第37話 『鯨組の復活とペニシリン』(1839/11/26)

 天保十年十月二一日(1839/11/26) 肥前彼杵そのぎ郡 江島村


『深澤』ではなく『益富』と掲げられた屋敷では、見かけでは20歳になるかならないかという男が、他の男衆に声をかけながら作業を行っていた。


「御免候、こちらに深澤太郎殿はおられるか」


「太郎は俺だが、なにか用かい?」


 浅黒く焼けた精悍せいかんな体つきの男は太郎勝行という。


「それがし、大村藩家老の太田和次郎左衛門と申す。太郎殿に折り入って話があってきたのだが、いま時間はあるだろうか? なに、話は簡単だ」


「……藩の御家老様と話す事などありゃしませんがね」


 おのれ! と前にでそうな助三郎と角兵衛の二人を次郎が抑える。


 船乗りもそうだが、漁師も荒くれ者が多い。


 もっとも勝行の場合は藩に無理難題を言い渡され、家業である捕鯨業を廃業せざるを得なくなったのだ。恨み節しかないであろう。


 40年前の事とはいえ、父母や祖父母に言われ続けてきた。


 昔はこうだった、ここは以前はうちの屋敷だった、落ちぶれても誇りを忘れるもんじゃない、と。


 その藩の家老が、いったい何の用だろうか。


 そう勝行は思ったが、仕方なく周りの男達に休憩を伝え、話を聞く事にしたのだ。


「本家の義太夫殿には了解を得ている。実はな、深澤家に鯨組をまたおこしてもらいたいのだ」


 ……。


「何を仰せかと思えば。今さらわしらに鯨組をやれってんですかい?」


 勝行は鼻で笑っている。


「みんな今でこそ益富(平戸藩の鯨組)のやっかいになってはいますが、元はと言えば藩が金を返さなかったのが問題なんでしょうが」


 怒りに似た感情が勝行に起きている。


「にもかかわらず、金を出せと無理難題を言うもんだから、借金で火の車になって家業を廃する羽目になったんです。なにゆえまた鯨を捕れと仰せなのですか」


「それについては、済まぬ。この通りじゃ」


 次郎は頭を下げた。助三郎と角兵衛はお止めください! と駆け寄って次郎の体を起こそうとする。


「あ! いや、そんなつもりじゃありやせん! どうか、顔を上げてくだされ!」


 勝行は焦ってしまった。


 今までの藩の上役ときたら、自分たち(実際には世襲の1~2代前)がやった事を棚に上げてふんぞり返っていたのだ。それに比べてこの人はなんだ。


 おかしな人だ、と思った。


「では、受けてくれるか?」


「いや、そうは言っても今はわしらは益富のやっかいになっております。いきなり辞めるとなっちゃ、そりゃあ道理が通りませんぜ」


「無論それは藩からも話を通す」


「それで、いったいどうするのです?」


 勝行は立ち話もなんなので、と言って休憩所に次郎を連れて行き、改めて話を聞くことにした。


「まずは借財の五万両、これを返そうと考えている。一度には無理かも知れぬが、そなたらが納得できる条件で返す」


 ええ! ? と勝行は驚きを隠せない。


「それから鯨組を再び興すにあたっての金は、藩が負担する。その代わりに取り分は六公四民と藩が多い。われらはその取り分を返済に回す。完済した後もはじめの投資分を深澤家が藩に返すまでは、六公四民として、返し終われば五公五民とする」


 次郎には、以前のように運上金は課すが、それ以外の御用銀は納める必要はないと説明した。


 それに定額ではなく、定率の運上金である。鯨の捕獲量にかかわらず課せられる訳ではない。


「その代わり船は以前と違う船を使ってほしい。また、その船を操る術を会得するべく、まずは太郎殿、そのほうと数名は学んで貰う」


 次郎は領内の船大工を集め、出島のオランダ船を参考に帆船を造る事を藩主の大村純あきに進言していた。


 洋式の捕鯨船をつくり、そして信之介に依頼して捕鯨銃の製造を依頼していたのだ。


「いかがじゃ?」


「本家筋の伯父上のお許しがあるのであれば、声をかけてみます。然れどすぐには難しいかと」


「うむ。皆で合議して決めてくれればいい。船も時がかかるゆえ、急がなくても良い」


「はは」


 最初は無愛想だった勝行であったが、父祖伝来の鯨組を復興できること、藩の御用金を用立てる必要がない事がわかり、みるみるうちに態度が軟化していった。





 ■数日後 次郎邸 一之進研究所(仮称)


「一之進、何やってんだ?」


「ん? 見てわかんない?」


 いや、わからんだろ! と心の中でツッコミを入れながら次郎は返事をする。


「いや、わからん。何をしてるんだ?」


「これは、あれだよ。JIN先生だよ」


 一之進は次郎の方を振り向きもせず、淡々と作業を進めている。


「え! JIN先生って、まさか、ペニシリン?」


 ……。


「おい、ペニシリンなのかよ?」


 ……。


「おい……」


「……きーみーはー! フレミングが発見した世紀の発見を再現しようとしている、崇高な行為とその瞬間に敬意が払えないのかね?」


 いたって冷静を装っているが、真剣に取り組んでいるあまり、いつもの一之進ではない。それからしゃべり方も変だ。


 テーブルの上には何十個もの、蓋をされていたであろう皿が置かれている。


「これが最後の皿なんだよ」


 一之進はそういって慎重に、慎重に蓋を開ける。


「があああああああ!」


 大声を出して天を仰ぎ、目をつむってしばらく止まった。そしてゆっくりと前を向き、皿をテーブルの上に置いた。


「失敗だ。薬効なしだ」


 どうやら今回の実験ではペニシリンがうまく抽出できなかったようだ。


「大丈夫か?」


 次郎は心配して一之進に声をかける。


「問題ない。最初っから上手くいくなんて思っていない。なにか原因があるはずだ」


 一時の神経質すぎる緊張した面持ちとは打って変わって、冷静さを取り戻したようだ。しばらくして一之進が導き出した結論は以下のとおり。


 ①ミカンから得たカビがペニシリウムクリソゲノム(ペニシリンが得られる青カビ)ではなかった可能性。


 ②ペニシリンを抽出する操作が上手くいかなかった可能性。


 ③抽出はできていたが、ペニシリンの量が少なかった可能性。


 ④他から侵入した菌によってペニシリンの生成が阻害された可能性。


 ⑤実験に利用した納豆菌が強すぎて抽出したペニシリンでは抑えきれなかった可能性。





 先は長い。①と④はすぐには確認・改善できないので、一之進はまずは⑤の納豆菌を麹菌に代え、より多くの青カビを取得して抽出する事にしたようだ。


「きつい言い方してすまなかったな」


「気にすんな」


 次回 第38話 『椎茸の種駒製造からほだ木まで』

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