第10話 森長可(鬼武蔵の恐ろしさ)
秀吉の涙は、森長可の残忍さ、その恐ろしさを知っている為である。
自分の軍団の将来の扇の要として期待している虎之助が、此の御前試合で殺されてしまう可能性もあると思えばこその涙であった。
秀吉は、一番低い身分で、縦社会である武士の世界に入った為、様々な上司と出会い仕事をしてきており、その経験が彼の人材を見る目につながっていた。彼の経験上、一番相手にしたくない人種が自分より低い身分の者を人と扱わず、虫を殺すかのように躊躇せず、潰す者である。身分の高い家の子弟にその類の者たちが多かった。その為、秀吉の職位が上がれば上がるほど、そういう者達と関わる事が多くなったのだが秀吉はそういう者たちを心底嫌っていた。
森長可は正にその代表格であった。
一番性質たちが悪いのが、主君信長が彼を寵愛しているという現実である。
秀吉は森長可の異名である鬼武蔵と呼ばれるようになった事件を思い出していた。
何年か前、信長の命により近江の瀬田に関所を設けて、通行時には身分関係なく、下馬し、氏名を名乗らせ、名乗った氏名を記し通行させていくというルールがあったが、ある日長可が急いでいるとして、下馬せずに名乗るだけで、通ろうとした。その様子をみていた関守(関所の門番)が馬を止めようと駆け寄り、馬の前に出たとたん、『この長可に下馬を強いるとは無礼なり!』と、関守の首を槍で一突きにしてしまった。
『未だ、止め立てするのであればこの関所にも、町にも火をつけるぞ!』と周囲の者を一括。
関所の責任者は、事態の深刻さが自分の手には負えないと、先ずは長可を通した。
その日、信長に対面した彼は、事の経緯を自ら信長に報告し、裁定を下して欲しいと望むと、信長は笑って罪を許し、武蔵坊弁慶の伝説と話が似ていると、今後は武蔵守と改めよと逆に彼の武勇を褒めたのである。その日から、彼の異名は鬼の様な武勇を持つ者として鬼武蔵と呼ばれる様になったが、心優しい秀吉は、無防備の関守の小物を、躊躇なく殺してしまう鬼の所業だと、別の意味で彼を鬼武蔵と呼び、密かに蔑んでいたのである。
長可殿の気性であれば、御前試合といえど、気分次第では虎之助を殺めようとする可能性がある。刀鍛冶の息子、いや、そもそも、農民上がりのワシが織田家の重臣に名前を連れている事自体、快く思っていないだろう、その腹いせが虎之助にくるだろうという予想でき怖かったのである。
秀長が、虎之助に森長可について紹介した。
森長可は、織田家の譜代の家臣森家の当主で有り、今年20歳になる若武者である。
1573年、長島一向一揆に織田信忠軍の一員で参加した彼が数名の部下と共に船で渡河し、敵陣に切り込み、一人で27人の一揆勢を討ち果たす戦果を挙げた彼は、今後の織田軍を背負って立つと期待されていると虎之助に伝えた。
『一人で、27人・・・。』、秀長が間違った情報を伝える事は無いと、思いながらも、虎之助はその数の多さに、直ぐに信じる事が出来ず、驚き、声が出てしまった。(嘘みたいな話だ。27人を打ち取れる槍の技術と、27人も続けて殺めれる精神力が、普通ではない、常軌を逸している。)
秀吉が、なぜ泣き出してしまった理由を遅まきながら、虎之助は理解したのである。
未だ戦にも出た事が無い、虎之助にとって、相手になるわけがないと、その場に同席していたもの誰もが思っていたからである。
『虎之助、本日から半年間、城へは出仕しなくてもよいぞ、これから半年間、お前は槍の訓練だけをするのじゃ。』
秀長の説明を聞き、唖然としている虎之助に対し、秀吉はそう声をかけた。
『羽柴軍団、私の面子の為、必ず勝つのじゃ、そして新妻になったばかりのシノ殿の為に生きて帰って来い。』
そう言い終わると、秀吉は、秀長の隣に座っている立派な髭を生やした男に目をやり、虎之助に彼を紹介したのである。
『秀長の隣にいる御仁ごじんは、ワシが又左またざにお願いして一緒に来てもらった、村井長頼むらいながより殿じゃ。』
秀吉の紹介に合わせ、髭の男は自己紹介を始める。
『前田家家臣、村井長頼でござる。以後お見知りおきを。』
村井長頼は、槍の又左という異名で織田家中一の槍使いとして名を馳せた前田利家の家臣であった。
御前試合をいきなり伝えられた秀吉が、又従弟の虎之助の身にもしもの事が有ってはいけないと親友でもある利家に相談し、利家より助力として彼を長浜城へよこしてくれたのである。
秀吉は言う、『虎之介、長頼ながより殿は槍の又左と言われた利家殿の直弟子じきでしである。この御仁から槍を学ぶのじゃ!』
大きい秀吉の声を受け、虎之助は、大きな声で『はっははぁ!』と頷き頭を畳に擦り付けた。
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