君の記憶、薄紅色の道

舞香峰るね

君の記憶、薄紅色の道(一)

 運動公園の一角。苔むして綺麗とはいえないベンチに腰掛けて、わたしは空を眺めていた。春の白い光は眩しく、澄んだ青を横切って薄紅色の花びらが風に乗って流れ続けている。

 足元に目をやる。

 桜の花びらに埋めつくされて、道はほんのりと色づいている。わたしの隣、ベンチに立てかけた自転車ロードバイクにも花は降りそそぎ、でも留まる場所なく地に落ちていく。そんな景色を眺めながら、ひとり休んでいた。

 風がひとつそよぐたびに花が散ってゆく。

 汗でしっとりとしたわたしの服や肌に、その花びらがはりついてゆく。

 静かな時間が流れていた。


 もはや枝ぶりばかりが目に付く、早く咲きすぎた一本の桜の木など誰も見ようとはしない。そんな木の近くに置かれたベンチ。その木もわたしも、桜の群れ人の群から離れたところにいる。もう少し先、園内の通路を二つほど挟んだ大きな広場の周囲に植えられた桜の木々は、今がその盛り。その周りには色とりどりの、春らしく明るい服を着た人たちがたくさんいる。

 でもここは公園の外れ。

 周囲を見渡すと、芝生で遊ぶ親子連れ、散歩中の老夫婦、並走するランナーたち、犬を散歩させる人々と、誰もかれも一人ではなかった。いやジョガーたちの幾人かは、単独で黙々と走っている。

 わたしもまたひとり。

 そのことを特に寂しいとは思わないし、仕事や趣味が忙しすぎて、今は彼氏とかもいらないかななんて思っている。それでもひとりベンチに腰掛けていると、この場では単独者の異質性が浮かび上がってくるように思えてきた。

 そんなわたしの目の前を、制服を着た高校生の男女が歩いていく。男の子が自転車を押して、女の子の歩調に合わせていた。それを見て微笑ましいなんて思うくらいには、わたしも歳を重ねてしまったのだろう。

 そういえば、

 ──押して歩く、なんて君とはしたことなかったよね。

 傍らの自転車に呼びかけた。もちろん、声には出してない。

 そもそもビンディング・シューズでは歩きづらいから、自転車を押し歩くのは、交通規制に従ったり、公園内を移動したりするなどの僅かばかりの距離と時間だけ。

 今、目の前を通り過ぎた高校生二人のように、ずっと押して歩くなんてこの自転車ではしたことがない。というより、パンクでもしない限りわざわざ自転車ロードバイクを押して歩くなんてしない。それに、誰かとゆっくり歩くとしたら、最初から自転車なんて持ち出さない。

 いや……

 ふと、懐かしい記憶が蘇ってきた。と言っても十年も経っていない。

 わたしがまだ、制服を着ていた頃。

 自転車をわざわざ押して歩いた記憶があった。

 その頃はまだ、通学用の自転車だったけれど。

 そしてその最後の景色は、今と同じ桜の季節。

 桜の花びらに覆われた、薄紅色の道。


※  ※  ※


 「舞香ちゃん、おつかれ」

 校門を出たところで、背後から声をかけられたわたしは振り返った。そこにいたのは先輩。名前で呼んでくれたけど、そんなに親しい間柄ではない。わたしの苗字プラス敬称は長くて言いにくいので、みな自然とそうなってしまう。

「あ、先輩。こんにちは」

 それは六月の半ば、その年は空梅雨。

 夏の手前で明るいとはいえ、本来は「こんばんは」の時間だった。そこはスルーして、先輩は話しかけてきた。

「マジでごめんね。補習で、全然準備に行けなくて」

 高校二年生だった当時、わたしは文化祭実行副委員長で、先輩が委員長だった。でも三年生は部活動引退からの切り替えで、放課後の補習が始まっていた。前年、そしてわたしが三年生の翌年、補習は文化祭終了後に始まっていたので、その時の学年の方針だったのだろう。

 その迷惑な方針のせいで、三年生は委員会に来られない日も多かった。当然、下級生が文化祭のあれこれを主導することになり、副委員長のわたしは忙しかった。

「大丈夫です。三年生は大変ですね」

「うん、でも本当に申し訳ない」

 本当に申し訳なさそうに下級生に謝るその姿は、誠実な人柄を感じさせた。逆に恐縮してしまい、わたしは気をつかわせないように答えた。

「三年生は当日、がんばっていただければ、あとは一二年がやります。先輩は開会式のスピーチ、頑張ってくださいね」

 このスピーチだけは代われないし、代筆もできない。三年生が最後の文化祭にかける思いは下級生にはわからない。先輩は「大丈夫」と答え、

「舞香ちゃんも閉会式で何か言うんだからね」と付け加えた。

 わたしの高校では、三年生の実行委員長が開会式で、バトンパスという意味を込めて二年生の副委員長が閉会式でスピーチをすることになっていた。翌年、わたしはその両方でスピーチしてしまうが、それは別のお話。

 閉会式のスピーチは、当日の状況を踏まえる必要があるので事前に用意できない。実は負担に感じていたけれど、わたしはちょっと強がって答えた。

「それはもう、出たとこ勝負です」

「まぁ、舞香ちゃんならしっかりこなすか」

 評価してもらえたのは嬉しかったけれど、高評価すぎるようで気が重くなったわたしは、一転して本音を言ってしまう。

「どうでしょう。わたし、アドリブに弱いし、緊張してうまく話せないかも。人前で話すのは苦手なんです……」

 先輩は意外そうな表情を浮かべて、わたしを見た。

「いや、大丈夫っしょ。生徒総会の時、めっちゃ堂々と副議長してたやん」

 生徒会役員ではないわたしは、この文化祭実行委員やら生徒総会議長団やらと、行事のたびにこの手の役職に選ばれていた。だから人前に立つことは多かったので、周囲からは慣れていると思われていたのだろう。でも、本当は苦手だった。

「あの時は、横にS先輩もいたし、間違えても大丈夫かなって」

「えー? Sよりも舞香ちゃんの方がしっかりとさばけてたじゃん。そういえば、なんで生徒会選挙に出なかったん? 出てたら三年票、かなり入ったと思うよ」

「興味はあったんですけど、わたし身体が弱くて入院とか多いから、迷惑かけそうで……」

「あ、ごめん。嫌なこと言わせたね」

「いえ、身体が弱いのは事実なので」

 やってしまったと言う表情を浮かべた先輩は、そのミスからの回復を果たそうと妙なテンションで話題を変えた。

「去年さ、学年リレーのアンカー、めっちゃ速かったじゃん。病弱とか想像できないよね」

 前年の体育祭、その学年対抗リレー。一年チームのアンカーをつとめたわたしが、最終コーナー手前で前を行く二年生を抜いて、そのままゴールテープを切った話を先輩は持ち出した。

「病弱というより、身体のある器官がバグってる感じらしいです。わたし、球技はダメだけど単純に走る跳ぶ泳ぐは得意なんですよ」

 ちょっと自慢げに答えたわたし。これはホント。数年後、わたしはなぜか地域代表で陸上短距離の国体選考県予選に出てしまう。惜しいとこまでいったけれど、専門の人には敵わないよね。あ、話が逸れた。

「舞香ちゃん、運動部じゃないじゃん。だから『あの一年、誰。何部?』ってなったし。で、まさかの文芸部」

「まぁ、目立たない地味な部ですよね」

「いやいや、舞香ちゃんは結構、有名人だよ」

「わたしがですか?」

 実感はなかったけれど、高校時代のわたしは意外と目立っていたらしい。ひっそりと生きていたいのに、自然とセンターに押し出されるタイプ。万年委員長で成績は常に三番以内、体育祭では絶対的アンカー……何この下手くそなラブコメ主人公みたいな設定。おまけに入退院も繰り返していて、周囲からは薄幸の美少女と思われていただろう。まぁ美少女かどうかはさておき……いや、かなりかわいいと思うよ。あ、また話が逸れちゃった。

「文芸部も結構体育会系なんですよ」

「そうなん?」

「なわけないじゃないですか」

 他愛のない話の応酬。わたしは自転車に乗る機会を逸したけれど、お話し相手がいる楽しさから車体を押して先輩と二人で歩いた。しばらくすると交差点に差し掛かり、先輩は「家、この近くだから。またね」と左へ折れていった。

「あ、はい。また学校で」

 あたりはまだ薄暗い程度だったけれど、先輩の白い制服のシャツが小さくなりゆくのを眺め、話し相手がいなくなった寂しさを感じながら、わたしはようやく自転車にまたがった。

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