12 悪い虫が憑かないように
「これが部屋の鍵ね」
柳田から渡された部屋の鍵には、翠緑色のガラス玉と組紐が付いていた。どうやら客室ごとにガラス玉と組紐の色が違うらしい。
「ゆっくりしていって。何か分からないことがあったら聞いてくれ」
「はい。ありがとうございます。それにしても素敵な旅館ですね。きっと繁盛しますよ」
「そうかい。橘樹様のご息女は世辞が上手いことで。お姿も性格も貴方のお祖母様の姉によく似ている」
「大伯母とご知り合いで?」
「えぇ。友人であり、私の初恋の方でもありました」
事前に九星から柳田さんは昔から橘樹家と顔なじみだと言っていたが、これが理由であろうか。
「おや、失礼。老人のつまらない話をいつまでもする訳にはいきませんなぁ。私は仕事に戻りますのでごゆっくり」
「いえいえ。大伯母様の話には私も少し興味があります。またお聞かせください」
「喜んで」
旅館の主は一礼し、部屋を去る。
柳田は七瀬屋の為に二つの部屋を用意してくれた。片方は九星の部屋。そしてもう一つはコウと私の部屋である。柳田いわく、私とコウは同性なので部屋を分ける必要はないだろうとのこと。飛んだ誤解である。
「あーずーさ。こっちに来てくれ」
コウが客室の庭にある浴槽を覗き込んでいる。
柳田いわく、この浴槽についた蛇口からは温泉が出るらしい。大浴場に行かなくても部屋で温泉が楽しめるわけだ。
「あら、お部屋で温泉だなんて贅沢……」
浴槽を覗き込む。黒い石で作られた上質な浴槽。コケや汚れの類は無く、綺麗に清掃されている。そして、その中央には一匹の虫――いや、怪異がいた。
「おやおや、可愛い奥様ではないか。
黒い髪。青い瞳。モルフォ蝶の様な羽。そして一寸法師並に低い身長。怪異である。どう見ても怪異である。
「そうであろう」
コウが満足そうに何度も頷く。
「そういえば、この旅館お化け屋敷だった」
すっかり忘れていたが、この旅館全体がマジモンのお化け屋敷であった。つまり、この様な怪異がまだ数え切れないほどいるということになる。
「だーれがお化けだ。某様はただの虫だ」
「病の虫ですか?」
「もし某様が『そうだ』と答えたらどうする?」
「今すぐ祓います」
「ストップ。ストップ」
虫の怪異は焦った表情になり、その場で飛び跳ね始める。
かつて病は『病の虫』が起すと言われていた。
世の中には「腹の虫が収らない」という言葉があるが「腹の虫」は『病の虫』の一種である。もしこの怪異が本当に病の虫であるならば申し訳ないが退去願いたい。
「某様を含めたこの建物内の虫は皆人間に手は出さないぞ。主から聞いておらぬか?」
「主というのは君達の親玉か?」
コウが質問すると怪異は何度も頷いた。
「そうだ。まだ会っておなぬなら付いてくるが良い」
虫は羽を広げ、窓の外へ出る。
「分かりました。良いでしょう。ですがその前に」
「どうかしたか?」
「窓を経由するルートは辞めて欲しいな」
*
「これ本当に大丈夫ですか?」
「案ずることは無い。この下が主がおわす書庫だ」
虫の怪異が導く先で待っていたのは中庭の大池だった。
この怪異が言うには、大池の下が裂界になっているらしい。裂界の入口はヒビ型が多いのでこの様なケースは珍しい。更に言えばヒビ型以外の怪異は退治が困難になる場合が多い。
「梓。虫の主張に偽りは無いようだ。この下――というより裏から裂界の気配はある」
「そう。分かった。じゃあコウ、先に裂界の中に入って」
「あぁ。構わ……私を使って真偽を図ろうとするな」
「ごめんね。そういうつもりじゃ無かったんだけど。私が先に行くね」
「少し待て。私が行く梓はここにいろ」
コウは左腕で私を制止すると、右手を裂界に突っ込み、次に頭も池の中へ。傍から見てみれば、旅館の池に頭を突っ込んでいる変な人にしか見えない。
そしてコウはしばらくすると顔を上げた。
「この虫が言っていることは本当だ。中では天地の方向が逆転している」
「それってどういうこと?」
コウは何も答えず、そのまま池の下へ姿を消した。
虫の怪異も続いて姿を消す。
――こうなったらやるしか無い。
そう思い。顔を池の中に突っ込む。
恐る恐る閉じた目を広げると中に広がっていたのは圧巻の景色だった。
どこまでも広がる水面。水の中から海藻のように生える本棚。
天井を覆い尽くす蓮と竹の花。そしてどこからともなく聞こえてくる雅楽のような音色。そしてこの裂界での重力方向は逆転しているらしく、丁度現実世界の地面の裏に裂界の地面が張り付いている様な構造になっている。
「こちらへ来るが良い。青い水面は裂界の出入り口だが、緑は踏んでも構わんぞ」
コウがこちらへ手を伸ばす。
裂界の地面に広がる水面をよく見てみればコウの言った通り、緑色の部分と青色の部分がある。コウが踏んでいるのは緑。対し私の周りに広がるのは青の地面だ。
血色を感じないほど白い手を掴み裂界の中に入る。
そして礼を言おうとしたその時。
「いらっしゃい。お客様。また会ったね」
少年の様な、少女の様な。奇妙な声。
姿を現したのは見覚えのある怪異。
「貴方が主?」
「いかにも。でもボクがここを仕切っている訳じゃ無いけどね。一番古い個体だというだけで」
白い髪。三つ編みに結われたフェイスライン。中性的な面持ち。
我々の荷物を運んでくれた仲居さんだった。
「ボクは『本の虫』と呼ばれている個体。ようこそ迷い家へ」
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