第129話 『江戸城御用部屋、上の間にて』(1850/12/2)

 嘉永三年十一月十七日(1850/12/2) 江戸城御用部屋 上の間


「大村丹後守純あき、命により登城いたしましてございます」


「大村家中、太田和次郎左衛門にございます」


 二人は老中首座の阿部正弘より呼び出しをうけ、江戸城にいた。

 

 9月28日に大村を出発して、本来なら江戸に到着早々! という事なのだが、大阪までは機帆船で来たので10月末には江戸に着いていたのだ。


 一月もかかっていない。日数にして約半分である。


 純顕と次郎は藩邸でゆっくり政務を行いながら、来るであろう通達を待っていたのだが、大阪での事を知っているならもう少し早く来ようものである。やはりなんでも幕府は行動が遅いようだ。


 参勤交代では以前から海路も併用していたのだが、その際は大村から陸路で豊前の大里まで行き、そこから海路で大阪、それからまた陸路で東海道を通って江戸に向かっていたのだ。


 海路といっても風待ちや潮待ちもあり、何カ所もの港に寄ってからである。それに大村から大里まで、約七日の行程なのだが、機帆船ならすでに大阪着である。この差は大きい。





「伊勢守にござる。さ、どうぞ面を上げて楽にしてくだされ」


 正弘にそう言われて、二人は顔を上げ、正対して正弘を見る。


 丸みを帯びた優しげな顔立ちをしていた。細めの切れ長の目は落ち着きと知性を感じさせ、口元には柔らかな微笑が浮かんでいる。均整が取れ全体的に穏やかで品のある表情は、内なる強さと知恵を物語っているようだ。


「さて、わざわざお呼びしたのは他でもない。蒸気船の事である。大村御家中は此度こたびの参府の際、大阪まで蒸気船を用いたと耳にしたのだが、誠であろうか?」


「は。誠にございます。蒸気船飛龍丸を用い、大阪までの道程を短縮いたしました」


 純顕が答えると、正弘は目をつむり少し考えてもう一度言った。


「誠に、蒸気船で大阪まで参ったのか?」


「誠にございます」


 正弘は信じられなかったのだ。


 蒸気船というものが存在しているのは知っている。大村藩は大船ではないが洋船を造り運用していた。現在進行中の台場建設において、年5万両を捻出できる財政である事も知っている。


 見たこともない蒸気船、異国の技術の最たる物。その蒸気船を大村藩が造った事が信じられないのだ。


 正弘の元に純顕からの書状は届いていた。そもそも届け出など必要のないものであったが、念の為に送られてきた物であった。諸大名から幕府幕閣への正式な書状である。嘘など書くはずがない。


 正弘はそう思いつつも断る理由が見つからず、許可を出していた。以前次郎達が言っていたような『一風変わった御座船』扱いされたのだ。


 さて、この状況をどうするか? 


 正弘は考えた。処罰するつもりなど毛頭無い。理由が無いのだ。無理やり作るとしても、せいぜい大阪の領民の心を騒がせたという事だが、それも事前に通達している。


 考えろ、考えろ、考えろ……。正弘の心の声が漏れて聞こえてきそうである。


 正弘は再度目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして、静かに口を開いた。


「あい分かった。大村家中の蒸気船飛龍丸のこと、重く受け止めた。まことにその匠の技と先を見る目には感服せざるを得ぬ」


「有り難き幸せにございます」


 正弘の言葉に、純顕と次郎は再び頭を下げる。


「されど、以後の事も考えねばならぬ」


 正弘の言葉に二人は『来た』と思ったがおくびにも出さない。正弘の出方をうかがう。


「他の西国諸藩がこれを如何いかに受け止めるかも重き事であるし、無論公儀としても構えて見極めねばならぬ」


「は」


 正弘はまだ、深く考えている。純顕と次郎には正弘の次の言葉が予想できた。


「丹後守殿、大村御家中はこの蒸気船をつくり動かす技を、以後はいかように使うおつもりか?」


「……は。大村家中としては、蒸気船を用いて領内の防衛を強め、長崎警固を更に堅固なものとする所存にございます。また、他の御家中と密に報せを通わしては、異国船の近づきたる時にすぐさま処せるよう、目指す事が肝要かと存じます」


 純顕の答えに、正弘は少しうなずいて答える。


「うむ。安心いたした。それについては蒸気船についてもじゃが、つぶさな書面を後ほど出していただきたい。加えて……ひとつお伺いしたい」


「如何なる事にございましょうや」


「その……蒸気船は、公儀でも造り能うだろうか?」


 さすがに献上せよ、とは言わない。技術者をよこせとも言わない。外堀から聞いてきたようだ。


「は。その儀につきましては、ここなる次郎左衛門がお答えいたしまする」


 純顕が正弘に発言の許可を求め、許されて次郎を促す。


「いかがだ、能うか?」


「は、能いまする」


 次郎は確信に満ちた声で答えた。


 正弘は目を輝かせ、希望に満ちあふれている。蒸気船が造れれば、異国船に怯える事もない。開国はやむなしとしても、時間をかけて朝廷を説得し、諸藩ともいらぬ軋轢あつれきは生まぬだろう。


 そう正弘は思ったのだ。


「それは心強い。つぶさには、いかほどの時がかかるのであろうか?」


「御老中様、それは蒸気船一隻を、という事にございますか。それとも御公儀一力で船を造れるようになるまで、という事にございましょうか?」


 次郎左衛門の問いに、正弘は少し間をおいてから答えた。


「両方について聞きたい。まずは、一隻を造るための期間、その後に公儀が自らの力で蒸気船を建造できるようになるまでの期間を教えてほしい」


「は。まず一隻を造るためには、飛龍丸と同じ大きさの船で、半年から約一年の時を要するかと存じます。その後、公儀が一力で蒸気船を建造能うには……十年はかかりましょう」


「じゅ、十年! ?」


 正弘は素っ頓狂な声をあげ、すぐさまごほん、と咳払いをした。


「それはまた随分と開きがあるではないか。何ゆえ十年もかかるのだ?」


「お答えいたします。まず船を造るには船渠せんきょという物が要りまする。例えば、例えばでござるが、今長崎にいる和蘭船より大きな洋船を造ろうと思えば、その長さより長い船渠が要りまする。そのためそれを造るのに三年、ないし五年はかかるかと存じます。更に船の建造に二年から三年。これはそのための道具をそろえ、職人を教えすべて揃っての年数にございます」


 さっきまで希望に満ちあふれていた顔が一気に崩れる。


「そうか。それほどかかるのか……」


 正弘はため息をつき、考え込んだ。その顔には少しの落胆が見て取れたが、すぐに気を取り直し、再び前を向いた。


「されど、やらねばならぬか……。江戸の台場はそこだけしか守れぬ。造ったとてこの日本に港は腐る程ある。そのすべてに台場を設けるなどできぬからな。蒸気船はされど……大村家中の助勢があれば、必ずや成し遂げられるだろう」


「仰せの通りにございます。されど……」


 次郎は純顕を見たが、純顕は構わぬ、言え、というジェスチャーを見せる。


「されど、なんじゃ?」


「されど、ただではお受け致しかねまする」





 次回 第130話 『条件』

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