第一王女タムタム

六野みさお

第1話 あるカフェの王子と王女

「無理にコーヒーを飲む必要はないんだよ」


 少年はそう言って、そしてそのくせ自分は当たり前のようにコーヒーの入ったカップを口に運んだ。しかし、彼の正面に座った少女は、それが聞こえていないかのように、少年の鏡になるかのように躊躇なく、自分のコーヒーに口をつけた。


「……悪くないわね」

「大人ぶるな。苦いと思っているのはわかっている」


 いささか顔をしかめたのみで平静を保っている健気な妹を、兄の少年はゆっくりと眺める。まだ10歳にならないというのが信じられないくらい、あらゆる面で優れている自慢の妹に、兄はほんの少し見栄を張りたくなってくる。


「まあ、どちらにせよ、この飲み物は子供が飲むには危険だよ。コーヒーは俗に『黒い酒』といわれるーー飲み過ぎは毒だ。先輩にコーヒーの一気飲みを強要されて命を落とした学生の話を、君も聞いたことがあるだろう?」


 そう兄が講釈を垂れるのに構わず、妹は何食わぬ顔でコーヒーをもう一口飲む。もう表情が動くことはない。雰囲気としては完全に大人のそれだが、それでも童顔と背の低さは誤魔化せない。


 しかし、他の面においては、彼女は十分な及第点だといえるのだ。


「どう? ……上手くいっている?」


 三口目のコーヒーを口の前に合わせたまま、ちらりと上目遣いに目線を上げてそう聞いた妹に、兄は親指をぴんと上げて合格の印を作る。


「見事だ。……完璧に『擬態』できている。僕も急に君にこの魔法を使われたら、まんまとだまされてしまいそうだよ」


 そう、現在の彼女は、元の彼女の顔ではない。おそらく特徴の少ない一般人の顔に見えているはずだ。これを魔法『擬態』という。自分を見た者の視覚を出し抜く、かなり高度な魔法である。もちろん兄もこの魔法を(かなり前から)使っている。どうして彼らがそんな変装をしているのかは、今にわかるーー兄は妹の方へ身を乗り出し、小声でささやいた。


「君の美しい顔が見られなくて悲しいよ、第一王女タムタム」


 妹は少し笑って、すぐさまこう言った。


「そんな口説き文句では私の『擬態』は破れないわよ、第一王子マラケシュ」



「不思議なことがあるのだけれど」


 コーヒーを半分ほど飲み終えたタムタムが言った。


「『擬態』の魔法は、私たちのような人が外出するためには必須のものなのよね? 本当なら、私にもっと早くこれを教えてくれてもよかったんじゃないの?」


 言外にこれまで自分が不必要に王宮に押し込められていたという不満が込められているが、マラケシュは「いや、それは甘いな」と首を横に振った。


「『擬態』という魔法自体は、君も気づいていると思うけど、そこまで難しいものではない。魔力量と単純な技術だけなら、僕たちの妹だってやろうと思えば使いこなせるはずだ。ーーでも、この魔法の最も難しい部分は、その維持にあるからね」


 タムタムは軽くポンと机を叩いた。


「高度な精神的安定が要求されるーーということね?」

「ご名答」


 マラケシュは探偵のように、自分の眼鏡に軽く触れた。


「『擬態』を使ったまま、何の刺激も受けずじっとしているだけなら、それは簡単なことだ。でも、それを歩きながら、話しながら、もしくはこういう飲食店で、他の客の様子を見ながら食事をしつつも崩れずに維持し続けるというのは、実はかなり困難なんだよーー僕から聞きたいくらいだ。どうして君はその歳で、しかも独学で『擬態』を使いこなせているんだ?」

「へえ、そういえば、兄上がこの魔法を覚えたのは、確か12歳になってからなんだっけ?」


 マラケシュは苦い顔でうなずいた。


「そうだよ。というより、うちの家のカリキュラムでは、12歳にならないとこの魔法は教えられないということになっていたんだ。僕は12歳になるまで、『擬態』という魔法があること自体知らなかったんだ。大人の王族は、どうやって市井にお忍びで出かけているのだろうーーと、真剣に考えていたんだけどな」


 タムタムはにっこり笑った。


「それは王立図書館のせいね。王立図書館で高度な魔法書を買うことができたからよ」

「まったくそのせいだ!」


 マラケシュはついに頭を抱えて悔しがった。


「あれが王宮の隣にできたせいで、王族が簡単に図書館に行くことができるようになってしまったんだ! 僕が小さいときは、町の本屋に行かなければいけなくて、それは子どもの王族には難しいことだったのにーーこれで君たちは自由に魔法の情報を得られるわけだ! 情報格差だ!」

「しっ、声が大きいーー擬態の意味がなくなるわよ?」


 これではどちらが年上かわからないが、とにかくマラケシュは慌てて咳払いをした。残り少なくなっていたコーヒーを飲み干して、続ける。


「まあ、この『王族への情報漏洩』というのは、王立図書館のさまざまな利点に比べれば、小さなものではあるんだけどーーいくら名君と名高い国王陛下も、そこは考え抜けていたというわけか」


 なんとか自分を安心させようとするマラケシュだったが、タムタムは彼をからかうように薄く笑った。


「まあ、私に関しては、むしろ利益しかなかったんだけどーー少し心配なことがあるわ」

「どうしたんだ?」


 この少女が『心配なことがある』とか言い出したときには、だいたいはもう手遅れになっているのだ。マラケシュは嫌な予感しかしなかった。そして、それは正しい。


「実は、昨日私はその魔法書を妹に貸してしまったんだけれど……」


「な、なんだって!? 大変だ、もし僕たちの妹が、中途半端に『擬態』を使うようなことがあれば、大変なことになる……!」


 マラケシュはやっと事の重要性に気づいたが、もう遅い。今からこの兄妹が父王の作った図書館に泥を塗らないかは、彼らの妹が自分を制御できるかにかかっている。


 だが果たして、マラケシュとタムタムが次の行動を取る前に、彼らのいるカフェの扉が開き、明らかに怪しい格好の少女が入ってきたのだった。

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