第36話 溢れだす忌まわしい記憶

 ベルトルドは着替えが下手だった。脱ぐのは大得意だが、軍服や着こなしが必要な衣服を身につけると見事に着崩れてしまう。意図的にそうしているわけではなく、天然で崩れるのだ。そのため着替えに時間がかかるので、ベッドにしがみついて起きようともしないベルトルドを、アルカネットは魔法で引き剥がし、ベルトルドの部屋へと連れてきていた。

 寝ぼけ眼をこすりながら、ベルトルドは軍服を着る作業に取り掛かる。アルカネットがテーブルの上に順番に並べていたので、それを着るだけなのだが。


「どうしてアナタは、毎日同じ作業をしていて上達しないのでしょうね…一体何歳いくつの子供なんでしょう」

「人間誰しも得意不得意はあるもんだ。それに、俺は脱ぐのは得意だぞ。あと女の服を脱がすのも大得意だ!」


 何故かドヤ顔で得意げにフフンッと笑う。


「そうでしょうとも。あれだけ御乱行していれば。素っ裸で帰ってくることも多かったですしね」

「…もう俺は、女遊びは辞めたんだ!」

「別に辞めなくてもいいのですよ? お好きなだけ女を取っ替え引っ替えして遊んでいればいいのです。リッキーさんには私がいますから、安心してくださいな」

「余計安心出来るかっ!」


 ようやく軍服を全て身に付け、鏡の前に立つ。

 雑に着たベルトルドの軍服を直しながら、アルカネットはホッとした表情で言った。


「それにしても、リッキーさんの心を救ってあげることができて、本当に良かったですよ」

「まだだぞ」

「え?」


 真顔になるベルトルドの顔を見つめ、アルカネットは首をかしげる。


「救ってあげられたのは、まだほんの表面だけだ。本当の意味で救うことになるのは、これからだ」

「確かに、言葉にして想いを伝えただけに過ぎませんが…。まだ何か、彼女の心に問題があるのですか?」

「お前にも見せただろう、リッキーの過去を。俺たちが考える以上に、リッキーの心の傷は深いんだ。愛を伝えただけでそう簡単に癒えるほど軽いものじゃない。お前も本気でリッキーを愛しているなら、覚悟しておけよ」


 眉間を寄せたアルカネットに、ベルトルドは頷いた。


「俺たちは愛という鍵を使って、リッキーが忘れようとしていたものを収めた、心の奥底にある箱の蓋を無理やりこじ開けてしまったんだからな」



* * *



 メイド総出の身支度とヴィヒトリ医師の手当と診察が終わると、朝食の膳を持ってメルヴィンが部屋に入ってきた。


「おはようございます、リッキーさん」

「おはよう、メルヴィン」


 キュッリッキの顔を見るなり、メルヴィンは表情を曇らせた。


「どうしたの? メルヴィン」


 メルヴィンの表情に気づいて、キュッリッキは不思議そうに目を瞬かせる。


「い、いえ。何でもありません」


 表情に出してしまったことに小さく苦笑して、メルヴィンはベッドの傍らの椅子に座った。


「少しでもいいから、食べませんか?」


 昨日と同じ匂いがするスープと、グルーエルの皿が膳にのっていた。


「うん、じゃあ、ちょっとだけ」

「はい」


 メルヴィンは優しく微笑むと、サイドテーブルに膳を置いて、キュッリッキの身体を少し起こしてやる。シーツや寝間着を汚さないように、ナフキンを敷いた。

 スープの皿を手に取り、スプーンをキュッリッキの口に運ぶ。


「うわあ、美味しい」


 水と薬以外の食べ物を口に入れるのは、とても久しぶりである。口の中いっぱいに、染み渡るようにコンソメの味が広がった。そしてほんのわずかに中薬の風味がする。コンソメ味の薬膳スープだ。


「もう少し飲めますか?」

「うん。全部飲めるかも」

「良かった。さあ、どうぞ」

「ありがとう」


 急に食欲が沸いてきて、スープが喉をどんどん通り過ぎていく。少なめに盛られてはいたが、スープは全て胃袋におさまった。

 グルーエルはふた口ほど食べて、キュッリッキはもう満腹感を得てしまった。

 たとえ量は少なくても、何かを食べてくれたことに、メルヴィンは心から安堵した。キュッリッキが食事をしているところを見るのは、ナルバ山に出かける前のことだったからだ。


「久しぶりのご飯美味しかった」


 キュッリッキは至極満足そうに微笑んだ。


「良かったです。どんどん元気になりますね」

「うん」

「あとで、食べたいものなどありますか?」

「んー…」


 今は満腹だから、とくに思いつかなかった。それを正直に言うと、


「では、リッキーさんの好きな料理ってなんですか?」


 そう聞き返された。


「料理? 料理……生野菜じゃなければ、普通にどれも食べられるかなあ。ムースは好きかも。レモン味とかオレンジ味の」

「なるほど、判りました」


 メルヴィンは微笑み、あらかじめヴィヒトリから渡されていた痛み止めの薬をキュッリッキに飲ませた。

 キュッリッキを寝かせ直して、メルヴィンは膳を下げに一旦部屋を出た。そして戻ってくると、キュッリッキは眠っていた。

 穏やかな表情で眠っているが、目はまだ腫れている。よほど沢山泣いたのだろう。隣の部屋にいたメルヴィンにも、泣き声はずっと聞こえていたのだ。

 昨夜、夕食を早めに済ませたメルヴィンとルーファスが戻ると、閉ざされた扉の向こうからキュッリッキの泣き声が聞こえてきた。かなりの大声で泣いているのだろう、廊下にまでその声は響いていた。

 不安になってノックをして入ろうとした矢先、扉が開いてアルカネットが顔を出して、「今日はもういいですから、おさがりなさい」そう言われ今に至る。

 何事があったのか問いただしたかったが、昨日とは打って変わり、憑き物が落ちた表情かおをしていた。それでなんとなく聞きそびれてしまったのだ。

 律儀と真面目が取り柄のメルヴィンは、一つのことが気になりだすと解決するまでトコトン気になってしまう。

 何故あんなに目を腫らすくらい泣いていたのか、その理由が気になってしょうがない。

 別に自分が原因ではないのは判っている。それでも無性に気になってしまうのは、今の自分はキュッリッキを慰め、励ます役割を任されているからだ。


「あの遺跡で血溜まりに身を浸し、息も絶え絶えになっていた彼女を、オレはただ励ますことしかできなかった。横に座り込んで冷えていく手を握り、話しかけていただけ。ランドンさんやカーティスさんたちが必死で止血や痛みを和らげようと魔法を使っていたとき、何も出来ていなかった己が情けない。魔法も医療も〈才能〉スキルが違うのだからしょうがないにしても、なにかもっと他に、彼女の助けになることが出来なかったんだろうか」


 キュッリッキに何一つしてやれなかったことが、メルヴィンの気を塞いでいた。

 ベッドの傍らの椅子に座り、キュッリッキの顔を見つめる。

 初めてアジトに来た時は、美しく愛らしい顔は緊張で強張り、本当にこの先やっていけるのかと心配になったほどだ。しかし1週間ほど経つと、少しずつだが余裕も見え始め、さあこれからだ、といった矢先に大怪我を負ってしまった。

 仕事の時の、生き生きとした笑顔を思い出し、キュッと胸が締め付けられる。

 何度見ても見飽きない、素敵な笑顔だった。


「リッキーさん…」


 切なげに呟いて、ひっそり溜息をこぼしたところで、扉がノックされてルーファスが入ってきた。


「ただいまっ」

「おかえりなさい。みんなの様子はどうでしたか?」

「どっと疲れてたけど、とりあえず平気そう。ただみんな、キューリちゃんの様子が気になってしょうがないって感じだったネ」

「そうですか…」


 ルーファスは早朝に屋敷を出て、エルダー街のアジトへ様子を見に行っていた。

 みんな顔に疲労を貼りつけながらも、しっかりと朝食は摂っていた。


「どう? キューリちゃんの様子は」

「ええ、さっき少し朝食を摂ってくれました。機嫌も良かったですし、痛み止めの薬を飲ませたあと、こうして眠ってしまいました」

「そっかあ」


 ルーファスも昨夜のことは気になっている。しかもベルトルドとアルカネットにガッチリガードされていたものだから、のぞき見もできなかったのだ。


「ベルトルド様とアルカネットさんに、悪さされた、とかじゃあないよねえ~?」

「そんなことをされた後の様子には、見えませんでしたね…」


 2人は苦笑いをしながら溜息をこぼす。


「エッチなことされてたら、さすがにオレらにも話しづらいだろうし、まあ、おっさんたちを信じるしかないってのがねえ」

「イコールそういうふうにしか思えないあたりが、情けない気がしてなりません」

「だってサー、アルカネットさんはともかく、ベルトルド様だよ~。貴婦人たちは取っ替え引っ替え、風俗店にも足繁く通い、愛読書はエロ本だよ」

「ほ、本当なんですか…?」

「ウン。何年か前にエルダー街にあったストリップ劇場、アレ買い取っちゃったもん」

「……」


 この場にベルトルドがいたら、殺されそうなことをルーファスは平然と暴露った。


「まあ、キューリちゃんこんなに可愛いけど、色気がナイからなあ~」

「それが、唯一の救いでしょうかね…」


 自分でそう言っておいて、メルヴィンは頭を激しく横に振る。気にするのはそこではない。


「オレちょっと、ベルトルド様の部屋行ってくる」

「え?」

「棚の中にベルトルド様秘蔵のエロ本いっぱい見っけちゃってさ。何冊か持ってくるね~」


 そう言って、ルーファスは鼻歌を奏でながら部屋を出ていった。



* * *



「リッキー、リッキー!」

「リッキーさん!」


 声がして、更に身体が揺さぶられ、キュッリッキはハッと目を開いた。部屋の中はまだ暗く、明かりが横から感じられて目を向ける。ベッドサイドのランプが、頼りなげな光を放っていた。そして人の気配が左右からして、男が2人、覗き込んでいた。


「大丈夫か? リッキー」


 覗き込んできながら、心配そうな声を出す男を凝視する。

 キュッリッキは暫く男を見ていたが、やがて表情を険しくさせ、男を睨みつけた。


「アタシに近寄るな!」


 キュッリッキは大きな声で怒鳴った。


「アタシのことを虐める大人なんて大っ嫌いなんだ!」


 一息に言って「ハァ、ハァ」と何度も荒い息を吐き出す。そして目の前の男を突き飛ばしてやりたくて、身体を起こそうとした。


「動いてはダメだ!」

「離せええっ」

「リッキー!」

「触るなああああああああ」


 包帯でキツく縛られている右半身は動かないが、左半身で精一杯の抵抗を試みる。足も大きくばたつかせ、押さえつけてくる男たちの手から逃れようと必死になった。


「傷口が開いてしまいます、落ち着いてください、リッキーさん」


 もう一人の男は慌て、どうしていいか判らず右往左往状態だ。逆に、先程から話しかけてくる男は、冷静な表情でキュッリッキを見据え、そして何度も優しく話しかけ続けてきた。




「俺だ、リッキー、ベルトルドだ。リッキー」


 同じ言葉を辛抱強く言い続ける。

 10分ほどそんな状況が続いたが、やがてキュッリッキはくたりと動かなくなり、ジワジワと目尻に涙を浮かべると、しゃくり上げながら泣き始めた。


「ごめん…なさ…い…ごめ…」

「ヨシヨシ、良い子だ」


 大きな声で泣くキュッリッキの頭を、ベルトルドは腕に抱いて、もう片方の手で優しく頬を撫でた。

 正気に戻ったキュッリッキを見て、アルカネットはホッと胸をなでおろした。

 眠りについて暫くすると、苦しそうな唸り声が聞こえてきて目を覚ました。そして隣を見ると、顔に大汗を滲ませながら、キュッリッキが唸っていた。ベルトルドも目を覚まし、2人がかりでキュッリッキを目覚めさせようとして今に至る。

 段々と泣き声も小さくなり、何度かしゃくりながら、キュッリッキは水底に沈んでいくように目を瞑る。


「ベルトルド様、これは一体…」


 キュッリッキが眠ったのを確認してから、アルカネットは声を顰め、怪訝そうにベルトルドを見る。


「辛い過去を、夢にみていたようだ」

「…夢、ですか」

「よほど辛いことだったのだろうな。泣き出すまで、俺のことが判っていなかった」


 横になったベルトルドは、手を伸ばしてキュッリッキの頭をそっと撫でてやる。表情がやるせなく歪んだ。

 ベルトルドの顔を見て、そしてキュッリッキを見る。アルカネットは小さく息を吐くと、再びベルトルドに目を向けた。


「……昨日仰っていたことは、このことだったのですか」

「ああ、そうだ」



* * *



 キュッリッキは膝を抱えて、平らな地面に座っていた。周りは暗くて、でも自分の姿はハッキリと浮かんでいる。

 これは意識の中だ、とキュッリッキには判っている。時々、スコンッと陥る時があるのだ。


(また、やっちゃった…)


 過去のことを夢に見て、見境がつかなくなり、ベルトルドとアルカネットに酷い態度を取ってしまった。しかし2人は、もうこれからそのことを気に病まなくていい、どんどんぶつけろと言ってくれた。でも、そんな態度を取ってしまうと、後でこうして気が塞いでしまうのだ。


(あれは、フェンリルと一緒に、初めて惑星ヒイシに来たばかりの頃のだったなあ…)


 顔を上げたキュッリッキの目の前でぼんやりと空間が滲み、そこに幼い頃のキュッリッキの姿を映し出した。




 修道院の建つ奇岩の上から突き落とされたキュッリッキは、間一髪フェンリルに助けられ、そのまま修道院を出て行った。

 行くあてなどないし、この先ずっと生きていかなくてはならない。生きる目的も目標もなかったが、死んでしまうのは嫌だった。

 アイオン族の治める惑星ペッコは浮遊する大陸や島が多くあり、街や村などは殆ど浮遊島や浮遊大陸にある。地に根ざした土地には畑や牧場などしかなく、飛べないキュッリッキには厳しい環境だ。

 そこでフェンリルは、キュッリッキを惑星ヒイシに連れてきた。ヴィプネン族が治める惑星だ。ここでならアイオン族だということを隠し、ヴィプネン族に紛れて生きていける。片翼で迫害を受けることはないのだ。

 迫害の心配はなくなったが、7歳の幼い少女が生きるには厳しい環境であることに変わりはない。

 フェンリルはキュッリッキを施設にあずけることは絶対にしなかった。アイオン族の修道院でキュッリッキが受けていた差別や虐めの数々を見てきて、人間を信用できなくなっていたからだ。あんな目に遭うくらいなら、1人で生きていけばいい、そうフェンリルは譲らなかった。そしてフェンリルとキュッリッキは、惑星ヒイシを彷徨った。

 ちょっと賑やかな町にたどり着いたとき、キュッリッキはお腹がすき過ぎて、町の隅に座り込んでしまった。


「なにかたべたいの…」


 悲鳴を上げっぱなしのお腹を小さな手で押さえ、目に涙をいっぱい浮かべてキュッリッキは肩を震わせた。

 神であるフェンリルには空腹などない。食事をすることがないので、キュッリッキの食の心配を一切していなかったのだ。フェンリルは慌てて食べ物を調達しに、町の中に飛び出していった。




 フェンリルが町の中に消えて暫くすると、とても美味しそうな匂いがキュッリッキの鼻先を掠めていった。これは、パンの焼ける匂いだ。

 キュッリッキはフラフラと立ち上がると、香ばしい匂いを辿ってトボトボと歩き出した。パンの匂いに刺激された胃袋が、もう止まらないほど鳴きっぱなしだ。

 焼きたての美味しそうなパンが、露店の台の上に山ほど積まれている。温かな湯気がまだたっていて、辺りを香ばしい匂いで包み込んでいた。

 それが”店”だということをキュッリッキは知らない。そして、台の上のパンが”売り物”であるということも知らなかった。露店など初めて目にするのである。

 キュッリッキは爪先立って必死に手を伸ばし、台の上のパンを手にとった。その時、


「なっ、なんだいこの薄汚い子は!」


 痩せぎすの中年の女が、驚いた顔で大声を上げた。


「この私の目の前で、堂々と盗みを働くとか、とんでもない子だよ!」


 キュッリッキは唖然として、ただただ女を見上げた。細長い四角いパンを、無意識にギュッと胸の前で抱きしめた。


「大事な商売品を、お返しよ!!」


 中年の女は長い腕を伸ばし、キュッリッキの抱きしめるパンを掴み力いっぱい引っ張った。その拍子に、キュッリッキは前につんのめって、仰向けに地面に倒れてしまった。


「なんの騒ぎだ」

「アンタ」


 露店の前に、恰幅のいい男が怪訝そうに寄ってきた。


「この薄汚いガキが、パンを盗もうとしたんだよっ」

「なんだってぇ?」


 男は禿げ上がった額を押さえて「ハァ…」と息を吐き出すと、倒れているキュッリッキの横腹を思い切り蹴りつけた。


(!?)


 重い衝撃と痛みがいきなり襲ってきて、キュッリッキは目を見開き、そして胃液を吐きだした。目からは涙が弾け飛ぶ。


「このあたりじゃ見かけねえガキだな。どっから流れてきたんだ、この乞食が」


 男はもう一度、激しい蹴りを腹に見舞った。

 痛みと酷い吐き気で目眩がして、キュッリッキは起き上がることも声を出すこともできない。それ以上に、恐怖に包まれて震えだした。


(こわいよ…、こわいよ…)


「裏のドブ川にでも捨てときなよ」

「ああ、そうすっか」


 男はキュッリッキの襟元を掴んで持ち上げると、小さな左右の頬を何度も平手打ちする。


「テメーの親の代わりに、躾てやる。泥棒は悪いことだってな」


 再び強く打ち付けられて、キュッリッキはついに意識を手放した。


「どれ、捨ててくるか」


 キュッリッキを片手にぶら下げたまま、男は町の裏に流れるドブ川までくると、キュッリッキの顔にヤニ臭い唾を吐きつけた。


「二度とくるんじゃねえ」


 軽々とキュッリッキをドブ川に放り込むと、男は愉快そうにゲラゲラと笑って町へ戻っていった。

 溺死する寸前、駆けつけたフェンリルに助け出されキュッリッキは命を取り留めた。




(泥棒しちゃったのはアタシが悪いけど、あの時は、悪いことだって知らなかったんだもん…)


 本当に何も知らなかった。誰も、教えてくれなかったから。


(もう思い出したくない……。思い出したくないよ)


 キュッリッキの意識は、やがて闇色の中に、ゆっくりと溶け込んでいった。



* * *



「これから暫くは、どんどん過去の記憶を夢に見るぞ」

「そんな、どうにかできないんですか?」

「どうにもしない」


 天蓋を見つめながら、ベルトルドは素っ気なく言い切った。その、あまりにも淡白な言いようにアルカネットが鼻白む。


「……出来ないからしないのか、出来るけどしたくないのか、どっちなのですか?」


 恨み言のような口調になるアルカネットに、ベルトルドはフンッと鼻を鳴らす。


「そのどっちでもない」

「理由を、お聞かせください」

「溜め込んでいるものを、全部吐き出させるためだ」


 ベルトルドはアルカネットの方へと身体の向きを変えた。そして、今にも飛びかかってきそうなアルカネットの顔を、ジッと見据える。


「思い出すのは辛いだろう。その時の状況や気持ちも全部蘇るのだからな。だがな、そんな汚泥をいつまでも心の中に溜め続け、蓋をしても、かえって精神や身体に悪影響しか及ぼさない。これまで居場所を得られなかった最大の要因だからだ。それならば、全て吐き出させて心を軽くしてやりたい。本当の意味で、心から救ってやりたいんだ」

「しかし、今でなくてもいいでしょう? こんな大怪我を負っているというのに、逆効果にしかなりませんよ」


 ベルトルドの言っていることは理解しているが、今のキュッリッキの健康状態を考えると、無理強いはしたくないのがアルカネットの心情だ。


「怪我の治りを遅くするかもしれません…。あなたは、あの酷い怪我を直に見ていないから、無慈悲に言えるのです」

「怪我のことならヴィヒトリに任せてある。あいつが診ているんだから、リッキーの怪我は予定通りに必ず治るさ」

「呑気な言い草ですね」

「今がチャンスなんだよ、アルカネット」

「意味が判りません」

「俺の愛がリッキーの心に安心感を芽生えさせた。そのことで、もう辛いことを1人で抱え込まず全部俺にぶつければいい、そう思うことができるようになった。そして今は気が緩んでいるから、どんどん思い出してくる。全部吐き出させるチャンスなんだ」

「……私の愛で、と訂正しておきます」

「フンッ」


 ベルトルドは2人の間に挟まれて眠るキュッリッキの髪の毛を、指に掬い取った。


「辛くても辛いと言えない幼少期を送ってきたんだ。慰めてくれる大人も持たず、優しくしてくれる大人もいなかった。甘えることも知らないから、これから存分に甘やかしてやらないとな」

「まるで父親ですね」


 ベルトルドは物凄く嫌そうな顔をアルカネットに向ける。


「愛し合う恋人同士だろうが」

「いえいえ、娘を案じる父親そのものですよ」

「……リッキーの怪我が治ったら、もっと色っぽい関係に導いてやる」

「私がそれを許すとお思いですか?」

「邪魔すんなっ」


 シッ、シッとベルトルドは払う仕草で片手を振った。


「馬鹿な真似をしていないで、もう寝てください。起こす私の身にもなっていただきたいものです」

「俺は低血圧なんだ」

「ハイハイ。おやすみなさい」

「……おやすみ」

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