第186話 『日露和親条約』
安政元年十二月二十一日(1855/2/7)~遡ること数ヶ月前
「絶対にダメです! 馬鹿ですか?
次郎はそう叫びたいのを必死に我慢して、地道に交渉にあたっていた。プチャーチンに対してではない。日露和親条約締結における日本全権大使の筒井政憲と、川路
和親条約締結においては開港はもちろんだが、国境の策定が重要な課題となる。
次郎の目的はただ一つ、樺太であった。樺太(サハリン)の天然資源は喉から手が出るほど欲しいのだ。石油に天然ガス、その他にも枚挙にいとまがない。
石炭は国内でふんだんに採掘可能であり、石油は臭水と呼ばれその重要性など認識すらされていなかった。そのため次郎のこの発言は、たわ言と思われても仕方がなかったのだ。
「次郎殿、心を鎮めるのだ。樺太が
川路
しかし次郎も食い下がる。
「川路様、確かに
現に川路は、長崎から下田へ交渉の場が移る直前に、老中に対して書状を送っている。
『日本の交易所があるのはアニワ湾周辺のみである。それより奥地は探検隊が入ったのみで、日本人の居住地があるわけでもない。長崎での交渉では北緯50°を国境にすると提案したが、こだわりがあるわけではない。樺太は不毛の地なので、放棄してもまったく問題はない』
次郎にしてみれば、とんでもない意見である。しかしこれは、川路や筒井が無能であるとかそういう事ではない。未来の知識がある次郎が、異端に見えても仕方がないのだ。
「次郎殿、貴殿の考えと強き志はわからぬでもないが、その拠り所(根拠)だけでは言い合わせ能わぬ(交渉できない)。石炭は蒸気船で使うにしても、臭水など灯火に使うのみではないか。それに越後や信濃でふんだんに出ておると聞く。退くべきは退かねば、まとまるものもまとまらぬ」
そう言って筒井政憲が首を横に振った。
次郎は歯噛みをしながらも、冷静さを取り戻そうと深呼吸をした。彼は自分の立場の難しさを痛感していた。未来の知識を持ちながら、それを説得力のある形で伝えることの困難さに直面していたのだ。
「筒井様、川路様」
次郎は声を落として言った。
「確かに只今は臭水の値を広く知らしめる事は難しかと存じます。然れど西洋では既にその用途が広がりつつあると聞き及んでおります。樺太を全て手放すのではなく、せめて共に権を持つように取り計らう事能いませぬか」
川路が眉をひそめた。
「共に権を持つ、とは?」
「例えば、樺太全てにおいて界を分たず、是までの仕来り通りとするのです。然すれば、先の世の様々なる検見(調査)や草分け(開発)においても、権を失する事がないのではございませぬか」
筒井と川路は顔を見合わせた。次郎の提案は、全くの的外れではなかったのだ。
「それは……それならば考えても良いかもしれぬな」
川路がつぶやいた。
「確かに、全てを譲るよりは良いかもしれん。プチャーチンとの言い合わせ(交渉)にて、その線で進めてみよう」
筒井も同意するように
「ただ、一つだけ重き儀がございます」
「なんじゃ」
「樺太においては言葉も違い、習わし(風習)も耐えて(全く)違う人が住まうのですから、正に(間違いなく)様々な事で
二人の顔色が変わった。また良くわからぬ先の世の話か、と思ったのだろう。
「そうなればロシアは露骨に南へ進み、多くの民を樺太に住まわせ、さも樺太がロシアの一部のように振る舞うでしょう。そうならぬよう、こちらも民を送って先に草分けせねばなりませぬ」
「……」
「……」
川路と筒井の二人は顔を見合わせ、しばらく黙っていた。
「どうか、どうかこの儀だけは、伏してお願い申し上げまする」
オランダから原油や石炭、鉄鉱石や銅、
「あい分かった。筒井殿も……よろしいか」
次郎の熱気に押されたのか、それともうんざりして早く退散したいのかは分からない。それでもどうにか二人は納得して、プチャーチンとの交渉に当たるようになったのだ。
人事を尽くして天命を待つ。
どうあがいても次郎はオブザーバーであって、全権ではないのだ。日米和親条約の時は九条と十一条を変更させた次郎であったが、領土問題はそう簡単にはいかない。
次郎は事あるごとに二人を訪ね、意見を交わし、ロシアとの交渉に臨んだのである。
~前略~
第二條
今より後日本国と露西亜国との境「ヱトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るべし。「ヱトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島
「カラフト」島に至りては、日本国と露西亜国との間に
~後略~
次回 第187話 (仮)『次郎、再び蝦夷地へ』
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