第1章-4
朝の登校風景にいつもと変わった様子は見られなかった。新鮮味を期待すること自体が間違っている、代わりばえのない日常。
「おはよう」
教室に入ると友人達が挨拶をしてくれた。トモコも交えて、カスミは彼女達とチャイムが鳴るまでおしゃべりをした。
朝礼の点呼で自分の名が飛ばされることもなかった。そのまま何事もなく――それが当然なのだが――一限目の授業が始まった。
――いったい、家で起こっているあの現象は何なのだろうか……。
カスミはまた考えてしまう。
家という限られた空間で生じている怪異。本当に特別なウイルスや病原菌でも蔓延しているのだろうか。それとも何かの呪い?
――え、わたし何も悪いことしてないよね……。
誰かに恨まれるようなことをしただろうか。物や動物に対しても――。
いや、そんなことはないはずだ。誰かに、そして何かに恨みをかうようなことに関して、カスミはこれ以上ないくらい慎重に生きてきたはずではないか。
何もかも分からないことだらけだった。解決の糸口さえ、ささやかな光明の兆しさえ、どこかに転がっていると期待することも許されていない。
――わかっているのは、今日もあの家に帰らないといけないということだけだ……。
考えるだけで気が滅入る。
――最悪、おじいちゃんとおばあちゃん家の世話になるのかな……。
そうなると転校しなければならない。
――それは嫌だな……。
友達と離れるのは嫌だった。トモコと離れるのはもっと嫌だった。
一限目の授業中、カスミはそんなことばかり考えていた。
教壇では、国語の教師が、山月記――李徴の慟哭を読み上げていた。
昼休み、弁当がなかったので、カスミはトモコと一緒にパンを買いにいった。昼の間だけ、廊下の片隅で近所のパン屋さんが販売してくれるのだ。
「あら、今日は珍しいのね」
顔なじみのおばさんから声をかけられる。
母子家庭のトモコは、ほぼ毎日のようにパンを買いにいっていた。カスミはいつもそれについてきていたのだ。
――ほら、私はちゃんとパン屋のおばさんにも覚えてもらっている。
そんなささやかなことでも、今のカスミにとっては、この上なく嬉しく感じるのだった。
昼食はいつものように校庭のベンチに腰かけ、カスミとトモコの二人だけで食べた。
この場所は穴場だった。昼休みには校舎の影がかかり、生徒達の喧騒からは少し距離をおくことができた。学校の中にある、学校ではない場所――ほっと気持ちをゆるめ、ひと息つけるような――二人にとっては、そんな特別で貴重な場所であった。
パンをかじりながら、カスミはタイミングをうかがっていた。今の自分が置かれている状況を思いきってトモコに相談しようとしていたのだ。
「カスミ、なんだか最近、元気ないね。話してても、うわのそらのこと多いし」
唐突にトモコがそう切り出してきた。
それをきっかけに、カスミはすがるように、家で起こっている奇妙な出来事を一気に話していった。
「ふーん……」
トモコは半信半疑の顔をして、半ば冗談を受け流すかのように、カスミの切実な訴えを聞いていた。
「もう、本当に真剣なんだって!」
思うように伝わらない苛立ちを、思わずカスミはあらわにした。
「わかった、わかった。んー、でも本当に何なんだろうね」
「トモコは私のこと、少しでも気づかなかったことってある?」
そして、言葉にはしなかったが、こうも思った。
――私のこと、忘れてしまったことない……?
カスミの不安げな問い。
だが、その得体の知れない胸騒ぎを吹き消すように、トモコは笑いながらはっきりとこう言ってのけたのだ。
「それはないよー。忘れたくても忘れられない」
親友だから――との言葉を、このときカスミは少し期待していたのかもしれない。
「こんなおもしろい子、ほかにいないよ」
「もう!」
カスミのふくれっ面を見て、トモコはまた笑った。
「でもさ……」
トモコは真顔に戻って、小さくこう言った。
「私はカスミのことをきっと忘れない」
その言葉はとても静かで、力強かった。
――似合わないな……。
カスミはそう思った。そして、嬉しかった――。
トモコはときどき真剣な眼差しで、真剣な言葉を口にする。たいていは憂いをおびた表情のときのことが多かった。
トモコは見た目も少し派手で髪も薄く染めている。先生からの指導も日常茶飯事。クラスのみんなも最初は近寄りがたく、またそんな雰囲気をトモコみずからが醸し出していた。
カスミだって当然トモコには近寄りがたかった。おそらく誰よりも――。
まだそんな時期のことだった。カスミは、廊下の陰で声を押し殺して泣いているトモコに出くわしたのだ。
カスミはその場を静かに通り抜けた。だが、すぐに引き返した。そうしなければならないと、なぜかそのときは思ったのだ。そして、声をかけた。
いろいろなことが、当時のトモコを責めていた。学校が、先生が、勉強が、友達が――。そして、家に帰れば母親が……。
カスミは、失せろとでも言われるのを覚悟していた。だが、トモコは泣きじゃくりながら、胸につかえた思いを吐き出しつづけた。カスミはただ黙って、それを聞くことしかできなかった。
それが二人の仲の始まりだ。
カスミをはさんで、トモコは他のクラスメート達とも打ち解けていった。そして今にいたる。
――だから、私は忘れない。
カスミのことを、私は絶対に忘れない。
トモコは確信していた。
午後になって、不吉なことが起きた。授業中での出来事だった。
その英語の教師はいつも座席順に生徒を当てていく。英文の訳を答えさせていっているのだ。
前回の最後に当てられた生徒の座席をふまえると、この授業でカスミに順番が回ってくることは確実だった。だから、気が乗らなくはあったが、カスミは予習をせざるをえなかったのである、
前の座席の生徒が当てられ席を立つ。カスミは今一度予習してきた訳文を読み直した。
前席の生徒がノルマ分の訳を発表し終えて着席した。カスミは自分の名前が呼ばれる前に、イスを引いて腰を浮かしかけていた。
だが……。
カスミの名が呼ばれることはなかったのである。
代わりに次に呼ばれたのは、カスミの後ろに座る生徒。
カスミは青ざめ、背中に冷たいものが伝わるのを感じた。
辺りを見回す。誰もそのことを気にとめている者はいない。
――トモコは!
すがるように、カスミはトモコを振り返った――。
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