第5話 母との別れ

 少しずつ暑さがましになっていって、秋が近づいてきていた。そのおかげが、森にはあれほど姿の見当たらなかった動物たちが戻っていた。


 森の木々は少しだけ緑色を陰らせ、少し気の早いものはもう葉っぱを黄色く染めつつあった。

 森の木の実も少しずつ充実していっていた。僕はおいしい木の実を、それはもうたくさん食べた。


 だからだろうか、僕が生まれてから多分四か月ほどで、僕は母と同じ大きさの体になっていた。

 時折、お母さんは僕たちのことを眩しそうに、そしてどこか寂しそうに見つめることになった。まるで、僕たちのことをもうあまり長く見てはいられないと、そのことを悲しむように。

 僕は、お母さんが何を考えているのか、その時にはまだわからなかった。


 気が付けば昼間に生活する習慣は変わっていた。

 僕たちは夜目が聞く狐の目で世界を見て、狐の耳で音を聞き、狐の鼻で獲物のにおいをかぎ分けて、そうして真っ暗な森で活動するようになった。

 夜は、すごく静かだった。

 昼間に活動するたくさんの動物たちが、夜には住処に帰って静かに眠るのだ。けれど時折、


 そうして十日くらいの日が過ぎたある日。

 ふと昼間にお母さんが巣穴を抜け出してひとりで出て行った。


 僕は気になって、お母さんの後を追おうとして、けれど姉さんが――彼女にも僕は喧嘩で負けてしまった――僕を止めた。

 巣立ちの時だと、姉さんは言った。

 お母さんは僕たちのことが大好きで、けれど大好きだから、僕たちと別れようとしているのだと。

 僕たちはこれからつがいを見つけて、子を育てていかなければならない。

 それが僕たち、狐の幸せ。


 けれど、僕はそれが理解できなかった。

 いいや、本当は理解できる。狐としての本能が、それを理解してしまうのだ。

 僕はひとりで生きていかなければならない。ひとりで生活し、そしてつがいを得て、ふたりで子を産み、育て、次につなげていかなければならない。

 僕たちにはそんな使命があって。

 そして、お母さんは僕たちの未来の足かせになる自分が、許せない。

 それに、お母さんは、兄弟姉妹は、僕と違って、狐の本能に従って生きている。

 だから、お母さんにとって子どもたちと別れるのは、当然のことで。


 だからって、それに僕が心から従えるかといえば、違うことだった。


 僕は兄弟姉妹の静止を振り切って、森の中をひた走る。

 慣れ親しんだ山の中は、僕の足を遅らせることはなかった。

 木の根の位置も、葉っぱがよく積もっていて滑りやすい場所も、木の枝に邪魔されない道も、僕は知っていた。

 そして、狐として生まれたことで獲得した高性能な耳が、鼻が、僕にお母さんの居場所を教えてくれた。


 お母さんはまだ、それほど離れたところにはいなかった。


 どうして来てしまったの。


 お母さんはそう言って、それから牙をむき出しにしてうなった。


 帰りなさい。あなたには、あなたの道があるの。あなたの未来があるの。


 どうして、お母さんはそんなことを言うんだろう。

 別にお母さんと一緒にいる未来があってもいいじゃないか。

 お母さんとともにいる未来を、どうして選んではいけないのだろうか。


 大丈夫よ。ちゃんと見守っているわ。別々に暮らしていても、顔を見るくらいはかまわないもの。


 違う。そうじゃない。僕が、言いたいのは、そうじゃないんだ。

 それなら別に、そんな風に別れる必要はないじゃないか。

 そんな、寂しそうに、それでいて決意をにじませた背中を見せるはずがないじゃないか。

 お母さんは、嘘つきだった。これまで一緒にいたから、お母さんを見てきたから、知っている。

 お母さんは、何かを隠している。何かを、秘密にしている。

 それが何か、僕にはわからない。

 何か、大事なことを、お母さんは抱え込んでしまっている。


 何だ。

 何を僕は知らない。

 お母さんのことは僕が生まれて以来のことはおよそ全て知っているはずだった。

 何が、お母さんの顔をそんな悲痛そうなものにしている?

 何が、何が――


 ピクリと、お母さんの耳が跳ねた。

 それから、お母さんは必死になって鳴いた。


 逃げなさい、早く!


 意味が分からなかった。

 けれど、離れたくないという思いとは異なり、体は勢いよく反転して、お母さんから離れて行っていた。

 遠くから、複数の足音が近づいてきていた。

 これまで耳にしたことのない、変わった足音。それは、四足歩行ではなく、二足歩行の音。その手には、鉄と、それからまた違ったくさいにおいがした。


 ドクン、ドクンと心臓が跳ねた。


 お母さんの焦燥のにじむ叫び声。

 二足歩行の敵。

 僕が知らないお母さんの行動。

 厳しい夏の日、どこからか食事を手に入れてきたお母さん。

 鶏も、みずみずしい野菜も、僕は知っていた。

 その名前も、味も、僕は覚えていた。

 あんなおいしいものを、僕は狐として生まれてから、一度だって食べたことはなかったのに。


 人間。

 そう、人間だ。

 お母さんは、人間の住処へ行って、彼らが育てている家畜を、野菜を、盗んできたのだ。

 そして盗まれた側の人間が、今そこにいて。


 その時僕は、お父さんのことを思い出していた。

 狐の中でも多産で、おなかが重くて、食事もたくさん必要で。

 そんなお母さんのために、お父さんは覚悟を決めて狩りに出かけたのだと。

 お父さんの献身によって僕たちは無事に生まれ。

 けれどお父さんは、その狩りの途中で帰ってこなかったのだと。


 人間が、お父さんを殺したんだ。


 ――今、お母さんに迫っている人間は、何をするつもりだろうか。


 急ブレーキ。

 足を止めて、僕はお母さんのほうを振り向いた。

 茂みにさえぎられた視界は、お母さんの姿を映すことはなかった。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 死なないで、殺されないで、お母さん!


 僕は走った。

 来た道を逆走して。

 無我夢中で、お母さんのもとへと急いで――


 お母さんまであと少しのところで。

 パァンと、甲高い音が森の木々を震わせた。

 同時に、遠くから血の匂いが、少しずつ広がってきていた。


 足がもつれて、僕は地面の上をすべるように転んだ。

 体の震えが、止まらなかった。

 死が、そこにあった。

 今茂みから飛び出せば、お母さんのもとへ駆けつければ、僕はきっと死んでしまう。殺されてしまう。


 僕はただ、茂みの中で震えていることしかできなかった。

 僕は最後に、お母さんを見ることはかなわなくて。

 そして気が付けば、人間たちは姿を消していた。

 そして、お母さんがいたはずのそこには。


 べっとりと地面についた、赤い液体だけが残されていた。


 お母さんが死んだ!

 お母さんが殺された!

 人間が、お母さんを殺した!


 腹が立った。怒りに脳が沸騰しそうだった。

 僕は知っていた。人間は、狐の肉を食べないと。

 肉食の動物の肉は、美味しくないのだと。

 お母さんは連れていかれてしまった。

 お母さんはきっともう生きていない。

 そしてお母さんは、その太陽の匂いがするふわふわと毛皮をはぎとられて、その肉は他の命となることもなく、捨てられてしまうのだ。

 お母さんは、森の流れから外れてしまった。

 いや、きっと、人間の里を襲った時点で、お母さんは森の世界から足を踏み外してしまっていたのだ。

 そのことを感じていたから、お母さんは必死に僕たちから距離を取ろうとしたのだ。自分の近くにいれば、きっと僕たちも人間に殺されてしまうから。

 お父さんがそうしていなくなったように、お母さんもまた、僕たちの前から姿を消した。


 そうして、僕は一人ぼっちになって。


 ぽっかりの穴が開いたような心の中で、お母さんにお別れを言えなかったという思いが、あふれ出した。


「コーン」


 僕は鳴いた。

 鳴き続けた。

 お母さんに届けと、叫んだ。

 僕はここにいます。僕は立派になりました。僕はお母さんのおかげで、こうして今も生きています。お母さんが大好きです。僕を育ててくれた大切なお母さん。ありがとう。僕を産んで、育ててくれて、ありがとう。

 僕はもう、大丈夫です。

 だから、安心してください。

 泣かないでください。

 お母さん……


 張り裂けそうな心が、悲鳴を上げ続けていた。

 お母さんの困ったような泣き顔が、脳裏に浮かんだ気がした。


 けれどそんなあたたかな思いは、すぐにどす黒い記憶に塗りつぶされていった。


 お母さんを殺した人間を、許さない。

 お母さんを殺した人間を、僕が殺したったおかしくはないんじゃないだろうか。

 生きるために人間を狩る、それのどこが問題だろうか?


 けれど、どれだけ復讐に心を燃やしていたとしても。

 僕には人間を狩ることはできなかった。

 だって、僕はかつて人間だったのだから。


 かつて人間だった僕が、お母さんの仇である人間を殺したとしても、お母さんはうかばれないのではないだろうか。


 僕は、人間として生きて死んだ記憶を持っていることを、お母さんにも話したことはなかった。

 僕は狐で、けれどかつて人間だった存在だ。


 そんな僕に、人間に復讐する権利など、あるとは思えなかった。


 お別れの言葉は、きっとお母さんに届いた。

 それで、十分だった。

 お母さんの魂は、僕の声を聴いて森に帰ってきたはずだ。

 お母さんはきっと、また狐に生まれて僕を育ててくれたように、新たな子をはぐくむのだ。


 けれど僕はもう、その狐としての生にあり続けようとは思えなかった。

 この心に広がる暗い感情がある限り、僕はそんなありふれた生を望んではいけないのではないかと思った。

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