第四幕 『愛しいお前に告ぐ』
千景は緒方家の自室で使用人に手伝ってもらい、深紅の着物の袖を通す。
おしろいをはたき、唇に紅を引く。肩までの断髪は櫛によって丁寧にすかれ、右耳に真っ赤な牡丹の髪飾りをさした。
使用人と会話はなく、目が合うことさえない。
支度が終われば別室へ案内される。
四方を障子と襖に囲まれた部屋で、正座をして和冴を待つ。
日はすっかり沈み、天井の照明の光が千景の青白くなった顔を照らす。
徐々に廊下の床板が軋む音が聞こえてきた。ゆったりとした歩幅だ。恐怖心を刻みつけるような音に、千景は眉をしかめる。
(昔から、この音が嫌いだったわ)
膝上で拳を握り締めると同時に障子が開く。重々しい空気と共に、濃い灰色の着物姿の和冴が部屋に入って来た。
彼は冷ややかな目で千景を一瞥してから、対面に置かれていた座布団の上で正座をし、手に持っていた風呂敷を置いた。
「――髪は切られたのか?」
開口一番に髪型のことを問われるとは思っていなかった。千景は肩を震わせてから、口を動かす。
「自分で切ってほしいと頼みました」
「変装のためにか」
「……はい」
「変装は京介の命令か?」
和冴が赤月のことを京介と呼ぶのは、それ以外の呼び方を知らないからだろう。
「いいえ。自分で提案いたしました」
「チィッ」
地獄の底まで響くような舌打ちに、千景はビクッと体を揺らす。
「ホテルにいた三人も捕らえた。今頃、本庁の牢屋にいる」
千景は反射的に顔を上げる。
(……みなさまが捕まった? 本当に?)
和冴は目を細め、小首を傾げる。
「信じられないか? なら、証拠を見せよう」
和冴は風呂敷の結び目を解き、ハンカチ、ネクタイ、丸眼鏡を千景に見せる。
ハンカチは以前、千景が黄蝶に差し出したもので、ネクタイは緑埜のもの、眼鏡は青兎が身に付けていたものだ。
(……本当に捕まったのね)
千景は座ったまま、体を脱力させる。
アーティファクトがこの世から無くなるまで、白浪一族が刑務所に入れられることはない。そのうち、政府が介入して牢屋から解放されるのだろう。
しかし解放までどれくらいの時間がかかるのかわからない上に、彼らが千景を助け来る保証はない。
「千景、僕を見ろ」
「……」
千景が呆然として動けずにいると、和冴はしびれを切らして、再び舌打ちをした。それから立ち上がり、千景の前で膝をつくと、右手で頬の輪郭を撫でる。
「ずいぶんといい生活をしていたようだね」
千景はむっとして唇を引き結ぶ。
「盗んだ金で用意された食事は美味しかったのか?」
「お言葉ですが、盗んだお金で食事をしたことはありません。彼らの雇い主から支給されたお金ですっきゃ!」
顔を持ち上げるように顎下に手を添えられ、無理やり目を合わされる。
(ひっ)
和冴の瞳孔が開ききった目を見て、千景は顔をひきつらせる。
「そこまで知ったのか。白浪一族が政府に雇われているからなんだ。悪党であることには変わらないのに、同情するのか?」
彼の口調が徐々に熱を帯びていく。
「僕がどんな想いでお前を育てたと思っている!」
「!」
激昂を浴びせられ、千景の表情がこわばる。だが、すぐに眉根を寄せた。
和冴がいまにも泣きそうな表情を浮かべていたからだ。
「……それとも、泥棒の血には抗えないのか?」
独り言のように吐き出された言葉に、千景は「どういうことですか」と問う。
本当は、その答えに気づきつつあった。だが、答えを知るなら和冴の口から知りたい。彼の言葉には責任感がある。そこに対しての信頼はあった。
和冴は千景の意図を察したのか、いびつな笑みを浮かべる。
「お前はね、五十五年前に放火犯として処刑された、白浪一族の
「――……」
ああ、やはりそうなのかと、千景は目を伏せる。
「お母さまは、
「ずいぶんと察しがいいね。そうだよ」
「お父さまは、自分に泥棒の血が流れていることを知っていましたか?」
「知らなかったはずだ。彼は身寄りのない孤児だったところを、町医者の養子として引き取られたからな。お前の両親が結婚してからは、町医者の一族と絶縁状態にするために父上が動いていた」
戸籍法が全国統一になったとはいえ、孤児に対しては見落としがあったはずだ。千景の父親が己の出自を知らなかったのは無理ないだろう。
だが、父方の縁を切る必要はあったのか。
「なぜ、泥棒の血を引くお父さまを緒方家に取りこもうとしたのですか?」
千景の問いに、和冴の顔が一段と歪む。それからおぞましいものと対面したときのように恐れを抱いた顔で、千景を見下ろした。
「白浪一族だけがアーティファクトを見抜き、魅了に打ち勝つことができるからだ。それなのに、警察は未だ対抗するための手段を持たない。警察官の立場はどうなる。いつまでも馬鹿げた茶番に付き合っていられないんだよ‼」
「……」
和冴の言い分もわからないわけではない。しかし協力できることだってあるかもしれないと口を開こうとしたとき、
「警察と泥棒が手を組めばいいなどと言うなよ、反吐が出る」
千景はぐっと唇を噛み締めて押し黙る。
ややあって、彼は口を開く。
「お前たちは本当に出来損ないだな。白藤の息子であればアーティファクトに対抗できる力を持っていると思っていたが、駄目だった。だからお前にも試したのに、お前も駄目だったのだから」
その言葉を聞いて、千景は目を見開く。
「わたくしにいつ、試したのです?」
「お前の両親が亡くなったあとにすぐ。政府に白藤の孫をかくまっていたことが明るみになってな。仕方なく政府、白浪一族、僕たち緒方家が壁を隔てて立ち合い、呪いを解く前のアーティファクトと、七歳のお前を対面させたことがある」
「……⁉」
「アーティファクトは確か、真っ赤な薔薇が描かれたグラスだったね」
空気が張りつめる気配がした。
千景の脳裏に浮かび上がったのは、細長くて大きな台と、その上にひときわ輝くグラスだった。
上部が花のつぼみのように膨らんでおり、青みを含んだ
見事な美術品で、見る者すべてを魅了するほどの美しさがあった。
この光景を夢だと思っていたが、現実だったというのか。
「お前は迷いなく手を伸ばして触れた。つまり、魅了された」
和冴の証言に、千景は動揺して視線を彷徨わせる。
確かに、きれいだと思った。手を伸ばし、薔薇の花弁を指先で撫でてしまいたくなるほどの欲求に駆られた。
でも、最近の夢の中ではそれをはねのけていた。
困惑して言葉を出せずにいる千景にトドメを刺すように、和冴は微笑む。
「だから政府も白浪一族もいままでお前に干渉してこなかった。誰もお前に価値を見出さなかった。お前は誰にとっても、いてもいなくても変わらない存在だったんだよ」
「――」
千景は薄っすらと目に涙をたたえてから、目を閉じる。
(理解していたはずなのに、本当の意味で理解できていなかったのね)
どこにも居場所がなかったことを人から突きつけられると、こんなに苦しいものなのか。
これ以上、和冴に弱った姿を見られたくはない。千景は平静を取り戻すために、ゆっくりと呼吸をするが、彼はさらに千景をかき乱す。
「でも僕は違う。僕だけがお前に価値を見出している」
そういって、和冴は指先で千景の涙をぬぐう。
「千景、僕の子を孕め」
「え?」
目の前の男はなにを言っているのだろう。
「お前に力がなくても、お前の子どもに発動すればいい。だから、僕と子を成せ」
どこまでも身勝手な人だ。しかも言っていることが滅茶苦茶で、和冴にしては現実的な話ではない。
「子を成せたとしても、その子には泥棒の血が流れています」
「二世代に渡って緒方家の血が入っているんだ。幼い頃からしっかり教育してやれば、立派な警察官になるだろう」
「……」
仮に和冴と千景のあいだにできた子がアーティファクトに対抗する力を持っていたとして、警察官になるまでに二十年以上かかる。例え子どもの頃から事件現場に連れて歩いたとしても、やはり現実的ではない。
和冴もそれを理解しているはずなのに、どうして口に出すことを止められないのか。
(ああ、そうなのね。和冴さまも白浪一族のように、過去の執念を背負わされているのね)
いまの和冴の表情は、彼の父親である宗則にそっくりだった。
「わたくしは、和冴さまの道具ではありません」
「なぜ僕を否定する。こんなにも優しく愛してやっているのに!」
和冴は苦しそうに眉根を寄せ、千景の頭を撫でる。
「お前に泥棒の血が流れていることを知ったのは、お前の両親が死んでからだ。父上から聞かされたとき、耳を疑ったよ。まさか僕の身内に犯罪者がいたなんて」
それから、千景の両肩に触れた。
「だが緒方家の悲願を達成し、警察官にもアーティファクトに対抗できる力を得るためには、泥棒の血が必要だった。だから僕はお前を躾けた。どこに出しても恥ずかしくない淑女にするために、例え泥棒の血が入っていることが世間に明るみに出ても恥ずべきことがないように、僕はお前を大切にしてきた。お前への嫌悪感を押し殺して、僕はずっと耐えてきた……!」
「……!」
肩に指が食い込み、痛みによって歯をくいしばる。
「僕はお前をずっと守ってきたんだよ、千景」
次の瞬間、和冴に肩を押し倒され、畳の上に倒れる。同時に牡丹の髪飾りがはらりと落ちた。
そして和冴は千景に覆いかぶさるように、四つん這いになる。
「だから、少しは僕の役に立て」
千景は和冴ではなく、ぼんやりと天井を見つめる。肩や背中の痛みもあって上手く頭が回らない。
――いてもいなくても変わらない存在だった。
緒方家にとっても、白浪一族にとっても、政府にとっても、どうでもいい存在だった。
その真実だけが頭の中を占める。
(では、わたくしの未来は選び放題なのですね)
そう思うと、不思議と口角が上がった。
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