて……。
――普通に遅刻してくるだけでも緊張するのに、社会人である俺がこれから十以上も年齢が離れてる高校生の中に割って入る? 無理に決まってるじゃん!
と、次から次へと頭に浮かぶ言い訳を心の中で叫ぶ春斗。
そんな時、ふと父親が昔言っていた言葉を思い出した。
"大人になると虫とか、怖いものが増えるものなんだ!"
それは幼少の頃。ダンゴムシを大量に家に持ち帰った時にビビり散らした父の言葉。
当時は父親の事を情けない。などと思ったが、今実際に自分の息子が手に溢れるほどのダンゴムシを持ってきたらと考えると発狂すること間違いなしだろう。
大人になると怖いものが増える。
その言葉の意図するものは、年を重ねるごとに色々な経験をして、好きなもの。嫌いなもの。それらを選別して、個人の価値観を培うこと。
つまり……まさしく今の状況と似通ったものだと、パニックになっていた春斗は思った。
社会人になり、若い子との接点が減ったことで学生に対して恐怖を感じたり、遅刻した時に執拗に向けられる"あの特有の視線"がトラウマになったり……。
しかし、まさかこのタイミングでそのことを実感するなんて両親はおろか本人ですらも予想していなかったことだろう。
――とりあえず……教室に入った時の事を考えよう。まずは黙って入って行き、自分の席に……。
春斗はこれで何度目なのかすら分からない言い訳を考え始めると行動を先延ばしにする。
もういい加減にしろよ! と客観的には思うかもしれないが、それが河野春斗という人物であり、その性分は大人になる過程で経験と共にさらに拗らせた部分だった。
時間を遡る前、それこそ春斗が文字通り高校生だった頃。
クラスで浮いていたというのは本人は勿論の事、雪奈もそれを知っていた。
教室でグループに入ることなく一人静かにしている。
それが高校時代の春斗。
しかし、"今でこそ違う"が春斗と雪奈、その両者には"浮いていた"という事への認識に大きな違いがあった。
その認識の違いとは――。
「えっと……河野くん? 教室……入らないの?」
後ろからの声。
春斗は振り返ると、恐らくトイレにでも行っていたのだろう。そこに立っていたのは苗字すらも思い出せないクラスメイトの女子だった。
「あ、ああ。入る……よ」
「……そっか」
「……うん」
春斗に話しかけた女子生徒は春斗との会話に詰まると、気まずそうに視線を逸らす――逸らすことしかできなかった。
何せ春斗がドアの前で女子生徒の道を塞いでいたからだ。
しかし、そんなことテンパっている春斗が気付く訳もなく……。
「……あ、あの」
「ん?」
「いえ……」
震える声、そして心底怯えたような表情の女子生徒。
春斗がクラスで浮いていた理由。
それはあまりにも無口で、人と関わる事が嫌いだと思われていたからだった。
良い言い方をすればクールな人――だと。
実際はただの人見知りであり、本人としては馴染めない根暗だと認識していた訳だが……。
それを知るのは春斗と深く関わった未来の友人や妻である雪奈だけだった。
「……あっ! ごめんなさい! 塞いでたね!」
自分の立ち位置に気付いた春斗は少しだけ高い外向きの柔らかい声でそう言う。
それは社会人時代に染み付いた癖のようなもので……自身のミスに敏感になった大人の証だった。
しかしそんなことなど知らない女子生徒は春斗の声色に目を見開いた。
「え!? あ、はい」
「今退けるね」
「……はい」
普通の会話こそ無理な春斗だったが、自分のミスを口実に会話を成立させる。
なんとも悲しい事だが、大人と女子生徒。会話の糸口など謝罪から始まらないと掴む事は困難だった。
春斗は一歩下がると、変わらず固まっている女子生徒を先に教室に入れるよう促す。
その姿はレディーファーストを重んじる紳士――は言い過ぎだが、それでも大人っぽいことには変わりなくて……。
クールだと思っていた性格のギャップ、そして爽やかになった髪型の効果も相まって、女子生徒はパニックを起こすように顔を俯かせると一度会釈して教室に入って行った。
――あ~緊張したぁ……。
現役の女子高生との会話が無事に終わった事に一旦安堵する春斗。
しかし……そんな安堵も一瞬で吹き飛ばされることとなった。
先程まで騒がしかった教室がシーンと静まっていたのだ。
驚き、奇怪、疑問。
春斗と女子生徒とのやり取りを見ていたクラスメイトの数多の視線が、一匹狼の元に集まっていたのだった。
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