第177話 『ベッセマー法と風の便り』

 嘉永七年四月二十七日(1854/5/23) 大村藩 精煉せいれん


 ※大村藩内、特に科学者同士の会話には現代用語(専門用語)が頻繁に使われます。


「全く新しい炉をつくらなければならない」


 信之介の言葉に、場がしいん、と静まりかえった。室内に漂う緊張が、まるで時間さえも止めてしまったかのようだ。誰もが息を潜め、次の展開を待っている。

 

「全く新しい炉、にございますか?」


 と高島秋帆は問いかけるが、その声にはやはり、困惑と不安が混ざっている。


 信之介は深く息を吐き、部屋の中を見回す。秋帆をはじめ武田斐三郎や大野規周、賀来惟熊と村田蔵六(大村益次郎)ら大砲鋳造方の表情には、驚きと期待が入り混じっている。


 信之介は慎重に言葉を選びながら、説明を始める。

 

「はい、秋帆殿。現在の高炉と反射炉では、まだ改善の余地があるのです」

 

 秋帆の表情が硬くなる。長年培ってきた技術への自負と、変化への不安が交錯しているようだ。部屋の空気が重くなる中、蔵六が恐る恐る手を挙げる。

 

如何いかなる改善が要るのでしょうか?」


 信之介は蔵六に向き直り、穏やかな口調で答えた。

 

「うむ。現在の製法では、錬鉄の品質にばらつきがあり、強度も十分とは言えない。また、生産効率にも課題がある」

 

「確かに大砲は無論の事、他の鉄を用いる品、特に蒸気機関や造船所で多いのですが、現在のやり方では心もとない気がしていました。然れど、つぶさには如何なる改善が要るのでしょうか?」


 信之介の言葉にざわめきが起こった後、賀来惟熊がせき払いをし、全員の注目を集めた。


「俺が考えるに……新しい炉としては、こういう感じだ」


 信之介は机の上に白紙を広げた。


 全員の視線がその紙に集まる中、信之介はゆっくりと鉛筆をとって説明しながら、スケッチを描き始める。部屋の空気が変わり、緊張感と好奇心が入り混じった。

 

 描き上がった図形は卵型の容器の形をしているが、大野規周が身を乗り出し、描かれていく図を食い入るように見つめている。

 

「この容器の底に、複数の穴を設ける。そしてここから高圧の空気を吹き込むんだ」

 

 信之介は説明と同時に容器の底部に小さな円をいくつも描き加えた。

 

「溶融した鉄にこの空気を吹き込むことで、不純物を効率的に酸化除去できるのではないかと考える」


「待ってください先生。底に穴を開けるとおっしゃいましたが、それでは溶けた鉄が漏れ出してしまうのではないでしょうか?」


 信之介がスケッチを描き終えて説明をすると、村田蔵六が眉間に少ししわをよせて疑問を投げかけた。

 

「空気圧だよ」

 

 信之介は蔵六の問いに即答して、底部の穴から上向きの矢印を何本も描き加えた。

 

「高圧の空気を常に吹き込み続けることで、溶鉄が下に落ちるのを防ぐ。さらに、穴の大きさと数、空気の圧力を適切に調整することが重要になるな」


 武田斐三郎の目が輝く一方、大野規周は懐疑的な表情を浮かべた。

 

「空気を吹き込むだけで、不純物が除去できるのですか?」


 これが大野の疑問である。

 

 信之介はスケッチの一部を指さしながら続ける。


「ああ、理論上はそう考えている。高温の鉄に酸素を吹き込むことで、炭素やケイ素、マンガンなどの不純物が酸化され、スラグとして分離されるはずだ」


 理論上……と言われてしまえば、何とも反論できない。


 そもそもこの理論の根拠はどこからくるのか? 全員が消化不良のような顔をしたが、信之介はこの原理はヨーロッパ以外で数百年も前から行われていて、ただし大規模なものがなかっただけだと説明した。


 鍵となる原理は、溶銑に空気を吹き込んで酸化還元反応を起こし、鉄から不純物を取り除くことである。


「あ!」


 と蔵六が素っ頓狂な声をあげた。


「たたら製鉄!」


「その通り!」


 信之介は蔵六が言った言葉を補足する。


「日本古来のたたら製鉄も同じ原理だ。同様に清国、随分昔の宋代だが、それにも類似の製鉄法がある。原理を応用して大がかりにしたものだ」


 なるほど……という声が全員からもれる。


「われらは欧米の知識にばかり目が行き、古来からある原理や法則を忘れていたようだ」


 秋帆が少し肩の力が抜けたように言った。


「温故知新、皆、発想の転換は必要だ。時には肩の力を抜いてみることも、肝要」


 信之介はその後、基本的な構造やそのアイデアを含めて紙に書いて渡した。





 ■横浜





 時下益々ご清祥の事とお慶び申し上げ候。

 

 て、御家老様より仰せつかりし雲龍水並びに消火器の製造にて、下記の通り進捗候間そうろうあいだ、謹んでご報告申し上げ候。

 

 雲龍水は既に量産能いき候間、只今ただいまは消火器の功能くのうと如何に安しかを確かめる事に努めたり候。


 部品の調達に取り掛かり候間、到着次第その質を確かめし後、速やかに製造に着手致す所存に候。

 

 雲龍水は来月には定めし量、完成の運びとなる見込みに候得共、消火器は今しばらときをいただきたく存じ候。


 然れども年内には、量産ならびに定めし数の完成の見込みに候。


 末筆ながら、御身御大切に。


 恐々謹言。


 四月八日 田中儀右衛門


 太田和次郎左衛門様





「できあがったか。まだまだ数が足りないが、嘉永安政地震イヤーズだからな」


「御家老様? 何か仰せでございますか?」


「いや、何でもない」





 ■江戸市中のとある居酒屋


「おい、聞いたか? お上が国を開くってよ」


「なに? じゃあこれまで続いた鎖国を止めるっていうのか? 異人がこの江戸をうろつくようになるのか?」


 町人が二人、酒を飲んでの噂話である。


「それはわからんが、戦もせずに異人の言いなりだったって言うじゃないか」


「なんでえ! 侍ってえのはこんな時のためにいるんじゃねえのかい?」


「二百年の泰平の中で腑抜ふぬけになったのかもしれんな……どっちにしても平和に暮らせりゃなんでもいいが……いや、それよりもだ」


「なんだ」


「去年、浦賀に異国船が現われただろう?」


「ああ、瓦版に書いてあったな」


「……ありゃ全部が全部、異国の船じゃねえようだ」


「なんだって? じゃあどこの船なんだ?」


「俺も詳しくは知らねえが、なんでも西国の、肥前大村の殿さんの船らしいじゃねえか」


「へえ! ? この日ノ本に、あの異人と同じ船をつくれる殿さんがいんのかい?」


「わからんが……風の便りで聞いたんだ」





 噂に尾ひれがついて、どう展開していくのだろうか。





 次回 第178話 (仮)『下田追加条約』

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