第168話 『洋上での対プチャーチン。交渉せずとも進言す』

 嘉永六年八月二十二日(1853年9月24日) 肥前 外海沖 





「Я встречаюсь с вами впервые. Меня зовут Ота Ва Дзиродзаэмон, я главный помощник клана Омура, отвечающий за оборону Нагасаки и Западного моря.(初めてお目にかかります。日本国の長崎警備ならびに西海の防衛を任されております、大村藩の筆頭家老、太田和次郎左衛門と申します)」


「Пучаткин, полномочный посол Российского Императорского Тихоокеанского флота в Японии.(ロシア帝国太平洋艦隊、遣日全権使節大使のプチャーチンです)」





 徳行丸からロシア艦隊の旗艦であるパルラダ号へ移乗した次郎達は、騒然とした艦内の雰囲気にのまれる事なく、挨拶を交わした。この時の通訳は中島佐十郎貞由さだよしである。


 祖父は同名の佐十郎貞由であるが、元々は商人の息子であった。


 親戚であるオランダ通詞の馬場貞歴(為八郎)の養子となる。志筑忠雄に師事し、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフからオランダ語とフランス語を学び、その後任のヤン・コック・ブロンホフからは英語、更に日本側に捕らえられていたヴァシーリー・ゴロヴニーンからロシア語を学んだ。


 父である貞之も語学に堪能で幕府において通訳をつとめるも、その語学の才を妬まれ讒言ざんげんにあい、失職。

 

 失意のうちに地元である長崎に帰郷したが、大村藩の先進性に惹かれ、ふたたびその語学力を活かそうと大学にて教鞭きょうべんをふるうようになった。


 その息子が貞由である。





「なるほど、なるほど。……ではその大村藩の御家老様が、どういうご用件でしょうか」


 プチャーチンは副官と参謀、そして中国語の通訳であるゴシケヴィッチを従えていた。日本語の通訳はいない。


「アメリカ艦隊との交渉は私が行いましたが、此度こたび私は交渉の役ではございませぬ」


 次郎の言葉は貞由が伝える。


「何? 交渉ではないと? 確かに幕府からは何の音沙汰もないが、では何の用で来たのですか?」


 当然の質問がプチャーチンから投げかけられた。


 ちなみに今回の次郎の行動は、早飛脚にて江戸に送られている。



 


 ・領内の海岸にロシア艦らしき軍艦が四隻も現れ、領民が驚いている。

 ・オランダ船は見慣れているが、様子がおかしい。

 ・その為、目的を探るために艦隊を出動させた。

 ・さらに敵を知らねばならない為、乗艦して話をする。

 ・ただし、交渉役ではない為、相手が希望するについては一切話をしない。



 


「ではプチャーチン提督、お伺いします。貴国がわが国に要望する事は、大きな項目で、三点。まず親書を渡し、世界情勢を知らせたい事。次に国境を定めて条約を結びたい事。最後に通商を結んで両国共に栄えていきたいという事。この三点ではございませんか?」


 プチャーチンは驚きの表情を隠せなかった。ロシア艦隊の来航の目的を、これほど正確に把握していることに戸惑いを感じたようだ。副官と少し話した後に答える。

 

「その通りです。しかし、どうしてそれをご存知なのですか?」 


「これまでの貴国との交渉の経緯と、アメリカ艦隊の来航後という事から推測したまでです。これまでは漂流民の送還とあわせて通商を求めてこられましたが、アメリカが来た事を受けて、漂流民の有無は関係なくなったのでしょう」


「……」


 プチャーチンは次郎の言葉の本意を探るかのように小声で副官と話す。


「さて提督。貴艦隊が長崎に来て、すでに一ヶ月が経ちますが、幕府の全権は未だ来ておりません。そして、はっきり申し上げますが、あと二月お待ちになったとしても、幕府からは全権は来ないでしょう」


「……? 馬鹿な! 何を言われる? あなたは日本国の政治家ではないのか? なぜ日本に不利になるような事を言う? そしてなぜそんな事がわかるのですか?」


 冷静に振る舞おうとしていたプチャーチンであったが、次郎のあまりに意外過ぎる発言を受けて無意識に立ち上がってしまったのだ。


「私は個人的には日本は開国すべきだと思っているからです」


 プチャーチンはさらに驚いた顔をする。


「Что?(何?)」


「もう一つの答えは、アメリカとの交渉に私が同行し、幕府の外国に対する考え方を知っているからに他なりません。幕府は開国は仕方が無いとしても今ではない、するとしても状況をみてゆっくりと行い、なるべく時間を引き延ばしたいと考えているからです」


 プチャーチンは椅子に座り直し、深呼吸をした。彼の目は次郎を見つめ、その言葉の真意を探っているようだった。


「なるほど……」


 プチャーチンはゆっくりと言葉を紡いだ。


「あなたは非常に……率直ですね。しかし、それがあなたの立場を危うくしないのですか?」


 次郎は微笑む。その表情は自信に満ちあふれ落ち着いていた。


「私の立場は、日本の未来を守ることです。その為には少々型破りな事もしなくてはなりません」


 プチャーチンはひげに手をあてて考え込んでいる。


「では次郎殿、あなたは我々に何を提案しようというのですか? 交渉する権限はないのでしょう?」


「交渉はしません。権限がありませんから。然れど進言はできます」


「進言、ですと?」


然様さよう、両国にとってより良い関係を続けるために必要な事をするのです」


 プチャーチンは興味深そうに口角を上げた。


「進言とは……具体的にどのようなことでしょうか?」


 まずは、と言って次郎は話し始めた。


「貴殿が到着してすぐに長崎奉行が幕府に書状を送ったはずです。長崎から江戸までは早飛脚で約七日。幕閣内で協議をするのに一週間かかったとして、江戸から長崎までは約四十日から四十五日かかります。つまり、おおよそ九月十八日には長崎に全権がつくはずです。然れど、こないでしょう」


「……」


「いつまで待つかはご自由ですが、そこで長崎奉行に伝えるのです。いい加減遅すぎる、長崎で待たされた挙げ句に通商を反故にされたレザノフの例もあるから、江戸へ向かう、と」





 次郎の幕府つっつき作戦が始まった。





 次回 第169話 (仮)『次郎を呼べよ』

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