第38話 家庭教師グンヒルド

 ベッドの傍らに急遽設えられたテーブルに、ベルトルドとアルカネットの夕食が並べられた。給仕をするために、使用人が数名傍に控える。

 お腹がすいていたベルトルドはおとなしく食事を始めたが、アルカネットはキュッリッキに食べさせる方を優先させていた。


「では、リッキーさんを学校に通わせるのですか?」


 キュッリッキが勉強をしたいという話をアルカネットにして、どういう方法をとろうかとベルトルドは相談を持ちかけた。


「んー…、仕事の合間を縫って、だと、落ち着いて出来ないだろうしなあ」


 基礎教科を学ぶための学校は、年齢制限もなく、家庭の事情などで子供の頃通えなかった大人が仕事の合間に通う者も多い。しかし仕事で休む人に合わせた進行はしないので、遅れた分は自主学習となってしまう。


「それならば、家庭教師を雇えばいいのではないでしょうか。身体を起こせるようになれば、すぐにでも開始できますし」

「ああ、それはいいな」

「家庭教師?」


 キュッリッキが不思議そうにしていると、アルカネットが頷いた。


「ええ。家に教師を招いて、勉強を教えてもらうのですよ。あらゆる教科を教えられる教師や、教科ごとなど、リッキーさんの為だけに勉強を教えてくれます」

「うわあ…」


 キュッリッキの表情が、期待にキラキラと輝いた。


「うん、そうだな、家庭教師が良いか」


 ベルトルドはワインを一口飲むと了承した。そして、と顎に手をあて考える。


「となれば、どんな教師を雇う、かだなあ」

「そこが大問題です」


 ううん、と2人は腕を組んで、神妙に考え込んだ。




 翌日、特殊部隊ダエヴァの3長官たちとの会議の場でも、ベルトルドはキュッリッキの為の家庭教師選びを考え込んでいた。周りの声など当然耳に入っていない。


「ちょっとベルぅ、話きーてんの?」


 秘書官のリュリュに耳を引っ張り上げられて、ベルトルドは「イテテ」と顔をしかめた。


「何だ? 耳を引っ張るな」

「何だじゃないわよ! 会議中よ会議っ!」

「そんなもん後でお前が書類にまとめればいいだろう。俺は忙しいんだっ!」

「どうせ桃色妄想でも浮かべてるんでしょ! ったく、真面目におやんなさい」

「リッキーの家庭教師を誰にするか考えることが、緊急の至上課題なんだ俺は!」


 拳をテーブルに叩きつけ、ベルトルドは真顔で怒鳴る。しかしリュリュは意に介した様子もなく、垂れ目を眇めてベルトルドを睨みつけた。


「そんなもん、執事に適当に選ばせておけばいいじゃないの」

「俺の可愛いリッキーに勉強を教えるんだぞ、他人に選ばせるなんぞ出来ん!」

「じゃあ、アルカネットに任せておけばぁ?」

「ヤダ」


 ツンッとベルトルドはそっぽを向く。


「あ、あの…」


 そこに、ダエヴァ第三部隊のカッレ長官が手を挙げる。


「どったの?」


 リュリュが促すと、カッレ長官は立ち上がった。


「お話に割り込むようですみません。その、家庭教師の件なのですが、推薦したい人物がございます」

「おお、カッレの知り合いか?」


 ベルトルドが喜々として身を乗り出す。


「我が姉グンヒルドなのですが、昔から家庭教師を務めておりまして、主にハーメンリンナの貴族の令嬢を相手に教えています。つい先日、生徒の令嬢がお輿入れすることになり、お暇を出されたばかりで、次の勤め先を探している状態なのです」

「あらあ、タイムリーじゃない」

「今日にでも会えるか連絡を今すぐ取れ、カッレ!」

「ハッ」




 会議室を追い出されるように連絡を取りに行ったカッレ長官は、笑顔で戻ってきた。


「是非にとも、お会いしたいそうです。21時までなら、閣下のご都合のよろしい時間に合わせられるそうです」

「おお、助かる」

「17時以降なら、時間の調整は出来るわよ」

「では、会議が終わったらリュリュと相談して時間を決めて、姉君に報告してくれ」

「承りました」




 18時に宰相府で面接することが決まり、カッレ長官に付き添われて、グンヒルドがベルトルドの執務室を訪れた。


「ようこそグンヒルド夫人、そちらにおかけください」

「ありがとうございます、副宰相閣下」


 ベルトルド自らが応接ソファセットまで、手招きでグンヒルドをエスコートした。


「それでは、小官はこれで。失礼いたします」

「ご苦労だったな、カッレ」


 多少小柄な身体付きのカッレ長官は、ビシッと背筋を伸ばして綺麗な敬礼をすると、颯爽と執務室を辞した。

 入れ違いにリュリュが紅茶を運んでくると、向き合う2人の前にカップを置いてベルトルドの後ろに控えた。


「早速本題に入らせていただく」

「はい。お忙しい中時間を割いていただいて、ありがとうございます」


 たおやかに頭を下げたグンヒルドは、ベルトルドと同じく41歳になるという。明るい栗色の髪は柔らかに結い上げられ、紺色のタイトなドレスに身を包んでいる。表情は見た者を安堵させる、優しい雰囲気をたたえており、美女というわけではないが人当たりのいい顔立ちをしていた。


「あなたに教えていただきたい生徒は、18歳の少女です。名をキュッリッキといい、俺が後ろ盾をしている傭兵団の傭兵です」

「まあ、傭兵をしているのですか、女の子が」


 グンヒルドは、やや驚いたように目を見開いた。


「子供から大人まで、珍しいことではありませんよ」


 それについてグンヒルドはこだわる様子はなく、小さく頷くにとどめた。


「ただ、複雑な事情を抱えた子で、端的に申し上げると孤児なのです。その為学業経験がありません。簡単な読み書きや計算は出来るようですが、彼女はもっと色々なことを学びたいと望んでいます」

「そうでございますか…」

「それに、少々人付き合いが苦手なところもあり、そういった面も含めて、教えていただける教師を探している次第です」


 ベルトルドの顔を見つめながら話を聞いていたグンヒルドは、ふと首をかしげる。


「実際にお会いしてみないと詳しいことは判りませんが、その方は閣下のお子様ではないのに、どうしてそこまで?」


 18歳にもなれば、ほぼ成人である。傭兵という仕事もしていて、人見知りでも学業を学びたいなら、自ら基礎学校へ通うだろう。手続きも案内が詳しく説明してくれるだろうし、第一家族でもない相手に家庭教師を付けようとは、不思議なことだとグンヒルドは思っていた。


「リッキーは――キュッリッキの愛称です、近い将来、俺の花嫁になる女性です!」


 グッと握り拳を作って、ベルトルドはドヤ顔で断言した。その後ろで、首を左右に振ってリュリュが否定する。


「愛おしすぎる花嫁の願いを叶えてこそ男というもの!」

「ドサクサに紛れて嘘を仰らないでください! 誰があなたの花嫁ですか図々しいことをヌケヌケとっ!」


 そこへドアを蹴破り、息の荒いアルカネットが飛び込んできた。全速力で走ってきたようだ。


「視察が長引いて出遅れました。お初にお目にかかりますグンヒルド夫人、リッキーさんは私の花嫁になる女性です。そこ、お間違えなく」

「誰がお前のだっ! 俺のだリッキーは!!」

「女を取っ替え引っ替えするような不誠実な人が、どの口で戯言を語るのでしょう」

「あーたたち、客人の前ってこと絶対忘れてるでしょ…」


 リュリュは手にしていたトレイで、2人の脳天を思いっきりぶっ叩いた。


「ゴメンナサイネ、お見苦しいところを。おほほほほ」


 グンヒルドはニッコリと笑顔を3人に向けつつ、


(カッレに聞いていた通りね…。面白い人たちだこと)


 内心大笑いしていた。

 世間では『泣く子も黙らせる副宰相』などと物騒な通り名を持つベルトルドだが、アルカネットとじゃれている姿を見ていると、とても恐ろしいイメージと繋がらない。リュリュも交えて3人で騒ぎ出す様子を見ていると、いつ終わるか判らなくなってきて、グンヒルドは肩をすくめて居住まいを正した。


「わたくしの詳しい職歴は、こちらの書類にしたためて参りました。明日にでもお時間をいただいて、キュッリッキ嬢にお会いさせていただいて宜しいでしょうか? 直接お会いして、お引き受けできるかどうかを判断させていただきとう存じます」


 傍らに置いてあった鞄から封書を取り出して、ベルトルドの前にスッと封書を置き、グンヒルドは笑みを深めた。



* * *



 0時を回った頃、すでにキュッリッキは眠っていたが、何やら騒がしい音に眠りの園から引っ張り出されて重い瞼を開いた。

 目に飛び込んできたのは、ベルトルドとアルカネットの恐ろしい形相である。驚いたキュッリッキは完全に目を覚まして、「ヒッ」と喉で悲鳴を上げた。


「お、おかえりなさい?」

「俺が言うんだ!」

「いいえ、私が言います!」

「いちいち出しゃばるな鬱陶しい奴め!」

「あなたこそこれだけの元気が残っているのなら、仕事の続きでもしてきたら如何ですかっ」


 お互いの顔を手で押し合いながら、怯えるキュッリッキにはお構いなしで言い争っている。

 一向に埓のあかない様子に、キュッリッキは小さく溜息をついて、


「メルヴィン、ルーさん、助けてーーーっ!」


 と、大声を上げた。

 ほどなくして血相を変えたメルヴィンとルーファスが、開けっ放しのキュッリッキの部屋に飛び込んできた。


「どうしましたっ!?」


 闖入してきたメルヴィンとルーファスに気づいて、ベルトルドとアルカネットは、思わず顔を見合わせて目を瞬かせた。




「ンもー、ベルトルド様もアルカネットさんも、寝てるキューリちゃん起こさないでくださいよー、ったく」


 腕を組んで溜息混じりに言うルーファスを、ベルトルドとアルカネットは赤面で睨みつける。


「起こそうとして起こしたわけじゃないぞ!」

「ちょっと騒がしくしてしまっただけです!」

「言い訳とか、大人げないっすよ」


 ヤレヤレとルーファスは首をすくめた。


「貴様がエラソーに言うなっ、青二才め」


 ベルトルドにポカッとグーで殴られ、ルーファスは「八つ当たりだー」と抗議の声をあげた。


「ところでどうしたんです? こんな夜更けに」


 ベッドに腰掛けて、キュッリッキの左手を優しく握っていたメルヴィンが顔を上げて問いかける。


「リッキーに話すことがあっ――くおらあああああああっ!!」

「え?」


 ベルトルドはメルヴィンの手を平手でバチンッと叩き、メルヴィンをグイッと押しのける。


「リッキーの手を握っていいのは俺だけだ!」


 押しのけられた拍子に床に尻餅をついて、メルヴィンは目をパチクリさせた。


(ムッ)


 ん?っとキュッリッキは不思議そうに眉間を寄せた。


(あれ、なんでムッとしたのアタシ?)


 メルヴィンの手がベルトルドに払いのけられた瞬間、心の中が『ムッ』としたのだ。何故そう思ったのだろとキュッリッキは訳が判らず、ちょっと不機嫌そうに唇を尖らせた。なんだか心がモヤモヤして不愉快だ。


「ほらベルトルドさまー、ちゃんと理由話さないと、キューリちゃん怒ってますよ~?」


 ルーファスに指摘され、ベルトルドは慌ててキュッリッキに笑いかけた。


「すまんリッキー、嬉しいニュースがあって、早く報せたくてすっ飛んで帰ってきたんだがそのだな」

「家庭教師の先生を見つけましたよ。明日…もう今日ですか、お昼前くらいにリッキーさんと面談をするために、いらしていただくことになりましたよ」

「え、ホント!?」

「はい」


 キュッリッキの顔が、途端パッと明るく輝いた。それを笑顔で見つめるアルカネットの後ろで、ベルトルドが両拳を握り締め、ワナワナと全身を震わせながらアルカネットを睨みつけた。


「俺が言おうとしていたのに、お前なあああああああ」


 アルカネットは肩ごしに振り向き、フッと意地の悪い笑みをベルトルドに投げつけた。


「あなたこそ、私が到着する前に勝手に話を進めていたではありませんか。お互い様です」

「ぐっ」

「家庭教師? ってなんっスかベルトルド様?」


 目を丸くするルーファスに問われ、ベルトルドはギンッとルーファスを睨んだ。


「リッキーの為に雇うことにしたんだっ!」

「は、はあ」


 それ以上訊いたら噛み付かれそうで、ルーファスはヘラリと笑った。


「もう部屋に下がれ、ルー、メルヴィン」

「そうしまっす。んじゃ、おやすみキューリちゃん」


 頷いてメルヴィンも立ち上がった。


「では、おやすみなさい、リッキーさん」

「おやすみ、ルーさん、メルヴィン」


 出て行くメルヴィンの後ろ姿を残念そうに見送り、キュッリッキは小さく息をついた。



* * *



 自分の為だけに、勉強を教えてくれる教師が会いに来る。それを思うと、キュッリッキは殆ど眠れず朝を迎えた。

 楽しみで楽しみで仕方がない気持ちが、顔満面に満ち溢れ輝いている。そんなキュッリッキの様子に、ベルトルドもアルカネットも自然と笑みがこぼれた。

 家庭教師の件で期待が膨らんで気が紛れていたのか、夜中夢にうなされることもなく苦しまなかった。それで2人とも久しぶりに熟睡出来たはずだが、実際眠れたのは4時間程度だった。寝足りない気持ちはあったが、キュッリッキが悲しまずに夜を過ごせたことが何より嬉しい。

 天蓋を見つめる瞳が、ワクワク感で揺れ動いている。感情の昂ぶっているキュッリッキの薄く赤みのさす頬に、ベルトルドはそっと触れた。


「今日の面談には付き添えないが、リッキーが気に入ったら雇うからな。だが、気に入らなかったら断るから、はっきり言いなさい」

「はい」


 キュッリッキはニッコリと笑う。


「どんなことを教わりたいか、しっかり伝えるのですよ。学問だけではなく、ダンスや行儀作法など、色々な事を教えることのできる先生のようですから」

「うん。ちゃんと言うね」


 素直に返事をするキュッリッキの左手をとり、アルカネットは掌にそっとキスをした。


「ベルトルド様、着替えに行きましょうか。出仕の用意を」

「ああ。では行ってくる、リッキー」

「行ってきます、リッキーさん」

「行ってらっしゃい」


 それぞれキュッリッキの額と頬にキスをして、名残惜しさをこれでもかと漂わせながら2人は部屋を後にした。




 待望のグンヒルドは、11時前に屋敷を訪れた。

 メイドのアリサが来訪を告げに来て少しすると、セヴェリに伴われたグンヒルドが、キュッリッキの部屋に入ってきた。その時ふわっと品の良い香水の匂いが、ゆっくりと部屋に満ちる。

 男所帯の屋敷だけに、香水の匂いは新鮮だとルーファスはふと思った。


(来た)


 キュッリッキの顔が、咄嗟に緊張に包まれる。家庭教師などしている人と話をするのは初めてのことだ。胸がドキドキした。

 柔らかそうな栗色の髪と、木漏れ日のような優しい笑顔が素敵な人だなと、キュッリッキは嬉しくなった。

 ベッドの傍まで来ると、グンヒルドは優雅な仕草で腰を落とした。


「お初にお目にかかります、グンヒルドと申します」

「ようこそいらっしゃいました。キュッリッキです」

「あ、どうかそのまま」


 身体を起こそうとしたキュッリッキを、グンヒルドは慌てて制す。少し離れて控えていたメルヴィンとルーファスも、驚いて前に踏み出した。


「まずは、お身体をお厭いくださいませ。横たわったままで構いませんよ」

「でも…」


 寝ているままだと、失礼に当たるんじゃないだろうか。そうキュッリッキが思っていることを表情から察して、グンヒルドは優しく微笑み、首を横に振った。


「大変な怪我を負っていらっしゃることは、副宰相閣下達から伺っております。それなのに、わたくしへのお心遣い、ありがとうございます」


 困ったように顔を赤らめるキュッリッキに、グンヒルドは更に笑みを深めた。

 そこへワゴンを押して、アリサがお茶を運んできた。


「あらあら、お客様を立たせたままでは失礼ですよ」


 アリサはそう言って、いまだ立ったままのグンヒルドにベッドの傍らの椅子をすすめ、キュッリッキを寝かせ直した。そして手際よくカップに紅茶を注いで、サイドテーブルに置く。


「何か御用があれば、すぐに呼んでくださいね、お嬢様」

「うん。ありがとう、アリサ」

「じゃあ、オレたちも失礼するね」

「またあとで」


 アリサが退室するのに合わせて、ルーファスとメルヴィンも一緒に部屋を後にした。




 グンヒルドと2人きりになって、何をどう切り出し話せばいいか、キュッリッキは困り果てて途方に暮れた。人見知りで、自分から話しかけるのは苦手である。それに、家庭教師になってくれるかもしれない人だ。おかしなことを言って、気を悪くしたらどうしよう。そう考えると、自信がなくて声が詰まってしまう。


「まだ、お怪我で体調の辛い時に、押しかけてきてしまってごめんなさいね」


 優しく労わるように話しかけられ、キュッリッキはゆるゆると首を振った。


「大丈夫なの。アタシがベルトルドさんにお願いしたから」


 どんな人が勉強を教えてくれるのかとても興味があったから、わざわざ会いに来てくれたことは嬉しかった。


「わたくしはお引き受けする前に、生徒さんに会うようにしています。もし相手の方がわたくしを気に入らなければ、親御さんが雇って下さっても、嫌な気持ちで教わることになるでしょう。それに、わたくしも苦手に感じる生徒さんに教えるのは集中出来ませんし。なので、お互いが気持ちよく接することができるように、前もってお話をして決めるんです」

「じゃあ、これまでに、教えたくないなって思った人はいたの?」

「ええ、何人かおりましたよ」


(うわ…、アタシもその中の一人になったらどうしよう…)


 これは迂闊なことは口に出せないと、キュッリッキはより一層緊張で固まった。

 グンヒルドは湯気の立つティーカップを手に取ると、優雅な仕草で一口含んだ。


「ベルトルド様とアルカネット様が、それはもう、あなたのことを熱心にお話になっておりましたのよ。血の繋がりはないとのことでしたが、とても大切にされているようですね」


 キュッリッキは嬉しそうに微笑みながら頷いた。

 初めて会った時から、ずっとずっと、大切にしてくれる。愛されている。ただ、毎日毎日飽きもせず、自分を取り合い喧嘩をしていることだけはいまだに不思議だ。


「あなたはベルトルド様が後ろ盾をなさっている傭兵団に、所属している傭兵なのだそうですね。傭兵のお仕事は、長いのですか?」

「8年です」

「まあ。10歳の頃からしているのですね」


 素直に驚き、グンヒルドは何度か瞬きした。

 一見、殺伐とした傭兵業とは無縁そうな少女が、10歳から傭兵をしているなど驚きを禁じえないのだ。


「では、その8年の間に、基礎学校へ行こうとは思わなかったの?」


 これには困ったように、キュッリッキは苦笑を返した。そしてちょっと迷うような表情をして、それからグンヒルドに顔を向けた。


「アタシ孤児で、ずっと修道院にいたんだけど、あることで7歳の時にそこを出たのね。それからは相棒のフェンリルと一緒に、あちこちを彷徨って、傭兵になるために危ないところを走り回っていたの」


 傭兵ギルドに身請けてもらうためには、仲介者が必要になる。また、傭兵に弟子入りするためには、戦闘、魔法、超能力サイなどの〈才能〉スキル持ちに限られる。そうした公式的手続きを踏まず、ギルドに実力を示すためには、ある程度危険な賭けが必要だ。その最も手っ取り早い方法は、現場で実力と成果を知らしめることだった。


「7歳から3年間、そんなことを続けて、ようやくギルドに正式に認められて傭兵になったの。でも、いくら傭兵になったからっていっても、小さい子供でしょ。任せてもらえるお仕事なんて、良くて護衛、悪ければ掃除やお使いなんてこともあったのよ。だから、報酬は微々たるもので…」


 今の平和なご時世、大きな戦場が発生することは多くない。戦闘力を発揮できる場所は戦場以外だと、小競り合いや勢力争い、派閥争いなどの小口や中口依頼になる。それらもギルドに登録する傭兵たちに万遍なく回ることはない。そこで、便利屋家業のような仕事も引き受けるのだ。


「基礎学校へは、一度話を聞きに行ったことはあるんだよ。授業料は無料だし、教科書も無料で支給されるけど、筆記用具は自分で用意しなきゃいけないんだって。それで、そのときは無理だなって諦めちゃったの」

「でも、お仕事でいただく報酬で、捻出できるくらいの額だったでしょうに…?」

「15歳になるまでは、護衛のお仕事も殆どもらえなかったの。だから、どこかのお屋敷の掃除とか、町内の清掃とか、宅配のお手伝いとか、子供の使いだったのね。傭兵だなんて言ってもやっぱ子供だから。時々傭兵団に入れてもらっても、アタシ上手く馴染めなくてすぐ抜けちゃってたし。でもそういうお仕事、毎日あるわけじゃないんだよ。だから、小銭をちょっとずつ食費にあてたり貯金したりで、余分なお金なんてなかった」


 生きるだけで精一杯だった。


「前住んでいたアパートに入れるまでは、ずっとギルドの3階で雑魚寝だったもん」

「そうだったんですか…」

「でも今はお金にもちょっと余裕が出てきたし、時間のあるときにお勉強したいなって、ずっと思ってたんだよ。ベルトルドさんに何かしたいことはあるかって聞かれたとき、勉強したいって言ったの。そしたら、家庭教師をって話になっていったの」


 グンヒルドは自嘲を口元にたたえた。


「ごめんなさいね。わたくし教師を名乗っているのに、まるでなにも知らなくて。傭兵の肩書きを持っているのだから、いつもしっかりと報酬がもらえているものだとばかり考えていました」


 賃金の支払い方法や額は、仕事の内容や依頼主によって変わってくる。更に、傭兵団などの組織化したところに所属していると、そこでも変わってくるのだ。それを外部の者が知る機会は殆どない。


(生きるために。ただそれだけのために、ずっと生きてきたのね…)


 勉強がしたい、学校へ行ってみたい。そう考えていても、実行する金銭的余裕が全然なかったのだと、話を聞いているだけで見えてくる。

 仕事の合間に、何故学校へ行こうとしなかったのだろうと考えたことを、グンヒルドは恥じ入った。

 怠惰などではない。熱意が低いわけでもない。孤児だから誰の助けもない中、生きていくだけで精一杯だったのだ。


「アタシ、本当に色んなことが知りたいの。難しい字も読めるようになりたいし、本も沢山読んでみたい。知らないこといっぱい知りたい」


 キュッリッキは目をキラキラさせた。


「お願いしますグンヒルド先生、アタシに勉強を教えてください」


 ハッとグンヒルドは目を見開いた。無垢なまでの目が、期待を込めて自分を見ている。こんな風に、自分に向かって教えを願う生徒がいただろうか。教師冥利につきる、と思った。心の中に、快感にも似た喜びがスーッと広がる。

 グンヒルドは頭を下げ、ゆっくりと頷いた。


「こちらこそ、わたくしを家庭教師として雇ってくださいませ」


 これまで教えてきた、貴族の甘ったれた令嬢たちとは違う。自分の持てる知識をしっかり伝えたいと、そう思わせる子だ。

 弟のカッレからこの話をされて、教える子が傭兵だと聞いて、少し躊躇いがあった。貴族や上流階級の令嬢専門の家庭教師だからだ。いくら副宰相と魔法長官の身内だからといっても、という気持ちがあったのだ。

 傭兵と聞くと、ガサツで粗野なイメージしかない。そんな子に、どう教えればいいのか迷い面談を急いだ。しかしこうして話をしてみれば、どこか幼子のような、純粋な少女である。

 きっと、楽しく授業が出来るだろう。そして自分がキュッリッキの、学の師になりたいと心から思えた。


「ありがとう! 先生」


 花開いたような明るい笑みに、グンヒルドも自然と笑みがこぼれた。

 キュッリッキは左手を伸ばして、天蓋に括りつけてあった紐を引っ張った。そして少しすると、メイドのアリサが顔を出した。


「どうなさいましたか?」

「あのね、ルーさん呼んできて欲しいの」

「ルーファス様ですか? 判りました」


 アリサは一旦ドアを閉めて、そして1分経たずにルーファスとともに戻ってきた。


「どったの? キューリちゃん」


 ルーファスがベッドの傍らまで来ると、今にも飛び起きそうなテンションのキュッリッキが、ルーファスの上着の裾を掴んだ。


「あのね、ベルトルドさん呼んで欲しいの!」

「え? 今すぐ?」

「うん!」


 ルーファスは目を丸くしたあと、グンヒルドを見る。すると、グンヒルドにも笑顔を向けられ、ルーファスはポリポリと頬を掻いた。




 左右に書類の山を8個も作り、左手でペンを走らせ、右手でハンコを押しているベルトルドは、突然ルーファスから念話を受けて特大の不機嫌さを顔に広げた。


(今は書類と格闘中だ。後にしろ後に!)

(スンマセーン。でも、キューリちゃんに「ベルトルドさん呼んで欲しいの」ってお願いされちゃったもんだから)


「それを先に言わんか馬鹿もん!!」


 思わず声に出して怒鳴ると、ベルトルドの決済をもらうために並んでいた事務官たちが、ビクッと慄いた。


「どうしたの? ベル」


 自分のデスクでペンを走らせていたリュリュが、怪訝そうに顔を上げる。


「い、いや、何でもない」


 ベルトルドは口をへの字に曲げて、首を横に振った。

 真顔になったベルトルドは作業の手を休め、意識を凝らした。


(リッキー、どうしたのかな?)


 自分の屋敷にいるキュッリッキに念話を飛ばす。


(あ、ベルトルドさん! お仕事で忙しいのにごめんねっ)


 ちゃんと気遣いながらも、待ちきれない様子の弾んだ声が、頭の中に軽やかに滑り込んでくる。その愛らしい様子に、自然と笑みが目元を覆う。


(リッキーのためなら構わないぞ。御用は何かな?)

(あのね、あのね、グンヒルド先生が、アタシの家庭教師をしてくれるって言ってくれたの)

(おお、それは良かった。とても良い先生のようだし、後で詳細を決めて、いつから来てもらうか話をしないとだ)


 キュッリッキが貴族の子女ではないと知って、多少難色を示したところがあったので、断ってくるかと思っていた。しかしそれは杞憂だったようだ。


(うん。それはベルトルドさんが決めてくれるの?)

(いや、アルカネットのやつに任せよう。そのことは、俺の方から先生にお伝えする)

(はーい)

(面談が終わったのなら、もう休みなさい。あまり眠れていなかったようだし)

(うん、そうするの)

(仕事を早めに片付けて帰るから、また後でな)

(ありがとう、ベルトルドさん)

(ご褒美に、帰ったらほっぺにチューしてくれる?)

(いいよ~)


 オシャッ! とベルトルドは握り拳をグッと握った。自分からキスすることはあっても、キュッリッキからしてくることはない。何気なく言ってみただけだったが、あっさりOKが返ってきて、ベルトルドの心の暴れん棒にエンジンがかかった。が、


「小娘との念話は終わったようね?」


 ひっそりと横に立つリュリュが、無表情に見おろしてくる。ベルトルドはギクッと身体を強ばらせた。


「鼻の下なんか伸ばして…。そんなにお仕置きして欲しいのン?」


 舌を舐めずる音がして鳥肌が立ち、素早く股間を両手で庇うと、チェアーごとリュリュから離れる。


「嫌だ! 俺は清らかな身体で帰宅せねばならん!」

「まあ、今はこの長蛇の列を処理しないことには、だけど。お仕事終わったら、ね~っとりしゃぶり尽くしてあげるから、楽しみにしてらっしゃい」

「仕事終わったら真っ直ぐおうちにかえる!!」


 心の暴れん棒はエンストを起こし、急速に萎え、ベルトルドは泣き叫ぶように怒鳴った。




「えへへ、ベルトルドさんも良かったって言ってくれたの」


 ベルトルドがリュリュのお仕置き宣言に怯えているなど知らないキュッリッキは、嬉しさに無邪気な笑みをこぼしていた。


「よかったね、キューリちゃん」

「うんっ! ルーさんも連絡ありがとう」

「どういたしまして」

「それでは、わたくしお暇させていただきますね」


 グンヒルドは立ち上がると、キュッリッキとルーファスに、そつのない会釈をした。


「授業が開始できるのを、楽しみにお待ちしておりますわね。その間に、カリキュラムを組んでおきます」

「はい。その時はよろしくお願いします」

「じゃあオレ、グンヒルドさんを見送ってくるよ」

「ありがとうございます」


 部屋を出て行く2人の後ろ姿を見送り、キュッリッキはホッとしたように息をついた。

 元気になったら、あの優しい人から色んなことを教わることができる。それはとてもとても楽しみで、嬉しさに胸をふくらませ、ゆっくりと目を閉じた。




 基礎学校とは、社会で生きていく上で、必須になる知識を無料で教えてくれる学校である。

 運営は国が行っており、国の至るところに開校されていて、年齢も種族も問わず、教わることができた。

 ハワドウレ皇国の辺境にある小さな町で、キュッリッキは基礎学校を見つけた。

 ギルドから受けた仕事で訪れていたが、お使いだったのですぐ終わり、戻る前にちょっと覗いてみたくて足を伸ばした。

 小さな木造の小屋は粗末な柵に敷地を覆われ、小屋の中では子供や大人が教科書を手に授業を受けている。それを柵の外からキュッリッキは見ていた。

 先ほど役所の受付で、案内やら説明を受けてきたが、今のキュッリッキには学校へ通う金銭的余裕が一切ない。

 半年前に傭兵として正式に認定されて、少ない報酬の仕事をようやく回してもらえている状態だ。

 筆記用具はそれほど高価な品ではなかったが、日々の食費や生活費を、どうにかギリギリ賄える程度しか持ち合わせがないので、筆記用具に費やすお金がないのである。

 まだ10歳のキュッリッキには、沢山の報酬がもらえる仕事は回してもらえない。違法的なものに手を染めればいくらでもあったが、それだけはフェンリルから止められている。もし手を出したら、表社会で生きていけなくなる。そういつも言い含められていた。

 しょんぼりした気持ちで町の中に戻ってくると、雑貨屋からキュッリッキと同い年くらいの少女が、紙袋を胸に押し抱いて出てきた。


「ちゃんとお勉強するんですよ」


 後から出てきたのは、少女の母親だろうか。


「判ってるわ。明日から新しい課題になるから、新しいノートが必要なんだもの」


 楽しそうに笑い、話をする親子を見つめながら、キュッリッキはスカートをギュッと握って下唇を噛んだ。


(大きくなれば、もっといっぱい報酬がもらえる仕事もできるし、学校へも行けるようになるんだもん…)


 今は小さな仕事でも、しっかりこなして信頼を得なければならない。仕事に選り好みはできない。やれるものからやって、お金も貯める。

 いつか、学校へ行けるようになる。だから、今は我慢するのだ。




「……ああ、リッキーの記憶ゆめか」


 ベルトルドとアルカネットは同時に目を覚まし、首を巡らせキュッリッキを見た。

 呼吸は正常だし、うなされてもいない。

 ただ、つうっと涙が一筋、頬を伝っていった。


「リッキーさん…」


 アルカネットは手を伸ばして、キュッリッキの頭を何度も優しく撫でた。


「俺の超能力サイの影響で、お前にも視えてしまったようだな」

「ええ…」


 キュッリッキの見ていた過去の記憶の夢。

 物理的に痛めつけられたものではないが、子供にはとても辛い出来事の一つだっただろう。


「こんな形で心を傷つけられることもあるのだな。一方では当たり前のことでも、リッキーにとっては高嶺の望みだ。家庭教師の件で思い出させてしまったか…。悪いことをした」

「授業が始まれば、この過去の出来事も、苦い思い出の一つとして流せる時が来るでしょう」

「そうだな。――教科書だけじゃなく、筆記用具類もセットで支給するように改正して、予算を組むよう提案してみるか」

「それは良い案だと思いますよ」

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