第7話 レイン

「アウローラ!」


 長い一日半が終わり、泥のように眠るアウローラを呼び覚ます声。怒気の混じったその声は、もはや一度聞くだけでは誰の声かわからなくて。

 ぼんやりと目を見開いたアウローラは、視界の先にいた修羅のごとき顔をしたレインを見て、数度目をしばたたかせた。


「……レイン?」


 体を起こす。毛布一枚にくるまって救護室の壁に座って眠っていた体が悲鳴を上げていた。凝り固まった首や肩を動かせば、バキバキと音が鳴った。近くを歩いていた回復兵の壮年の男がぎょっと目を見開いてアウローラを見て、それからお疲れ様です、と小さく頭を下げて通り過ぎて行った。


「何?」


 この場が救護室であることを気にする様子もなく、足音を殺さずに――むしろ強く踏み鳴らすレインにわずかな嫌悪の視線が集中する。

 けれど、己の正義に――あるいは義憤に駆られているらしいレインは、その視線に気づかない。

 アウローラの前まで来て、レインは顔をうつむかせながら口を開く。


「手紙が……来たんだよ」


 どこから、と続きをうながすアウローラに、顔を上げたレインがキッと睨みつける。鋭く上がった眦、双眸は怒気に潤んでいた。


「……あいつが、死んだって。そう、手紙が来たんだよ」


「あいつ?」


「お前が……ひと月前、お前が治療をした兵士だよ!」


 まさか覚えてないのか――非難の眼差しを浴びせられながら、アウローラは必死に記憶を探る。この戦場で、一日にアウローラが一人で診る負傷兵の数は最低でも三十、多い日には百を超えるほどで、その積み重ねの中のただ一人を思い出せと言うのがどれほどの無茶か、それがレインには分からない。

 だが、幸か不幸か、アウローラはその兵士のことを思い出した。それは、レインが直々に自分に頼んだ負傷兵であったということと、そして何より、その兵士に死の気配を見たことを思い出したからだった。


「あいつは、お前が治療したんだ……治ったんじゃ、ちゃんと癒したんじゃなかったのかよッ⁉」


 救護室全体に響くような絶叫が、レインの口からほとばしる。集まる視線を感じて、アウローラは場所を変えようと提案する。

 レインは、逃してなるものかと強く首を振って、より一層怒りを燃やしてアウローラを睨む。


「お前が癒した奴だろうが!お前が、癒して、死を免れて後方に移動して……なのにッ」


 許容値を越えた怒りに涙を流すレインが、アウローラの首をつかむ。


「……ご愁傷様です」


「そんなこと、思ってないだろ」


 感情の感じられないアウローラの言葉を聞いて、レインが一瞬動きを止める。その隙に、アウローラは無理やりレインの腕を襟から引きはがして、一歩後退する。


「……あの日私は最善を尽くしたよ。できる限りの処置をした。考えられるのは、回復に必要な気力と体力の不足か、それとも、回復魔法でも癒せなかった体内……頭部に傷を負っていたか。彼は、強く頭を打ったりしていなかった?」


 あ、と小さく声を上げて。けれどすぐにかぶりを振ったレインは、だからどうしたと再び声音に怒気を纏わせて告げる。

 頭部に致命的なダメージを負っていて、それが原因で死んだ可能性がある――そんなアウローラの言葉は、レインにはもう届いていなかった。


「お前の回復魔法が不十分だったってだけだろ。失敗したよ、お前に治療を頼むんじゃなかった!」


「なら、次からは私以外の人に治療を頼むといいよ」


「お前が治療する兵士を、戦友を見殺しにしろってことかよ⁉」


「私は私の最善を尽くしてるよ。それでも、助からない人がいる。そんな中で、私は、私たちは、一人でも多くの人が助かるように足掻いているんだよ。この戦場で、一人でも多くの人を救おうと――」


「戦場に立たないお前に何が分かる⁉お前が戦場を語るんじゃねぇッ」


 キィーンと、ハウリングしたような高音がアウローラの耳の奥で響き続けた。その場の空気が凍って。

 回復兵たちから噴き出した濃密な殺意が、怒りが、レインへと一直線に叩きつけられた。


 けれど激昂するレインは、そのことにも気づかない。肩を震わせ、力を込めた握りこぶしを持ち上げる。

 その拳が顔面へと近づいて来る様子を、どこかぼんやりとアウローラは眺め続けていた。


「やめんかッ」


 ばしぃん、と頬を張る高い音が響いた。続いて、レインの体が勢いよく地面に倒れる。

 気が付けばレインのすぐ横に立っていたいかつい男性兵が、レインを殴っていた。


「すまない。俺の部下が心にもないことを言った。謝罪する」


 アウローラと目を合わせた男は、深く、深く頭を下げる。その奥に、心配そうにこちらを伺うユリーカの姿が映った。

 そういえば、とアウローラはそこでようやく、これまでユリーカの姿が見えなかったことを思い出した。おそらくは目の前の男性を呼んできてくれたのだろうユリーカに視線で礼をして、それからアウローラは男性兵に頼み込んで頭を上げさせた。


「もう大丈夫ですから。あなたの謝罪は十分に受け取りましたよ」


「む、あい分かった。だが彼の処分はこちらでしっかりとさせてもらう。だからどうか矛を収めてもらいたい」


 アウローラに、そしてこの場にいるすべての回復兵に向けて聞かせるように、男は高らかと告げた。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。テッドさん、コイツが――」


「お前は黙っていろッ」


 ふらつきながら男性兵――テッドに抗議しようとしたレインに、今度は強い拳が叩き込まれた。一喝と共に脳天に恐るべき一撃を貰ったレインが勢いよく床に倒れ、気を失った。

 この場の誰もが、テッドの放つ怒気に飲まれ、レインへの悪感情を忘れ去った。


 それでは、とテッドはレインを肩に担いで颯爽とその場を去っていった。


「ユリーカさん、ありがとうございます」


「いいえ、わたくしではなくお礼はテッド様にどうぞ。こう言うのはどうかと思うのだけれど、正直、彼……レイン君の狂気に飲まれて、怖くて間に割って入れなかったのよ」


 だからごめんなさいねと、そう深く頭を下げるユリーカを何とか宥めて、二人は周囲の者へと謝罪をしてから今日も終わらない治療へと立ち向かった。






 それから、三日後。

 砦にて相変わらず多忙に追われていたアウローラの耳に、一つの訃報が飛び込んできた。

 テッド中隊の、全滅。偶然遭遇した敵将黒の死神の部隊との交戦の末、中隊はただの一人も生き残って砦へと帰還することはなかった。

 そして、二日経って。運ばれて来たわずかな遺品の中に、あのからし色の組紐があった。


 レインが、死んだ。その事実は、アウローラの心に留まることはなかった。多くの死を見すぎたアウローラにとって、レインの死はもはやその他大勢の人の死でしかなかった。

 だから、気にするなと、この胸の痛みは、気のせいだと。

 わずかに針が刺すような思いに蓋をして、アウローラは遺族に送るというその組紐に、自分の組紐をこっそりと括り付けた。


 レインとの思いも、過去も、ここに置いていく。


 顔を上げたアウローラの表情からは、もはや完全に感情の色は消えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る