第91話 『尾上一之進、緒方洪庵と出会い秘薬完成す?』(1848/1/20)

 弘化四年十二月十五日(1848/1/20) 玖島くしま城下 医学方


「初めまして。大坂適塾から参りました緒方洪庵です」


「え? あ、はい。尾上一之進と申します」


 日本の医学史に名を残した医者は数多くいるが、幕末でその存在感をひときわ輝かせているのは、緒方洪庵だと言う人も多い。緒方洪庵=天然痘の予防接種で有名だ。


「お手紙を拝読して驚きました。まさかあの、適塾の洪庵先生が長崎に来ていらっしゃるとは。先生の御高名は聞き及んでおります」


「なんのなんの。先生は類い希なる医の知識と技術をお持ちだとか。痘瘡とうそうの種痘もいち早く取り入れられ、長崎をはじめ大村藩では感染者がでておらぬと聞いております」


 (医学史上の偉人の)洪庵にそう言われ、照れくさい一之進である。


「おかげ様で。おさじ医である長与俊達殿や、御家老様にもご尽力いただいての事です」


「左様でございましたか」


 洪庵はニコニコして笑顔を絶やさない。


「実は、今日ここでお目にかかって、さっそくで恐縮なのですが、お願いがございます」


「なんでしょうか?」


「痘瘡の……種痘の種を分けていただきたいのです。できましたらその手順もつぶさに教わりたい」


 洪庵は頭を下げた。


「あ、頭をお上げください。それくらいなんでもありません。種はお分けしますし、必要な事はお教えします。どうか、頭を」


 一之進は恐縮して慌てている。


「ありがとうございます。……実は、それともう一つお願いがあるのですが……」


「はい」


「私に、先生の医術を教えていただくことはできませんか?」


「え?」


 洪庵のいきなりの申し出に、一之進は言葉を失った。


「いや、それは……至極光栄な事ではありますが、それがしが先生を教えるなどと……第一、大坂の適塾はいかがなさるおつもりですか?」


 当然である。


 学ぶとなれば一ヶ月や二ヶ月の話ではない。それくらいであれば、適塾の塾頭の下、問題なく運営されるだろう。しかし一年や二年、それ以上となれば別だ。


「それは……」


「難しいでしょう? されどなに故それがしを、そこまで評価していただけるのですか?」


 一之進は気づいていない。すでに周囲に影響を及ぼしていることを。俊達、敬作、宗謙、おイネ。その他にも長崎の奥山静叔もいる。

 

 徐々にこの時代の医学に影響を与えつつあったのだ。


「ここに来る前に長崎の奥山君に、先生の素晴らしさを聞いたのです。なんでも藩主様の喉を切り裂いて呼吸を復活させ、一命をとりとめた、と。他にも藩の御家老様の銃創を治療なさったとか。他にも……」


 次々に出てくる一之進の逸話に、本人は照れくささもあって聞くに堪えなかった。


「ああ、先生。もう止めてください。それでは……どうぞこちらに」


 一之進は洪庵を書庫に連れて行った。


「こ、これは……」


 すでに長崎にあったオランダ語の医学書をはじめ、輸入した物や一之進本人が執筆したものが部屋中にあったのだ。


「これを、何冊かお貸しします。翻訳や写本が終わったならば、返していただければそれで結構です。実技や口頭で教える事はできませんが、知識があるのとないのでは全く違いますからね。どうか、これでご勘弁ください」


「これは……誠に、誠によいのですか? ……『Medische benodigdheden』とは、医学必携……この、それぞれに別でついているものは? ここだけ日本語ですね」


「ああ、それはそれがしの所見を書き加えたものです。内容によっては矛盾するところもありますが、それがしはそれを踏まえて教えています」


「なんと! そのような貴重な物を貸していただけるのですか?」


 洪庵は驚きを隠せない。洋書は高価なのだ。


「構いません。どうかお役に立ててください。幸い貸し出し用でもう一組ありますから」


 当然すべてを翻訳する事はできない。

 

 しかし開明塾開校からすでに7年が経過している。まだ大村藩には大学というものは存在しないが、それに準じた教育を、お里、一之進、信之介が行っているのだ。


 その中から語学に堪能な者を選んで、翻訳者として雇用している。もちろん、最終チェックが必要な場合や専門用語などは、協議して決める。


「それから先生。つかぬ事をお伺いしますが、体調がすぐれない、などはありませぬか?」


「は? 体調にございますか。……そうですな。壮健ではありませぬが、今は病がちという訳でもございませぬ」


「そうですか」


 緒方洪庵……食道静脈りゅう破裂による吐血死……肝機能の悪化か? 結核による喀血かっけつ死? であれば呼吸を確保できれば可能性はあるか? 非常に確率は低いが。


 一之進は緒方洪庵の来訪を次郎に話していた。

 

 それを知った次郎は洪庵の身を案じ、体調の確認や病気の予防法の有無を、一之進に聞いていたのだ。喀血して窒息した事も伝えていた。


「先生。よろしければ、それがしに先生を診察させてもらえませんか? いやなに、他意はありませぬ。俊達先生にも、奥山先生にもやっている事です」


 洪庵は不思議がりながらも、名医と聞いている一之進の診察を受ける。


 ……今のところは、可もなく不可もなく、というところか。


 一之進はそう診断した。まだ発病はしていないようだ。


「先生。先生はこの日本に必要なお人です。長生きしてもらわなければなりません。次の事を守ってくださいね。それを条件にお貸しします。適塾にはわが藩からも遊学に行ってますから、逐次報告させますよ」


「わかりました」


 ・1日もしくは2日に1回、半刻(1時間)程度ウォーキングをする。


 ・睡眠を四刻(8時間)とる。


 ・毎日の食事(酒も)を記録し、月に1回送る事。(傾向と対策でメニューを返信)


 ・心労を患うような事をしない。悩まない。

 

「それがしの知人に、研究馬鹿で寝る時間も惜しまず起きている男もおりますが、医師としては縛ってでも寝てもらいます」


 洪庵は誰の事かわからなかったが、他の全員が笑った。





「先生! 先生! 大変です!」


「なんだ? 急患か?」


「いえ、いえ……」


「どうした? 早く言いなさい」


「……有りです。……薬効、有りです!」


 



 8年越しの研究で、ようやくペニシリンが完成した。





 次回 第92話 (仮)『隼人、長崎にて高任と会す。佐久間象山、その後。純ひろの側近と鷹司政道』

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