36 ひとへに風の前の塵に同じ
紅葉に囲まれた渓谷に流れる川。そしてまた一つの札。
本来ならば幻想的な結界内の幻影だが、今では贄姫が放った無数の氷柱で埋め尽くされている。
しばらく楓の間を駆け抜けると札の文字が鮮明に見えてきた。
六番目の札には『白』と書かれている。
「六つ。落ちゆく星も白きなり」
呪言を唱え終わると今度は夜桜に人魂が舞う幻想的な風景が現れる。
楓の葉が舞う渓谷から、桃色の花びらが舞う河川へ風景が変化しようとしたその時。両足を何ものかに掴まれる。
そのまま転びそうになるが、霊石を剣に変化させ、地面へと突き刺したおかげで何とか転ばずに済んだ。
足下を見てみれば地面は無数の手に覆われていた。過去に犠牲となった生き神達の手だ。頭上からの攻撃ならばコウが対処できるが、地面となると手の打ちようが無い。
ならばこの手を切り捨てながら進むしかあるまい。そう考え、剣を構えたその時。
地が青い炎に覆われ、やがて白い手が全て薙ぎ払われた。
「足を止めるな。走れ!」
再びコウが叫ぶ。
彼が付近にある手を全て薙ぎ払ってくれたのだ。
「止められていただよ。もう。ありがとう」
「あぁ。梓。愛してる」
そうだ走らなくては。
誰のためでも無い自身の望みを果たすために。
体を起し。再び地を駆ける。
走ることに一心で、もう鳥のさえずりも、贄姫の叫び声も、そしてコウの言葉さえ聞こえなくなった。
*
「一つ。白きは水星なり」
最後の呪言を唱える。すると下り坂の山道と結界に入った際に潜った鳥居が現れた。
これで鳥居の外に出れば結界の張り直しが終わる。
鳥居の手前まで駆け下り最後の一歩を踏み出す、その瞬間とある違和感に気づく。そうえば贄姫とコウの声が聞こえない。
くるりと振り返ると禁足地と書かれたしめ縄が再び鳥居を塞いでいた。
空を見上げる。先ほどまで灰色に閉ざされていた空は今ではすっかり快晴へと変化していた。
上手くいった。そうだ上手くいったんだ。
安堵のあまり地へ膝を降ろしそうになるが、今はそれどころでは無い。
家に帰らなければ。
雨上がりの道を重い足で一歩、一歩、踏み進めてゆく。
何処にでもありそうな田舎の風景が、私の意識を現実世界へと引き戻す。あぁ、全ては春の夢のごとしとは誰が言ったものか。
*
家に帰ってくると、雨が上がったとはいえ橘樹邸の庭は一面池のような状態に変化していた。近所問わず渡水全体がその様な状態だ。
布型に変化させた霊石無しでは到底ここまで戻ることは適わなかった。
もう一度空を見上げる。
綺麗な快晴。まるで私が結界を出る前から晴れているよう。
いや、待て。その通りだ。鳥居を潜ったのは私が結界の張り直しを終えた瞬間だ。そんな直ぐに空が晴れるものか。
ならばどうして空が晴れたのか?
『愛している』
そんな言葉が脳裏をよぎる。
嫌だ。これ以上は考えたくない。
「ただいま。帰ったよ」
ゆっくりと正面入り口である引き戸を開ける。
私のゆっくりとした足取りとは対照的に、廊下を駆ける足音が響いてきた。
「梓。大変だ」
父である忍だ。
こちらの姿を見た彼は唖然とした表情を浮かべる。娘が泥だらけの袴姿で帰ってきたんだもの。当然か。
「何があったの?」
「美夜が大変だ」
「お母様がどうかしたの?」
「美夜が以前から持っていた持病が悪化したらしくて倒れたんだ。救急車が来るまで九星さんと治療術式を施しているから梓も手伝ってくれ」
今度こそ本当に腰の力が抜けてしまう。
本当に全ての春夢が塵へと果てた。
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