第31話

 俺は身体を起こした。ケレも帰ったし、もう良いだろう。そうしてみると、俺自身の身体も透け始めていた。横のプラも同じくだ。良かった。速やかに帰れそうだ。


「今回はしんどかったな。」

「はい。」

「でも、まあ、病院の清算時間には間に合ってくれるだろう。と期待したいが、どう出るかな。」

「はい。」


 応えるプラの表情が冴えない。


「どうかしたのか。」

「いえ、ケレさん、無事かなって…。私をかばって負傷されたので、余計に気になって。」

「俺も気にはなるが、どうしようもないさ。田中結愛なんて、あちこちに同姓同名もいるだろしな。」


 そこで俺ははっと気づいた。


「おい、下手に調べようとするなよ。お前みたいなおっさんが若い女のことを嗅ぎまわったら、マズいことになるぞ。」


俺の忠告を聞いて、プラが何か言おうとした。が、その時には既に風景もプラの姿もとろけきって、声は俺に届かない。おいおい、頼むぞ。ああ、そうか、現実世界でもう一度言っておいてやればいいんだ。


 じきに辺り一面が眩しく輝き、気付いた時には俺は病院の長椅子に腰かけてうなだれていた。目をしばたいて、腕時計を確認する。眠っていたのは小一時間程度のようだ。転寝する前に眺めていた、長話の婆さんはもういない。番号札から察するに、俺は次の次あたりに呼ばれる予定だ。ふう、ギリギリだ。危ないところだった。


 俺は何の問題もなく支払いを済ませ、窓口を後にした。幾度かさりげなく待合を眺めたが、深谷の姿は見えなかった。俺が目を覚ます前に出て行ったのかもしれない。もう一度釘を刺しておきたかったのに、残念だ。まあ、あいつもいい歳の大人だ。分別はあるだろう。


 俺は自宅に戻った。娘は夜に会議の予定ができたとかで、明日顔を出すと連絡があった。だから、今は家にイヌしかいない。が、クーラーはつけっぱなしだ。昨日、暑さでバテていたというショコラのためだろう。


「おうい、ただいま。」


 部屋の戸を開けて、俺は声を掛けた。ショコラはお気に入りの古座布団の上で安穏といびきをかいている。俺はその頭をそっと撫でた。薄桃色のふわふわより、この禿げ散らかしたまだら模様の方が俺は好きだ。


 眠りから覚めたのか、ショコラが薄眼を開けた。くうん、と微かに鼻を鳴らす。


「お前も、あっちに行ってたのか?」


ばかばかしいと思いつつも、尋ねてみる。だが、イヌが喋ろうはずもなく、べろりと俺の顔を舐めただけだ。


 まあ、そんなもんだろう。俺はこのよぼよぼのショコラが気に入っているし、よれよれの自分で十分だ。あの夢が何だったのかは分からんが、分かることなく棺桶に入ることになるはずだ。それで構わない。ジジイともなると、さして現世に未練はない。理解できないことも、思い出したくないことも、一緒くたに火葬して終わりにしてほしいと思う。


 俺は空腹を覚えたので、冷蔵庫を開けた。あり合わせで適当な夕飯でも作ろうと思ったのだが、昨日のうちに娘があれこれと置いていった形跡がある。俺は米だけ炊いて、娘の置き土産を電子レンジで温めて腹に詰めた。そのわきでは、ショコラがいつものドッグフードをもさもさと食べている。何の変哲もない、ジジイの日常だ。


「夏の間は、お前の散歩は、日が暮れてからにするか。」


返事が無いと分かっているが、ショコラに話しかけるのが俺の習いである。ジジイ一人、老犬一匹のつましい暮らしでは、自然とそうなる。今日もまた、ショコラはワンとすら言わないが、もう慣れっこだ。


 夜、床に就いたときには、一瞬不安がよぎった。またぞろ、魔法少年の世界に誘われるのではないかと。だが、色々あって疲れていた俺はしっかり熟睡し、夢の一つも見ることなく朝を迎えた。


 ただ、それが逆に薄気味悪くて、俺は何となく頭に薄もやがかかったような心持で過ごした。ボケちまったのか、と不安になったが、おつむに差し障りは無かったはず。その日来る予定だった娘は、今度は急な通夜が入ったらしく、遅い時間にちらっと寄っただけだったが、俺を見てもボケたとは言わなかったので、まあ大丈夫なんだろう。

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