第197話 『御公儀と大村家中-佐賀藩の二番手争い-』

 安政三年二月一日(1856/3/7) 


 幕閣との舌戦が終わり、何とか事なきを得た次郎であったが、阿部正弘の体調が気にかかり、医師団の派遣を申し出た。立場は違えど国を思う気持ちと、相通じる部分があると感じたからだ。


 もし生きていれば幕末は変わっていたかもしれない、と言われていた(?)正弘であったが、その申し出は断られた。なにせ疑惑の渦中にある大村藩である。


 ここで次郎の申し出を受け入れれば、あらぬ疑いをかけられるかもしれないと思ったのだ。


 そんなくそくだらない理由で自分の命を削っても、と次郎は再度の申し出を行ったが、それでも丁重に断られ、それ以上は勧める事が出来なかった。これも時代の性であろうか。


 



 幕府は浦賀で建造した鳳凰ほうおう丸と、寄贈されたスンビン号を観光丸と名付けて、幕臣による海軍の創設を急いでいた。鳳凰丸の建造で、帆船の建造と修理を行う技術が幕府にはある事を証明したが、蒸気船は未開の分野であった。


 歴史は急速に帆船から汽帆船の時代へ移っており、それがために鳳凰丸は輸送船として使われていく事になる。オランダに発注していた咸臨丸が日本に回航されてくるのは来年だ。


 その翌年、朝陽丸が届く。


 現在、幕府では自力で蒸気軍艦を建造しようとの動きはない。造船所を新たに造成し、技師を雇い教育を施していくよりも、買った方が早いと考えているようだ。


 ある意味、それは正しい。これから技術を学んで建造しようとしても、外国に対抗しうる軍艦を建造するには数年以上かかるからだ。そんな悠長な事をやっている暇はないが、船はいずれ故障する。


 その時はいったいどうするのであろうか?


 



 ペリー来航から3年が経つが、幕府も無為無策ではなかった。嘉永六年(1853年)のペリー来航以来、オランダ語に関わらず幅広く海防の情報を収集する必要を痛感していたのだ。


 天文方の翻訳部門であった蛮書和解御用掛を拡充し、一方で異国応接掛という外交担当部署を新たに設けて天文から切り離した。


 昨年四月に洋学所の開設準備を始めさせ、八月には開設していたのだ。洋学所は地震で倒壊してしまったが、蕃書ばんしょ調所として復活している。


 西洋の技術を学び国防をなさんとする意思を感じるが、重要な点が欠けていた。大村益次郎はおらず、手塚律蔵も大村藩にいた。伝習所で学んだ勝海舟はいたが、長崎の観光丸の上である。


 いるべき人がいない。それがどう歴史を動かすのだろう。





 ■肥前大村 次郎宅


「ジロちゃん良かったねえ~。あたしゃ心配で仕方なかったよ~」


 ちび○○○ちゃんか! とツッコミを入れたくなった次郎であったが、もはや本家がどんな声で、どんなしゃべり方をしていたのかすら忘れかけていたのでやめた。


「うん、なんとかなった。一時はどうなるかと思ったけど、箱館奉行所は仕方ないけど、天領はごく一部で済んだしね。上知もひとまずは安心。ただ、開拓は別として防衛をしっかりやらないと、横やりが入るかもしれないから、今以上に力を入れなきゃいけないな」


 ここで言う蝦夷地には、当然樺太も入っている。樺太の鉱物資源が重要なのだ。


「産物方はどうなの? 順調?」


「うん。お茶も石炭も順調な売上だよ。ストーブも作って売ってるから、北陸や東北で人気。鯨油は信ちゃんに頼んでマーガリン造れるようにしているから、灯火用の需要が減ってもなんとかなるかな」


「そっか」


 次郎が興し、信之介の知識と技術、そしてお里の頑張りで、藩の歳入は順調に伸びている。さすがに鉄道を敷設するほどの資金力はないが、軍艦を年間1~2隻造ったとしても赤字にならない程にはなってきた。


「ああ、それから佐賀の人がきてオランダの商人に口聞いてほしいって。ほら、佐賀も嬉野茶や炭鉱があるでしょ? 前から売り込みしてたらしいんだけど、もっと販売量を増やしたいらしい」


「まあ……それは仕方ないんじゃないの? 俺達は独占企業じゃないし、自由競争でやる分には問題ないよ。佐賀の分が入ったら俺達の売り分は減る?」


 次郎はお里に聞く。


「ううん。そこまで影響はないと思う。お茶は欧州で需要があるし、石炭は上海市場での需要が大きいから。世の中蒸気船。これからもっと増えると思う」


「OK!」


 順風満帆である。いまのところ。


 



 ■佐賀城


如何いかがだ? 電信の技術者は育っておるか?」


「は、つつがなく。また、精煉せいれん方において電信機の製作を研究中にございますれば、逐次お知らせいたします」


「うむ。大村への遊学も継続して行うのだぞ。我が家中はもっと学ばねばならぬ。大砲鋳造方はいかがじゃ?」 


「はい。ようやく鉄の質も落ち着きましてございます。やはり大村でみた高炉によるところが大きいかと存じます。只今ただいまは三十二ポンド砲を主として、さらに大型の砲も鋳造能うようになりました」


然様さようか。よしよし、これからも励むのだ」


 家老であり実兄の鍋島茂真しげまさに質問した直正は、上機嫌である。


 加えて、と茂真は続けた。


「三重津にあります御船手稽古所を拡げ、海軍所といたしましてございます。こちらでは新たに川棚の造船所に倣って乾式の船渠せんきょを造成し、只今は新たに木造帆船を建造しております」


 川棚の海軍兵学校(伝習所)では大村藩士(領民含む)の他に幕臣や佐賀藩士、薩摩藩士など多種多様な人材が学んでいたが、軍艦の操船だけでなく、造船技術に関しても授業が行われていたのだ。


 そこでは実際に、小型の木造帆船が造られていた。


 しかし教えられていたのはあくまで帆船の造船方法のみであり、蒸気機関の製造法やメンテナンス・修理方法などは完全に秘匿された状態で、大村藩士以外には知らされなかった。


 もちろん、機関要員としての教育は行っていたので、操作方法や簡単な修理に関しては教わったものの、蒸気機関製造のための原料調達や材料の選定、具体的な製造・修理ができるのは大村藩の造船所のみであった。


 これは蒸気機関に限った事ではない。大砲鋳造方や小銃製造方、精煉方やその他の部署では重要な最先端技術を教えるような事はしなかった。唯一の例外は医学方である。


 一之進が奉行を務める医学方(五教館開明大学医学部)のみ、その先端医療を学ぶ門戸を広げていたのだ。


 ただし、初期の段階で学んだ大島高任や手塚律蔵などは例外である。

 

 大島高任はペリー来航の年に水戸藩の徳川斉昭に招かれて那珂湊反射炉を建造し、川棚で学んだ高炉技術を活かして連続出銑に成功する。


 史実においては鹿児島の集成館事業が日本初であり、高任の高炉が二番目となるのであるが、今世では川棚が一番で鹿児島が二番、高任が三番目となった。


 それでも史実の安政四年より一年早い。高任は盛岡藩に戻って製鉄事業を本格化させる事となる。


「蒸気罐や工作機械の買い入れは如何じゃ? かなり難儀しておるようだが」


「然様にございます。大村家中に売って貰えぬかと求めたところ、売るのは構わぬが相当に値が張ると申しておりました」


如何いかほどじゃ?」


「は、蒸気罐に加え、造船の工作機械一式で七万六千両、設ける手間賃に三万六千両と申しております。手間賃は多少まかるとしても、数年前にオランダから買い入れた物と同じとなると、これくらいだと申しておりました」


「なんと! 尋常ではない!」


 数年前の次郎と同じ反応である。しかし、実際にそのくらいもらわないと割に合わないのだろう。次郎が買ったときは合計で14万両であった。


「大村家中が独自につくった最初のものであれば、その半値くらいとなるようですが、出力も小さく、いささか古うございます。それよりもオランダから新しきものを買い入れた方が良いかと存じます」


 直正は考えている。模倣し、新しい物を作るならば、旧式のものより最新式が良いに決まっているが、間違いなく高価だ。


「如何ほどか?」


「恐らくは十五万両ほどはするかと存じます」


「何い! ? 然様な金、如何にして払うのだ?」


 茂真は考え込み、ゆっくりと答えた。


「金で支払うのではなく、石炭と茶で支払えないかと考えております」


「能うのか?」


「その条件をのんでくれる商人を、大浦屋お慶という商人を通じて紹介してもらう手筈てはずとなっております。上手くいけば頭金はいるでしょうが、後払いで支払い能うかと存じます。茶に石炭は、清国やオランダをはじめとした欧州で多く要るようにございますれば」


「あい分かった。良きにはからえ」


「はは」





 次回 第198話 (仮)『薩摩藩、雲行丸就役す-オランダからの提言-』

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