第40話 目撃
言われるままにユキメとの話を続けて。
「……やっぱり」
やがて話が終わって、サツキはぽつりと、つぶやくように言った。
「やっぱり、どうしたの?」
「ユキメさんって、たぶん親からも爪弾きにされていたのよね?」
「たぶん、そうだね」
「だとしたら求愛のダンスを知らないかもしれないのよ。実際、ユキメさんはこれまでハクトとそうしたことをしようとはしなかったのでしょう?」
あっ、と思った。確かに、僕はこれまでユキメといい雰囲気になった時に走り出すようなことはなかった。
それは早くに八代師匠と出会って妖術を覚え、人の姿で生きるようになったからかもしれない。あるいは、狐として教わったことが少なかったからかもしれない。
とにかく、ユキメは求愛のダンスのことを知らない可能性が高い。
「……あれ、つまり、今日の練習は無意味だった?」
「……ユキメさんとじゃれあいたいときには有効なんじゃないかしら」
どうだろう。ユキメは動きまわるよりはお互いに毛づくろいをするほうが好きみたいだし。特に、最近では毛づくろいだって人の姿になった僕にブラシで丁寧に撫でてもらうのが好きなんだ。なんでも皮膚を撫でる感覚がいいのだとか。こう、かゆいところに手が届いて。
くすぐったそうに身をよじるのも、完全に僕に身を任せてくれてだらりと力を抜いた姿も好きだ。
あれ、そもそも、僕はどうしてダンスの練習を始めたんだっけ。
「キスのためね」
ど忘れして首をひねっていると、スズがその理由を教えてくれた。
そう、僕はユキメとキスをしたかったんだ。でも、そもそもキスって人間の姿でするものだよね?だとすると、狐の姿で行う求愛のダンスって……。
頭の中、狐姿でじゃれあっている僕たちが、次の瞬間にドロンと人間に変身、そうして互いに顔を寄せてキスを交わす。
なんだか、とっても間抜けに思えた。だっていちいち人化するんだよ?こう、熱も冷めてしまうかもしれないし、そのまま狐姿でいいじゃんと思うよね。
「……そうね、失敗してしまったわね」
「だ、大丈夫だから、ね、スズ!だからほら、落ち込まなくていいから」
「そうよ。スズはよくやったわ。あとは私たちに任せておきなさい」
励まし、顔を見合わせた僕たちはさてどうしたものかと首をひねる。
「今一度ゴールを明確にしましょうか。ハクトの望みはユキメさんにキスをすること。そして現状の課題は、ユキメさんといい雰囲気になっても、彼女がキスを知らないがゆえにキスに至らないこと……これってつまり、ユキメさん側の課題よね?」
「そう、だね。つまり、僕は何とかしてユキメにキスを教える必要があるってこと?」
そんなこと、一体どうすればいいんだろう。ああ、なんて試練なんだろう。
まさか面と向かい合ってキスをしよう、キスっていうのはね――なんて話をするのは間抜けすぎる。
「一番は、キスシーンが出てくる映画を見ることかしら。それを疑問に思えばユキメさん自身からキスについて調べて知ってくれるかもしれないわね」
「……あ」
「どうしたの?」
重要なことを忘れていた。キスそのものは、ユキメも知っているかもしれないということ。
思い出したら落ち込んできた。
「その、ね。バイト先の女の子が、ユキメとファーストキスをしたって僕に自慢してきたんだ」
「……そう、なのね。ユキメさんは、そういうことに寛容なタイプなのかしら。あるいは、その同僚の方がユキメさんの唇を無理やり奪ったのかしら?……とにかく、ユキメさんはキスのことを知っているのね」
「うん。……あれ、もしかして、あとはいい雰囲気にもっていくだけ?」
「そうなのかもしれないわね……まあ、映画やドラマを見るのは一つの手だと思うわ」
でも、いい雰囲気にもっていってもキスにはならなかったんだよね。抱き着いてくれるし、楽しそうに笑っていたし、それでいいやと思っていたけれど……やっぱりこう、通過儀礼というか、僕はユキメと口づけを交わしたいんだよね。何しろ結婚式でもキスはしていないわけだし。
「……とりあえず、一緒に映画を見に行くことにするよ。何かいい映画がやっているかな……」
「……映画?」
首をひねるスズは、まだ映画というものを知らないらしかった。
「大きなテレビ、かな?映画館っていうところにいって、すごく大きい画面で物語を見るんだよ。最近だと空気とか振動でまるで物語の中に入り込んだような感覚になれるようなものもあるんだ」
「……狐を体験できるような映画はあるのかしら」
「それは、どうだろう?」
たぶんないと思うけれど、それを口にする気にはなれなかった。
それより、スズは狐の感覚を思い出したいのだろうか。ダンスを踊って昔を思い出して懐かしくなったのかもしれない。
「そう、だね。……実は妖術に、相手を変化させる術があるんだ。僕はまだその域に達していないけれど、いつかスズを狐に変えることができるように頑張ってみるよ」
「本当!?本当に、できるの?」
「そういう術はあるよ。僕はできないけれど……うん、まあ頑張るよ」
新しい目標もできたことだし、さっそく挑戦をしていきたいところ。
すぐにでも術の練習に入りたくて、時間もいいころだしそろそろ帰ろうかとして。
腕を引かれて、僕はまたしてもつんのめる。デジャヴを覚えながら見れば、サツキがボクの腕を握っている。
「そ、その……狐になる術って、私にもかけられるのかしら?」
「もちろん。可能なはずだよ。別に妖術は妖だけのものじゃないそうだし」
なんでも、人の中には妖術を使える陰陽師や退魔師といった者がいるのだとか。それに、妖が人にかけるために開発された妖術もあると聞く。ユキメの術もそれと近いだろう。彼女の幻惑の妖術は、自分以外のものを別のものに見せることができる。ただし存在を変えるわけではないから、ただ「そう見える」というだけの幻術だったりする。
相手を変化させる術。そんな術を身に着けて、いつか、二人と一緒に狐として遊ぶのはきっと楽しいだろう。
そう思いながら、僕は二人と別れて意気揚々と歩き出した。
なんだか歯車がかみ合ったような、すべてがうまくいくような気持ちがしていた。
スキップを踏みたくなるような気持ちで公園を出て、スズたちを送り届けてから駅へと向かう。
以前この道を歩いた時のことが、もうずいぶん前に思える。あの時には、僕のそばにはフラフがいた。渡り綿毛。ふわふわと飛んでいる彼女の姿を見ているとなんだか気が抜けて、焦りだとか緊張だとかがどこかに飛んで行った。
そういえばフラフは、帰りのころにはすやすやと眠っていた。
ボクの眷属になって力を得たフラフだけれど、渡り綿毛の中ではまだ子どもなのだとか。しかもずいぶんとのんびり屋で、僕の眷属になったのだって、「お日様みたいにふわふわしてたから近づいてみたの」なんてことを言っていた。
普通、眷属になるっていうのはもっと慎重になるべきものなのだけれど、フラフにはそうした考えはないようだった。
まあうれしいし、僕はフラフをこき使うことはないからいいのだけれど。
セミが泣き続ける暑い季節。妖だといっても暑さに強くなるわけでもないし、第一今の僕は人の姿をしている。毛皮で熱がこもってしまう狐姿よりはましだけれど、暑いことに変わりはない。
ほうじ茶で水分補給はしたけれど、すぐに体の水分は汗となって流れて行ってしまい、のどが渇いてくる。
何か飲み物を。そう考えながら目についた自販機の方へとふらふらと近づく。
駅前の人込みの中をすり抜けてようやく赤い機体にたどり着こうかという、その時。
ふと視界の中に見知った姿を見つけた気がして、僕はなんとはなしにそちらの方を見た。
さらりと揺れる金髪の、背の高い女性。隣の男性に笑いかけるその横顔は、僕の知っているものだった。
化粧によって一段と妖艶さを増したエメリーが、そこにいた。カラーコンタクトのせいかやや青みがかった目を細めて笑うその顔には、愛があるように思えた。
デートかな、とそう考えながら隣の男性へと自然に目を向けて、僕はその場で首をひねった。
エメリーの相手は、以前見かけた男性ではなかった。神様の使いをしているというどこか神経質そうな人ではなく、なんだか自信なさげな顔つきをした、凡庸な見た目の人。
その人はエメリーと話をしながら、同じように楽しそうに笑う。目じりを下げるその顔に、僕は恋の気配を感じた。
話しかけようとして、慌てて自動販売機の陰に隠れる。
じっとその男の人の背中が人込みに消えていくまで眺めながら、ふと違和感に首をひねる。
しばらく考えて、ようやく気付いた。
エメリーの恋のお相手、彼は、人だった。
そのことを、エメリーは知っているのだろうか。わかっていて、二人でいるのだろうか。
かつての彼女の恋人との別れについて考えながら、僕は難しい問題に首をひねった。
けれど、バイト仲間ではあれど所詮は人ごと、そのことは、すぐに頭から抜け落ちていった。
思い出したのは明日の準備を終えて眠りにつこうとしているとき。
早くに帰ってきたシトラスとユキメのおもちゃにされたと憤慨するミネルバを見ながら、ふっと、男の人と一緒にいたエメリーの姿が思い浮かんだ。
「そういえば、エメリーの新しい恋人は人間の男の人みたいだったよ」
「……ふぅん。お前の見間違いじゃないのか?」
「違うって、確かにエメリーだったし、相手は人だったよ。まあ、恋人かどうかは僕の判断だけれど」
節穴だな、と鼻で笑って、ミネルバは止まり木へと飛び立つ。
そうして目を閉じて、眠る邪魔をするなと無言で告げる。
僕もまたベッドに入って、次のお休みの計画を練る。
来週の水曜日には、ユキメと一緒に映画を見よう。感動できる恋愛もの、それからキスシーンの出てくるもの――
なんだかドキドキしていて眠れず、そんな僕の気配が伝わってしまっていたのか、ミネルバも眠れない様子だった。
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