第55話 『斉昭の説得と幕閣の懐柔』(1842/12/12)
天保十三年十一月十一日(1842/12/12) 江戸 水戸藩邸
「なに? 勝てぬと申すか?」
斉昭は目をぎょろりと見開き、次郎を見据えた。次郎は内心では心臓が張り裂けそうだったが、ギリギリで抑えた。
「……勝てぬ、とは申しませぬが、
斉昭の力が少しだけ抜けたように見えた。
「難しか。なにゆえにそう思う?」
「は。されば申し上げまする」
次郎はそう言って、大きく深呼吸をして続けた。
この辺の行為は別におかしな事でもないし、失礼にもあたらない。間違った事を言うまいと、考えているのだ。
「まず水戸藩の大砲は、オランダの技術を習得した高島秋帆先生の教えをもとに作られているかと存じます」
斉昭が小さくうなずく。
「それでは、その大砲はいかほど飛びましょうや?」
「なに?」
「大砲がいかほどの道程の長さを飛んで、敵に当たるかにございます」
斉昭は言っていいものかどうか、迷っている。
高島秋帆やその門弟によって、各藩がある程度把握しているとは言え、大砲の射程など軍事機密ではないだろうか。
他藩の人間である次郎に、そう易々と教えていいわけがない。
「モルチール砲、わが国では
次郎は20ドイムと言った時に、両手で20cmくらいの長さを示す。最大射程であり、有効射程はもっと短い。
※ドイム=オランダの旧制の長さの単位。1ドイム=1センチメートル。
モルチール砲は仰角45°に固定して装薬量で射程を調整する砲である。曲射なので、射程が長ければ精度は落ちる。
斉昭の表情を確認した後、次郎は続けた。
「もし敵が二十町飛ぶ大砲を持っていたら、いかがしますか?」
大砲の性能は射程や威力、連射性や操作性など様々な要素で決まってくるが、そのうちの射程はかなり重要な要素である。
「その時はさらに
「……それで間に合いましょうや? 加えて和蘭から学んだ大砲が、その他の異国の大砲よりすぐれている保証はありましょうや? 戦道具は日進月歩で進化しております。通商を求めてくるエゲレスやメリケン、オロシアの方が優れたものを持っているとは考えられませぬか?」
「……なにゆえそう思うのだ?」
次郎はギリギリのラインを攻めていた。斉昭の顔が徐々に曇っていくのがわかる。いくら名君とはいえ、自らの考えを否定されれば頭にくる。
そうならないギリギリのラインを、見極めながら話を続ける。
「和蘭はすでに往時の国力はないと考えております」
「なに! ?」
「水戸様は文化の
「無論の事。無礼千万である」
「それがしもそう考えますが、問題はそこではありません」
「なんじゃ?」
斉昭のまゆがピクリと動いた。
「仮にも一国の船が他国の船を装い、乱暴
斉昭は黙って聞いている。
「それがし如きが自らを一国の王になぞらえて語るのは
「和蘭が嘘をついていると?」
「そうは申しませぬ。されど余計な知らせはせぬかと」
事実当時のオランダ風説書には、極端に言えば歪曲はされていても、
重要な情報が書かれていないだけである。ナポレオン戦争(1796~1815)のさなか、イギリスとの和平が破棄された事は書かれていないのだ。
長崎奉行や幕閣は、泰平の世が続くあまり、風説書の行間を読解し、その文言の裏に潜む真実を読み解こうという努力をしなかったのだ。
そのために情報不足に陥り、世界情勢に疎くなってしまった。(まったく知らなかった訳ではない)
……。
……。
……。
どれほどの時が流れたのだろうか。
次郎は極度の緊張の中で、営業マン時代の事を思い出していた。『沈黙は金』である。もちろんしゃべらなければ相手に意思は伝わらない。
しかししゃべり過ぎてはダメなのだ。
相手に考えさせ、最終的に結論をだしてもらう。
契約締結直前の長話は、自信のなさを露呈させ、上手くいった例しがない。
「……あいわかった」
何がどのようにわかったのか、その時次郎は理解できなかった。
要するに斉昭は、
もし次郎の言う事が本当なら、日本は間違った道へ進んでしまう。
だが、表向きそれを認める事はできなかった。
「幕閣を何名か紹介しよう。言っておくが、事がそう簡単に運ぶとは思わない方が良いぞ。ふふふ、それにしても丹後守殿は面白い臣をお持ちであるな! ははははは」
数日後、斉昭からの紹介状をもとに、評定所の面々へのロビー活動(?)が始まった。
・北町奉行 遠山左衛門尉景元(遠山の金さん・正義感あり?)
・南町奉行 鳥居甲斐守忠耀(鳥居耀蔵・こいつはダメだ!)
・寺社奉行 阿部正弘(後の老中首座・開明的?)
・勘定奉行 戸川安清(前の長崎奉行・こりゃあいい!)
跡部良
・老中
土井利
井上正春(中道派?)
真田幸貫(水野忠邦の
次回 第56話 『佐久間象山に知己を得、大村に帰っては洋式帆走捕鯨船の完成』
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