第40話 ベルトルド入院する

 薬品の臭いと計器を抜かせば、どこかの屋敷の寝室と見まごうばかりの豪奢な一室で、これも贅を尽くした造りのベッドに身を沈めているベルトルドが、眉をしかめて足元のルーファスにきつい視線を向けていた。


「リッキーに喋ってしまったのか、お前は」

「はあ……スンマセ~ン」


 病室に入って5分も経たないうちに、いきなり説教を食らったルーファスは、首をすくめたまま頭をさげた。

 意識もなく、酸素マスクをあてられ寝ているとばかり思っていたら、想像以上に元気そうだ。内心ちょっとガッカリする。


「心配事を増やしやがって」

「その心配事の原因になっているのは、アナタですよ」


 傍らの椅子に座して脚を組んでいるアルカネットを見上げ、バツが悪そうにベルトルドは顔をしかめた。呆れ顔のアルカネットの視線が、チクチクと猛烈に痛い。

 ベルトルドは正規軍の演習を視察中に、突然目眩を起こして昏倒した。このところ顔色が悪るかったが、とくに不調を訴えていなかったので周りも安心していた。それだけに、リュリュなど取り乱して大騒ぎし、連絡を受けた軍も行政も、あらゆる部署が騒然となって、半ばパニック状態にまで発展した。

 事実上、国政を司り動かしているのは、皇王でも宰相でもなく、副宰相であるベルトルドだ。更に軍の長である総帥の地位も兼任している。皇王が倒れるよりもおおごとだった。

 後に、ハーメンリナ全体が戦慄した日だったと、語り草にまでなったのである。


「それでその、大丈夫なんですか?」


 控えめにルーファスが問うと、アルカネットが頷いた。


「過労だそうです。寝不足に加えて、仕事が過密状態でしたから。1週間絶対安静とのことなので、このまま入院させます」

「俺はもう大丈夫だ!」

「退院しても更に1週間は、やしきでおとなしくさせます」

「ひと眠りしたから気分爽快だぞ!!」

「お黙りなさい! 倒れて騒動を起こした張本人が偉そうに言っても、説得力なんて微塵もありません」

「……」


 アルカネットに叱られ、不満をブスーっとふくれっ面に貼り付かせ、ベルトルドは黙り込んだ。

 親に叱られる子供のようだと、ルーファスはしみじみ思った。昔からこの2人のこうしたやりとりは、見ていて飽きない。

 泣く子も黙らせる――泣き止むのを待てないから威圧で泣き止ませる――副宰相と恐れられるベルトルドの、こんなふくれっ面は、滅多に拝めるものじゃないのだ。

 笑いが吹き出しそうになるのを必死で堪えていると、アルカネットがスッと立ち上がった。


「私はルーファスと屋敷に戻ります。アナタの世話はセヴェリに任せますから。――任せましたよ、セヴェリ」

「承りました」


 無言で控えていたセヴェリが、恭しく一礼した。


「俺も帰る」

「ダメだと言ったはずですよ。暫くここで、おとなしく静養しなさい」

「リッキーが一人ぼっちになるだろう」

「私が一緒に居るんですから、一人にはなりません」


 フッと笑んだアルカネットの表情かおを見て、ベルトルドは直感した。


(俺がいないのをこれ幸いとか思ってる顔だなあれは! 2人きりにさせてなるものか! 阻止してみせる!!)


「――俺も一緒に帰る!!」


 今にも跳ね起きそうなベルトルドを、反対側に控えていたセヴェリが、素早く片手で胸を押さえつけた。


「こらセヴェリっ! 主に手を出すとはいい度胸だな、おい!!」

「病院ではおとなしくなさってください旦那様。暴れますとお身体にも障りますよ」


 小柄な初老の男とは思えぬほどの力で、ベルトルドを悠々と押さえ込んでいる。セヴェリの〈才能〉スキル超能力サイなのだ。ランクはAAである。

 Overランクとはいえ、体調を崩している今のベルトルドは、セヴェリの力を跳ね除けられないでいた。

 一生懸命ジタバタしていたベルトルドは、やがて呼吸が苦しくなり、暴れるのを諦めた。


「……頼む、胸が苦しいから…もう押すな」

「これは、失礼致しました」


 どこまでも恭しいが、隙を見てベッドから抜け出そうとするベルトルドを、しっかり押さえ込んで放さなかった。

 その様子に満足し、アルカネットは零れるような笑みを浮かべた。


「それではお大事に。明日お見舞いにきますよ。いきましょうかルーファス」

「はい」


 2人が病室を出て行くと、ベルトルドは盛大に口をへの字に曲げて、露骨に鼻息を吐き出した。

 抵抗することを諦めたベルトルドから手をはなすと、セヴェリは持ってきた彼の身の回りのものを、ドレッサーやチェストに仕舞い始めた。

 その様子を退屈そうに眺めながら、ベルトルドはキュッリッキのことを考えていた。


(優しい子だからな、今頃とても心配しているだろう…)


 倒れたことを知らせなければ、仕事で帰れない、と隠すこともできた。普段忙しくしているから信じるだろう。


(ったくルーのやつ、いらんことをしおって)


 ただでさえ今は、自分のことで精一杯なのだ。

 ベルトルドとアルカネットは、キュッリッキの心を開かせて受け入れたことで、2人に対して彼女は隠し事をしなくてもよくなった。しかし、それで全てが丸く解決したわけではない。

 それまでずっと忘れようと努めてきた、辛い過去や悲しい気持ちを押し込めていた蓋が開いてしまったことで、キュッリッキは頻繁に夢に見て思い出すことになってしまった。

 更にナルバ山の出来事も加わって辛い記憶がエスカレートし、とくに夜中の状況は一層酷くなっている。

 過去を夢に見るようになり、夜中に突然目を覚まし、悲鳴をあげたり、泣き喚いたりする。その度にベルトルドとアルカネットは起こされるが、酷い時は悲しみや怒りの感情などが溢れ出し、2人を罵ったり、怪我の治っていない身体を無理に暴れさせたりする。自分の身体を傷つけようとすることもあった。

 必死になだめ落ち着かせようとする2人に、当たり散らしたことに罪悪を感じて、一晩中謝りながら泣きじゃくることもある。

 こんな調子が、2週間ばかり続いた。

 メルヴィンやルーファスから受ける報告の中で、少しずつだが、キュッリッキの様子にも変化が見られてきていた。

 穏やかな表情を、よく見せるようになったという。身構えるところも薄まってきたらしい。

 幼い頃からずっと溜め込んでいたものを吐き出し続けることで、徐々に気持ちが軽くなっていくのだろう。それは喜ばしいことで、出来るだけ吐かせてやりたい。そうすれば、愛をもっと心に強く感じられるだろう。

 怪我を負った身体で、これは酷で辛い荒療治だが、今が絶好の機会だと、ベルトルドは信じていた。




 愛されたことがなかったキュッリッキが、初めて得た大きな愛。

 ベルトルドからの――一応アルカネットも――大きな愛を、心の底から実感するためには、心の傷を悪化させている、過去の記憶や気持ちが妨げになる。

 愛を知った今だからこそ、心から苦しみを吐き出させ、愛により心の傷を癒しやすい。時間が経てば、苦しみを長引かせるだけだ。

 キュッリッキが救われるためならば、どんなことでも耐える自信があった。

 最初の1週間はそれほどでもなかったが、日増しに疲労感が顔に出るようになって、周りを不安がらせた。とくにベルトルドは連日激務が続き、休日でも出仕して、休む暇もない。唯一身体を休められる夜が潰れるからだ。

 それでついに疲労のピークに達し、病院に担ぎ込まれるという大騒動を引き起こしてしまったのだった。

 ベルトルド自身は倒れようが何だろうが、愛するキュッリッキのためなら苦痛とも感じない。むしろ、もっともっと吐き出させて、心を軽くしてやりたかった。これまでの18年間が、あまりにも辛すぎたのだ。

 心底飽くほど幸せにしてやりたい。嫌になるほど愛してやりたい。しかしそうした気持ちに身体がついてこなかったのは、涙目の無念である。

 普段は思わないことだが、今はほんの少し思う。体力の衰えは、年齢のせいじゃなかろうか、と。


「いやいや、歳のせいじゃないぞ!」


 首を振って弱気を打ち消す。ベルトルドの独り言にセヴェリが顔を向けたが、なんでもないとの主の言葉に頭を下げた。

 サイドテーブルに置かれた薬のトレイを見て、げっそりと溜息をつく。色とりどりの錠剤が、沢山盛られていた。


「リッキーと1週間も会えないとか、薬を飲むより辛いぞ」


 錠剤は喉に詰まるから、大っ嫌いだった。



* * *



 せっかく元気が出たと思った矢先に、ベルトルドの入院騒ぎで、キュッリッキの食欲は完全に失せてしまったようだった。

 夕食に付き添っていたメルヴィンは、無理に食事をすすめようとはせず、黙って様子を見守っていた。そこへノックがして、アルカネットとルーファスが姿を現した。

 メルヴィンは立ち上がり、椅子をアルカネットに譲る。


「ただいまリッキーさん。具合はいかがですか?」


 アルカネットの優しい声に、キュッリッキは今にも泣き出しそうな顔を向けた。


「ベルトルドさん入院したって、病気なの? 怪我をしたの? アタシ心配で」


 前のめりになるキュッリッキをやんわりと押しとどめながら、アルカネットは一層優しく微笑んだ。


「仕事のしすぎでただの過労です。おとなしく寝ていれば治るものですよ。まあせっかくなので入院させました。そばにいると邪魔ですしね。そんなに心配することはないのですよ、本人は呆れるくらい元気ですから」


 柔らかな笑みを浮かべるアルカネットの顔を見て、キュッリッキは僅かに肩の力を抜いた。一部の単語にアルカネットの本音が垣間見え、メルヴィンとルーファスは口の端を引きつらせた。

 それでもまだ不安そうなキュッリッキの様子に、アルカネットは立ち上がり、ベッドに座り直した。そしてキュッリッキをそっと抱き寄せる。


「本当に大丈夫ですから、安心してください」


 優しく、そっと頭を撫でてやる。キュッリッキは頷いて、アルカネットに身をあずけた。

 アルカネットは微動だにしないメルヴィンとルーファスを振り返る。


「こちらはもういいですよ。おさがりなさい」

「はい。では失礼します。リッキーさん、おやすみなさい」

「また明日ね、キューリちゃん」

「おやすみ、メルヴィン、ルーさん」


 キュッリッキのぎこちない笑みに見送られながら、2人は部屋をあとにした。




 遅くなった夕食をとりに食堂へ向かうあいだ、2人はなんとなく黙ったままだった。とくに会話もなく食堂へ着き、ルーファスは大仰な溜息とともに、だらしなく椅子に座って天井を仰いだ。


「アルカネットさんと2人だけってゆーのは、胃に悪いなあ~~。ちょー疲れた」


 弛緩しきったその様子に、メルヴィンは肩をすくめて苦笑を返す。

 テーブルには2人しかついていない。数名の給仕たちがまめまめしく、2人に料理の皿を差し出していた。メルヴィンもルーファスも、適当に自分の更に取り分けていく。


「そんなに長時間一緒だったわけじゃないけどさ、何かこう、ジワジワ~っと神経を蝕んでいくような、腹の底が重くなるような緊張があってさあ……」

「判らなくもありません」


 アルカネットは普段あまり、本音を表情にも態度にも出さない。常時にこやかな笑顔と穏やかな口調で、完璧に包み隠している。それなのに、どこか相手にプレッシャーを感じさせるところは、尋問・拷問部隊の長官をしていた頃から健在だ。

 ベルトルドとキュッリッキに対しては、そうした仮面は存在していないようだ。見ていて驚く程、表情がくるくるとよく変わる。しかし長い付き合いであるライオン傭兵団のメンバーに対しては、ずっと仮面をかぶり続けていた。そつのない笑顔の仮面を。

 ちょっと物思いに耽りだしたルーファスに、メルヴィンは身を乗り出す。


「ところで、ベルトルド様の具合は、本当に大丈夫なんですか?」

「うん、大丈夫そう。寝不足とただの過労なんだってさ。ひと眠りして、もう元気だーって、ベッドの上でふんぞり返っていたから」


 ルーファスはワイングラスを傾けながら、その様子をジェスチャーを交えて再現してみる。食堂の端々からしのび笑う声が2人の耳に届いた。控えている給仕たち使用人も、気になっていたようだった。


「このところ顔色悪かったろ。寝不足だったらしいね。そこに加えて激務激務の過重労働だったから、身体がノックダウンしたようだって」

「普段しゃかりきに若ぶっていますが、あれでもう歳、と呼んでいいですしね…」

「超中年だもんなあ~。昔ほど無理が効かなくなってくるのを、イヤイヤ実感し出す節目の歳だもんね」


 見かけは充分20代後半で通るのだが、実年齢は40を過ぎている。それをベルトルドに言うと、「俺はまだ若いぞ!」と猛烈に怒られる。

 これを機に仕事の量を減らしてくれればと、帰る道中アルカネットが話していた。もっとも、皇王からドカドカ増やされ続けて、それでいて根を上げないから際限がないらしい。

 ローストビーフをもぐもぐと噛みながら、ルーファスは行儀悪くテーブルに肘をついて肩で息をつく。


「せっかくキューリちゃんが元気になってきたのに、ベルトルド様が寝込んで洒落にならないよねえ。オレらも仕事上、健康には気をつけたいね」

「そうですね」


 キュッリッキに笑顔が戻ったところに、ベルトルドの入院騒ぎでまた曇ってしまった。食欲までも消え失せてしまったようだ。

 ベルトルドやアルカネット、そしてルーファスのように、相手の心をほぐしたり、楽しませるジョークやユーモアのセンスがメルヴィンにはなかった。もとよりそんなに社交的ではないのだ。

 それでもこんな自分に感謝してくれるキュッリッキのために、なにかしてあげたいと思う。

 明日には沢山元気になる話をしてあげよう、彼女に笑顔は戻るだろうか。そんなことをつらつらと考えながら、手にしていたグラスの中のワインを飲みほした。



* * *



 ここ数週間毎日、出勤前に必ず副宰相のやしきに寄って、少女の診察をしていくのが日課になっている。

 ヴィヒトリにとって、この少女は優秀な患者だった。

 常識では有り得ないレベルの、初めて目にする無残な深い傷を負っていた。生きていること自体稀なだと思うほど、それは本当に酷かった。患部を見たときはあまりの酷さに、処置の難解さを思って武者震いが全身を駆け巡ったほどだ。

 ヴィヒトリは医療〈才能〉スキルのスペシャリストであり、医療面の複合〈才能〉スキルを持つ、極めて珍しい〈才能〉スキル保持者だった。四大レア〈才能〉スキルと肩を並べる希少さだ。

 医療の分野は〈才能〉スキルの種類がとても多くある一つで、その中で外科の〈才能〉スキルを持つものが一番少ないとされている。

 ヴィヒトリは〈才能〉スキルだけではなく、腕も確かでレベルが高く、医療学院でもトップで成績をおさめ、現場で実践を多く積んで実力を磨いていた。

 まだ28歳と若いが、現在医療界では最高峰の医者である。

 より困難で難解な怪我や病気ほど、自らの知識と腕を伸ばしてくれるものはない。キュッリッキの怪我の手術は、ヴィヒトリの腕を更に伸ばしてくれるものだった。

 それからの縁でこうして診察をしているが、今日はいつになく神妙な顔をして、手当が終わるのをじっと待っている。いつもなら診察のために着衣の胸元を開かせると、膨らみの小さな胸を見せるのを恥ずかしがって、もそもそと無駄な抵抗をする。

 診察当初、抵抗されることにイラッ、カチンッときて、思わず「まな板のくせに!」と怒鳴ったことがある。たまたま出仕前でやしきにいたベルトルドとアルカネットに「見れるだけでもありがたいと思え!」と、意味不明のズレた説教を食らったことがあった。

 当のキュッリッキにはこれでもかとガン泣きされて、更にズレズレの説教を食らったものだ。

 しかし今日は、そんなことよりも悩み事があるようで、ずっと冴えない表情で口を閉ざしている。


「どうしたの? 元気もないし、表情もこわばっている」


 覗き込むように問うと、キュッリッキはちらりとヴィヒトリに目を向けた。口を開きかけ、すぐ閉じる。そして顎を僅かにひいて、躊躇うように再度口を開いた。


「あのね、ちょっとだけ外出しても大丈夫、かな」


 そう言うと、また顔を俯かせてしまう。


「行きたいところがあるの?」


 それには無言で頷きを返してきた。


「どこまで行きたいんだい?」

「……病院」


 ぽつりとしたその言葉に、ヴィヒトリは暫し考え込んだ。そしてあることを思い出して「ああ」と頷いた。


「副宰相閣下の、お見舞いに行きたいんだね」

「うん」


 顔を上げてヴィヒトリを見ながら、キュッリッキは大きく頷いた。

 あと4日ほどで退院して帰ってくるはずだが、よほど心配なのだろう。キュッリッキに元気がないのもそのためで、見舞いのための外出に、許可を得られるか不安だったようだ。

 ヴィヒトリは端整な顔に微笑を浮かべると、キュッリッキの顔を改めて覗き込んだ。


「ひとつだけ条件をクリアしたら、お見舞いに行ってもいいよ」

「条件?」


 嬉しさと不安が入り混じった表情で、キュッリッキは僅かに身を乗り出した。


「今日の朝ごはんを全て食べたら、行ってきてもいい」

「うっ…」


 ベッドの横に特別に設えられてあるテーブルに置かれた朝食のトレイを見て、キュッリッキの表情が嫌そうに引きつった。

 今日は生クリームの添えられたフレンチトースト、スクランブルエッグ、玉ねぎとミルクのスープ、ブロッコリーとジャガイモとニンジンの温サラダ、オレンジのムース。

 少食のキュッリッキに合わせて、量は少ない。

 この屋敷のシェフたちの料理〈才能〉スキルはSSランクである。どんなに単純な料理でも、最高級の味付けと食材を用いて作られている。

 しかしキュッリッキは、どんなにハイレベルな料理を出されようと、見ただけでお腹いっぱいになってしまう。更に今は食欲なんてなかった。

 テーブルの上の料理をチラッと見て、ヴィヒトリは苦笑を浮かべる。

 屋敷のシェフたちが、キュッリッキの食欲が出るようにと、心を砕いて用意したものだ。それが判らないわけではないだろうが、キュッリッキは手を伸ばそうとはしていなかった。

 こう毎日寝たきりでは食欲などわかないだろうし、今はベルトルドへの心配が大きすぎて、嚥下するのも難しそうである。この様子では、昼食も夕食も、殆ど食べていないだろう。

 怪我の治りは早いが、体力が落ち込みすぎていて、外出をすればたちまち疲労で倒れてしまいそうだ。さらに貧血も心配された。

 怪我の方はもう、ほっといても治る領域になっている。ヴィヒトリ自らが執刀にあたったのだ。毎日診察もしているし、経過も順調で問題もない。

 あえて問題があるとすれば、体力の回復が思わしくないことだ。

 食事もあまり口にしないようだし、ベルトルドの件以外でなにか心配事でもあるのか、このところ憔悴しているのも気になっていた。


「クリア出来そうかい?」

「ん…、が、頑張って食べる」


 崖っぷちに立たされたような表情で、キュッリッキは固く返事をした。

 ベルトルドの見舞いがしたい、その一心で決意したようだ。


「よし、頑張れ」


 ヴィヒトリは軽く笑うと、キュッリッキの頭をポンポンと優しく叩いた。




 キュッリッキの部屋を出ると、ルーファスとメルヴィンが待機していた。


「今日は診察、長引いてたね。キューリちゃん、どっか悪いん?」

「いや、そうじゃないんだけど。――ちょうどよかった、君たちに話があるんだ」


 ヴィヒトリは眼鏡を外して、シャツの裾でレンズを軽く拭くと、かけ直して笑みを深めた。


「キュッリッキちゃん、副宰相閣下のお見舞いに行きたいって。それで外出してもいいかと聞かれたから、朝ごはんを全部食べたら行ってもいい、と許可をしたよ」

「うほほ。んで、食べたの?」

「うん。時間はかかったけど、頑張って全部食べた」


 キュッリッキが残さず食べるように、ヴィヒトリはそばでじっと見ていた。

 監視があるので食べるしかなく、もそもそと口を動かして、辛そうに皿の中身を減らしていく。傍らでフェンリルが同情するようにキュッリッキを見上げていたが、その様子が痛ましいようであり、どこか微笑ましく、ヴィヒトリはずっと笑いをかみ殺していた。

 常人なら足りないくらいの朝食を全てたいらげ、キュッリッキは青ざめた顔で枕にもたれかかった。胃もたれをおこしているのだろう、ヴィヒトリは薬を飲ませて休ませた。


「1時間ほど食休みさせたら、病院へ連れて行ってあげてね。閣下のお見舞いが済んだら、ボクの診察室へ連れてきて。たぶん疲れてぐったりしちゃってるだろうから」

「判りました」


 これにはメルヴィンが神妙に頷く。


「じゃあボクは病院へ行くよ。兄貴によろしくネ」


 ひらひらと手を振ると、ヴィヒトリは行ってしまった。

 その後ろ姿を眺めながら、ルーファスが苦笑する。


「とても兄弟だとは思えないよなあ~。顔はよく似てるけど、兄は格闘バカ、弟は世界最高峰の医者ときたもんだ」

「リッキーさんは気づいてないようですけど、知ったらびっくりするでしょうねえ」

「ホントだよな。ヴァルトの弟が担当医なんてね」

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