第53話 『高野長英と徳川斉昭』(1842/12/12)

 天保十三年十一月十一日(1842/12/12) 江戸 <次郎左衛門>


 9月26日に大村を出発して、俺たちが江戸についたのは11月11日だ。

 

 俺の上京、じゃなかった江戸参府の同行には目的があった。それは長英さん(高野長英)の見舞いに行くことと、赦免だ。


 現代でいうところの世論を動かして世間の注目を集めたり、再捜査をして釈放してもらう事を考えたんだけど、かなり厄介だ。

 

 というのも長英さんの罪状は、今でいう国家騒乱罪にあたる。


 別に一揆いっき煽動せんどうした訳じゃない。ただ、モリソン号事件の幕府の対応を批判して、異国船打払令に反対した事だ。


 え? たったそれだけ?


 それだけだ。


 それだけで……華山さんは自刃させられたんだ。


 あり得ないくらい人の命が軽い。簡単に死罪になるし、名誉かなんかしらんけど、自刃でも死んだら同じやっか!


 とにかく、助けるためには行動を起こさないといけないけど、何をすればいい? 署名運動なんかしたら、それこそ騒乱罪になる。そして藩にも迷惑がかかる。


 今、俺は太田和次郎左衛門であり、大村藩家老であり殖産方なのだ。





 いろいろ考えたけど、結局恩赦だ。


 一時は袖の下(賄賂)を渡して赦免させる事も考えたけど、軽い罪じゃない。永牢えいろうって事は死刑に準ずる罪を犯したか、本来は死刑の人が減刑された場合になる。


 あと、遠流の代わり。


 どっちにしてもかなり重罪として科されている。だから完全に許される方法じゃないと無罪放免は難しいから、俺は江戸時代の刑罰に関する歴史の知識を総動員して考えた。


 それが赦律しゃりつだ。


 この法律の成立は本来、20年後の文久2年(1862年)だ。法律自体の作成は嘉永4年(1851年)なんだけど、それにしたって9年後だ。現時点では成立していない。


 じゃあダメじゃん!


 そうじゃない。普通なら決められていない法律を施行するなら、老中なりなんなりの幕閣の責任者になって決めないといけないが、そうじゃないんだ。


 恩赦そのものはあったんだ。ただ具体的な適用範囲や、手続きを定めた法律がなかっただけ。


 そこの隙間を俺はついて行こうと思う。


 どういう事かっていうと、恩赦は将軍家や皇室の慶事・凶事・法事などに際して実施されたんだけど、徳川家の法事を行った寛永寺や増上寺には、口添えの権限が与えられていたんだ。


 恩赦の濫発らんぱつと本来政治に関係ない寺からの口添えの存在、その口添えは家族しかできない(独身では厳しい)などの問題があって、20年後に明文化されるきっかけになった。


 それから個々の受刑者の恩赦の是非は、評定所の個別の審議を経て行われたので、その適用基準も曖昧だった。


 評定所っていうのは勘定奉行・寺社奉行・町奉行(北・南)、それと老中・大目付・目付をあわせた幕府の最高裁判機関。罪の重要度で列席したという。


 と、言う事はまずお寺を丸め込んで、それから~7人+αを懐柔すればいい。


 くああ、人数が多すぎる。でも永牢だからまず全員出席の最重要と思った方がいい。それも騒乱罪だからね。





 ■上野(東京都台東区) 寛永寺 子院 寒松院


「おや、これは麹町の伊勢屋様(伊勢屋加太かぶと八兵衛)ではありませんか。どうされたのですか?」


「いえ、お得意様の親戚から少しばかり相談を受けまして、ご住職に頼み事があって参りました」


「はて、なんでしょうか?」


 上野の寛永寺は徳川将軍家の祈祷きとう所・菩提ぼだい寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っている。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務めて朝廷との繋がりが深かった。


 当然今も皇族が住職を務めている。

 

 この時の住職は輪王寺宮りんのうじのみやと尊称される慈性入道親王じしょうにゅうどうしんのう(第230世天台座主ざす。有栖川宮韶仁つなひと親王第2王子)であり、大名家の家老とはいえ、おいそれと面会が適うわけもない。

 

 そのため、その子院の寒松院かんしょういんから当たりをつけたのだ。


 それに寛永寺は当時、寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んでいたので、直接寄進をすればかなり目立つし、かと言って相応以上のものでなければ目立たない。


 次郎は、時間がかかっても外堀から少しずつ埋めていこうと考えたのだ。


 伊勢屋加太八兵衛とは、大浦お慶と小曽根六左衛門のつてで知り合ったのだが、4年前の天保九年の江戸参府の際に、江戸の豪商のほとんどに面通しが済んでいる。


 ここで使わずしてどうする?


 そう考えた次郎は、江戸の商人のコネをフル動員してお寺全域にローラー作戦をかけ、満場一致で寛永寺の口添えとして高野長英の恩赦を願い出るべく動いた。


 当然、芝(東京都港区東部)にある増上寺も同様である。

 

 お得意様=高野長英の妻の願いを寺に申し出るという形だ。

 

 寄進の金ははずむ。史実では高野長英は独身だが(筆者の知識の上では)、強引に妻を作り上げたのだ(嘘の)。



 


 ■江戸 水戸藩邸


 幕末の水戸、と聞いて歴史に詳しい人は思い出すかもしれない。まず第一に徳川斉昭。徳川第15代将軍である徳川慶喜の実父であり、水戸藩主で、幕末において名君と呼ばれた男だ。


 そのほかにも藤田東湖や武田耕雲斎などが有名である。


 そこで、おそらく歴史通のみぞ知る事がある。


 水戸藩の藩祖である水戸光圀(水戸黄門)と佐賀鍋島藩の第二代藩主光茂とは親交が深く、それが今まで代々続いていたのだ。

 

 その光茂は三代将軍家光より偏諱へんきをうけて光茂としている。


 光圀は佐賀藩の支藩である小城藩の鍋島元武とも親交があったので、水戸藩と鍋島藩とは200年続く親交なのだ。


 その鍋島藩と大村藩は長崎聞役14藩で、当然親交がある。

 

 次郎は純顕すみあきを通じて、純顕~直正~徳川斉昭のラインをつくりあげた。もちろん純顕は前回の参府の際に、越前の松平春嶽(正四位上)とも知己を得て親交を結んでいる。


 純顕ラインによる幕閣、御三家、四賢侯の懐柔作戦は密かに進行中であった。





「次郎左衛門とやら、話は聞いておる。大村藩きっての知恵者であるそうだな」


「は。過分なお言葉をいただき、恐悦至極に存じまする」


 あれ? なんだ? どうした? なんでそう伝わってる?





 次回 第54話 幕閣と御三家と四賢侯と、諸々を使って高野長英恩赦大作戦

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る