第6話 声
弟の義彦に会ったのは秋も深まったころだった。兄貴よりも輪をかけて変人である。
高校でワンダーフォーゲル部に入って、山登りを始めるとたちまちその世界にはまってしまい、夏はずっと山小屋でアルバイトしていた。卒業後、品川区にある機械メーカーに就職したが三年ほどで退社して、あれやこれやとアルバイトしながらネパールに行ってヒマラヤの登山隊に参加したりして好き放題の人生を送っていた。
さすがにそのままではまずいと思ったのか、あるいは長い間付き合っていた山仲間の女性と結婚したかったのか、アウトドアグッズを製造販売する会社に就職し両親をほっとさせたのも束の間、一年もしないうちにやめてしまい結婚話も聞かなくなった。山梨の葡萄農園や長野の旅館など転々としながら働いていたが、北海道に渡り山小屋の主人に収まった。
ニッ、と口を横に広げるような表情を浮かべて、
「兄さん、いいこと教えようか」
と言い出す。子供の頃から変わらない。どうせろくでもないことを考えているのだ。
「俺、ヤマビコって呼ばれている。名前がヨシヒコだろう。あと、人の言っていることおうむ返しにする癖があるって。だけど本当の理由は違う。山から呼ぶ声がときおり聞える」
「声? 」
それが誰なのかは彼にもわからないという。ある日、山を一人で歩いているとき、突然、聞こえるようになったのだという。おーい! と呼びかけて来るらしい。そこの人、と名指しされることもある。周囲を見回しても誰もいない。変だな、と思ったが助けを求めている様子でもなかったのでそのまま歩き続けた。いささか気味が悪かったので師匠であり、前任者でもある山小屋の主人、クマさんにこの話をすると、気にするな、と言われたという。詮索しないほうがいい、そういうことらしい。山は娑婆とは違う。最初は理解できないことも多いがいちいち気にしていたらきりがない。
とにかく返事はしないこと。
そんな話だったらしい。怖いとは思わない。怖いことは別にあるという。
クマさんが誰にともなく山の彼方に視線をやりながら語ったのは、人間に絶望して山に入ると山にも絶望する、山は世捨て人が来るべき場所ではない、ということだった。自分のことなのかどうかはわからない。彼がしばしば自殺志願者を追い返していたことは事実だ。博愛精神のなせるわざでもないし意地悪でもない。若い女がハイヒールでけもの道を歩いていたりするのでギョッとするのだという。すぐに死ぬために来たのだとわかる。実はあれが一番、怖い、と。生から逃亡しようと決意した人間ほど恐ろしいものはない。それは「死」そのもの、否定性そのものだ。視線を合わせることは叶わない。そこからのぞいているものこそ暗黒だからだ。山が汚される、と感じるのだという。他の生き物にはない本能に反した現象という意味では自殺は人間らしい行為でもある。だがそのおぞましさが耐え難いのだという。決して救うことなどできない。それこそおこがましい。そういうときはただ「観る」のだという。傍観者として過ぎ行きさせると。
山菜やきのこを取りに山に入るのには意味がある。だがそれだけではつまらない。むしろ目的がないことこそ最高に楽しい。花は意味もなく咲くし、鳥の歌にも意味はない。ただ生きるために生きている。生まれて死ぬのだけが必然。意味を考えるのは人間だけ。だから無為無目的こそ原点で楽しい。山にこもっているクマさんは社会との紐帯が薄れ意味を考えることが虚しくなりつつあったのかもしれない。
「迷ってしまうのはわかる。でも迷う、ってのはまだましだよ。はずれているとしてもたどるべき道があるから戻れるかもしれない。放浪は違う。まるで方向がない。なにも決まっていない。戻るべき場所もないし目的地もない。だから賭けになる。山にいるってことは迷いではない。山に入っても自分から逃げることはできない。むしろごまかしがきかない。日々、真剣になる。あれなのか、これなのか、賭けなければならない」
これがクマさんの教えなのだ。
そんな「ヤマビコ」の顔を久しぶりに見ておこうと十一月の末、札幌に本社のある電子部品の会社を取材した後に勤務先に立ち寄ってみた。冬場は小屋を閉めススキノの飲食店で働いているのは知っていた。母は相変わらず風来坊の義彦が心配らしく会うたびに結婚のことを口走っていた。心配で仕方ない、と。せめてあなたか義彦かどちらかでもお嫁さんもらってくれないか、そればかりだった。美津子は紹介していなかった。母が想定している「お嫁さん」とはかけ離れた存在なのでかえって心配をかけるだけだと直感したからだ。義彦の状況はわからない。それとなく聞き出してくれよ、と父にも言われていた。
勤務先はワインバーらしい。
街は早くも雪に覆われ道路は氷ついていた。滑らないように足元に用心しながら繁華街を進んだ。ネオンがひときわ美しく輝くのは空気が冷たく澄んでいるからだろうか。
ニッカウヰスキーの巨大な看板がある交差点から少し下がって無数のネオンが酔客を誘っている一角に入り込み、寿司屋やカラオケ、クラブなどがずらりと並ぶ路地で北海道酒場「テロワール」を探した。雑居ビルの四階にある比較的新しい店で、扉を開けると髭を生やした義彦がチョッキを着てグラスを磨いていた。山にいる時とは別人に見える。いつも家の中のあちこちに小細工して親たちを驚かせていた天邪鬼の少年の面影はない。当たり前のことだが年を取ったのだ。
「なんだ、髭なんか伸ばして」
時間が早いためか他に客がいないので軽口をたたく。
「ワイン、って柄じゃないだろう」
「奥が深い世界ですよ」
義彦はウインクなどして茶目っ気を見せる。きっとお気に召すと思います、と。
「道産の銘柄は最近、めきめきと品質を高めていまして、世界的にも注目されていますよ。将来が楽しみです」
へえ、と笑う。もっともらしいこと言いやがって、とカウンターに腰を下ろしてお勧めのグラスを一杯、いただく。軽やかな赤ワインだった。余市で作っているという。
「これは三年前のヴィンテージだけど今年は暑い割に雨が少なくていいワインができるよ。地球温暖化で、今後、北海道の気候がますます葡萄の生育に適するようになるかもしれない、って聞いた」
「そうなのか! 」
「現実を見ないとね。山でも植生に影響が出ている。いいことばかりではない」
頃合いを見計らって、暮らし向きはどうだ、と尋ねると肩をすくめた。
「どうせ母さんに頼まれたのだろう、そろそろ身を固めないのか聞いてこいって。あいにくそういう話はないよ。兄さんこそどうだ? 相変わらず暗室に籠っているのか。女より写真だろう」
「ああ。雑用係やりながら撮っている。食うためには仕方ない。売れもしない写真をいじくりまわしているよ」
「いいじゃないか。たまには山にも来いよ。娑婆とは違うものか見えるよ。自然の素晴らしさ、とかそんな話じゃなくて。文字通り見えなかったものが見えてくる」
「一度、試してみよう」
「そう言えば夏に兄さんの紹介できた人、あの人はヤバかったな」
「牟田口さんか? 」
「そんな名前だったかな。直感したよ、この人は死ぬために来たのだと」
「自然の音を集めていたはずだ。新しい番組を作るって言っていたけど」
弟は目を細めた。
ヤマビコの話に異常な関心を示していたという。どこからか呼んでいる声がするのだ、と説明すると聞いてみたいのでガイドしてくれないか、と依頼したという。ここに行けば聞こえる、ってものじゃないから、と断った。また来ます、と言い残して立ち去ったがそれ以来、義彦の小屋を訪れることはなかった。
小屋を閉じたのは十月の下旬で、前週から想定以上に降雪が続き季節の進行が早まっていると感じていた。判断を誤ると下山にも危険が伴うと考え作業を急いでいた。冬の間、雪の重みに押しつぶされないように小屋のあちこちを補修し支柱を立て、夏季に使用していた機材や看板を格納した。凍結を防ぐため水抜きをして保存食をまとめる。太陽が沈むのは日々早まり一日は短い。全身が疲労して寝床に潜るとぐっすりと眠ったが、夜中におかしな音がして目が覚める。夕方から吹雪いていたがすっかり収まったようであたりは静まり返っていた。
窓に青白い光が見える。
誘われるようにして起きると、空は晴れ渡り、上弦の月があたりを照らし出していた。小屋の周囲は月明りを反射して青く光り、ときおり吹き上げられる雪片がきらきらと輝いてこの世のものとは思えない光景だった。
小屋の周囲には灌木が巡っており黒い影を伸ばしていたが、端の方がわずかに動いたように見えた。夏場に狐や栗鼠を見ることもあったが、それにしては大きい。熊か、と思ったがしばらくすると人間に見える。
次第に窓辺に近づいて来た。
小屋のガラス窓ははめ殺しなので開かない。たとえ開いたとしても幅が三十センチほどしかないので出入りは不可能だ。室内から漏れる灯りに照らし出された全身黒づくめで黒い毛糸の帽子に見覚えがあった。
兄貴の紹介で訪ねてきた男ではないのか?
無茶なことしやがって、とぼやきながら義彦は寝巻の上に防寒具を羽織りブーツを履いてかんじきをはめ、グローブをして玄関の脇に置いてあったスコップを手にした。扉を開くとマイナス十度以下の凍りついた世界だ。恐る恐る雪を踏みしめて裏手に回り込む。
冷気が両側から頬を締め付けてくるようで目が冴えた。
沈み始めた月の淡い光が藍色に世界を染め上げている。恐る恐る近づくが建物の周囲に人影はない。おかしいな、とあたりを見渡す。遮るものはないし、足跡もない。寝ぼけていたのか、と苦笑する。
玄関に戻った義彦は愕然とした。
扉が開かない。
嘘だろう、とノブを引っ張る。そのとき、脳裏にクマさんの言葉が甦った。
山で怪しいものに出会っても相手にしてはいけない。それはお前自身だ。だから傷つけてはいけない。わかるか? お前が山を見ているだけではない、山もお前を見ている。そしてお前がいろいろと試すように相手もお前を試している。騙されないように用心しろ、と。
つまり窓の外にいたのは自分ではないのか。
腹の底から恐怖がこみあげて失禁しそうだった。小屋に入れなければ朝までマイナス十度の冷気に耐えて過ごさねばならない。朝になっても入れなければそれは限りなく死を意味する。装備もなしに雪山を降りることは不可能だし、シーズンオフに上がってくる人間もいないからだ。
気がつくと恐怖のあまり「開けろ」と叫んで扉をドンドン叩いていた。もちろん返事はない。その場にしゃがみ込むようにして乱れた息を整えた。どれくらいそうしていたろうか。
落ち着け、
と自分に言い聞かせる。パニックに陥ることが危険を増幅する。事態を冷静に考えようとした。扉の内側に錠前はない。閂はあるが通例は使わない。つまりは開くはずだ。まず両腕で扉の縁にこびり付いた氷をこそぎ落とした。次に凍結しかけているノブをゆっくりと回す。コツがあるのだ。長年、風雪に耐えてきた建物だからあちこちに歪みがある。ノブを斜め右上に引っ張り上げるようにして手前に力をかける。
すると難なく開くのだ。
室内の暖かい空気が迎えてくれる。寝床の脇にある薪ストーブの熾きがまるで宝石のように輝いて見えた。助かった! と凍てついたグローブを外す。わずか数分の出来事なのに、地獄と天国を往還したかのような疲労を覚える。ここで寝入ってはいけない。ストーブに残りわずかとなっている薪をくべ、火を起こす。流しのポットを持ってきて湯を沸かすのだ。正気を保たねばならない。
ほうじ茶をすすってホッとした頃だった。
トントン、と妙な音がした。またしても窓だ。見ないほうがいい、と思ったが我慢できない。月は高度を下げ光は弱まっている。暗くなった雪景色をすかすようにするとやはり顔があった。じっと義彦を見ている。間違いない、あの男だ。義彦は窓の内側に古い雑誌をたてかけて視界を塞いだ。あれは幻だ、と。
すると今度は戸口のほうに気配がある。ドンドン、と扉を叩いているではないか。
もしかすると、自分自身なのではないのか?
治まりかけていた恐怖がムクムクと腹の底からよじ登ってくる。俺はまだあそこにいる。このままでは死んでしまう。ではここにいる自分は誰だ? 洗面所に走り鏡をのぞき込む。ぼんやりと曇った表面に暗い表情が映っている。
これが俺か?
わからなかった。手拭いで鏡を拭くのだがどんなに磨いてもそこにいる顏には違和感があり別人に思えた。つまり知らない輩が小屋にいて俺を締め出している、そういうことか。
ドンドン、
と戸を叩く音は脅かすように強まっている。
やめろ!
そう叫んでいたという。お前はそこにいないはずだ。おかしな真似をするな、と。扉に近づき閂をはめた。氷のように冷たい扉が開かないように寄りかかる。どれくらいそうしていたろうか。
音は鎮まり罪悪感にとらわれる。
小屋は人を救うためにあるのに俺は恐怖のために音を黙殺した。開けてくれ、と助けを求める人を見殺しにした、と。しかし誰を? もし開けばそこに立っているのが誰かはわかっている。義彦自身に違いないのだ。
翌朝、曙光がさすと同時に目が覚めた。
出発の準備を済ませてから小屋の周りを検分した。灌木の近くにリスのものらしき小さな足跡もあったが建物の周囲には自分の靴跡しかなかった。
里に下りてしばらく経過した。
雪の降るある晩、テロワールのカウンターに一人立っていると、ドアを叩く音がした。深夜二時近い。そろそろ閉店しようかと思っていたが、客が来れば営業を続けても良かった。どうぞ、と言ったが気配があるだけで入ってこない。
そのとき、気がついた。
山小屋のノックと同じだ。
ドンドン。
その日は札幌を含む石狩地方に大雪警報が出ていたので雪に慣れた道産子たちもそそくさと帰宅し、店には閑古鳥が鳴いていた。外は吹雪いている。
まさか、と緊張する。
カウンターを出てドアを開いてみたが誰もいない。隣のスナックも早めに閉店したらしく廊下は暗く沈んでいた。
おい、いるのか。
そう問いかけたが自分でバカらしくなった。気のせいだ、忘れよう、と思った。だが店を閉じて凍てついた通りに出ると背後になにかがいるような気がして仕方がない。吹きつけてくる雪を避けるためフードをかぶって歩いていると、足音が聞こえるのだ。いつものように角のところで車に乗ろうとしたがタクシーは見当たらない。やむを得ず繁華街が果てる本願寺の南側まで足を速めた。都合よく流しの車が来たので乗り込んでやっと落ち着いた。
それから数日して同じようなことがあった。今度は常連客がいたので、今、誰かがドアを叩かなかったか、と尋ねたが、いや、との答えだった。その客は丁寧に席を立って外の様子を見てくれた。誰もいないよ、と。
気配は繰り返し訪れた。
クマさんに相談すると、お祓いしろ、とのことだったので円山の北海道神宮に行ったが吹っ切れない。神社を出て、気を晴らそうと女友達と待ち合わせし、カフェに入ったとき、急に思いだした。牟田口は小屋に宿泊した際、保温のマグカップを忘れていた。隅にある棚に客の忘れものをまとめてあるが、そこにあるはずだ。あれを取りに来たのだろうか。そうだとすると、来春、供養すればいいのではないのか。
「あの人、牟田口さんと言ったっけ、死んだと断定はできないよ。だけどその可能性が高いと思う。生霊、ってのもありえるよ。だけどあの人が死を意識していたのは間違いない」
「癌の治療をしたと聞いていたから正しい見立てかもね。黒い帽子は抗癌剤で毛が抜けたからだと思う」
「病気のことは知らなかったな。それで合点がいくこともある。あの人の眼はちょっと怖かった。あの世を見た人の眼だよ。短い間だったけど感じた」
二人連れの客が入って会話は中断した。
義彦は別人のような愛想笑いを浮かべて応対している。彼にとってススキノは俗界。一方、小屋は神聖な場所なのだ。往復することによって感じることもあるのだろう。
「ミイラ取りがミイラになるって言うだろう。あの人は声を探して山に入った。だから声になったのさ。今も山にいるよ。おれはそう思う。兄さんも山に入ればわかるよ。もしかすると聴くことができるかもしれないね」
お替りのグラスを差し出しながらそんなことを囁くのだった。
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