#213「至高の蝶」
けれど、無駄死になどでは決してなかった。
エンディアの全霊を懸けた突撃によって、ルゥミオリアの
逆鱗へ至る道筋が、微かにだが活路として開かれたのだ。
その隙を、絶好の機会を、見過ごすユリシスではなかった。
「業腹ですが、天晴れと讃えましょう……」
夜羽の獣。黒鴉神。冥夜の渡鴉。
気に食わないコトは多々あった。
羽虫と罵られた忌々しさも、死んだからといって許すつもりはない。
何より、古代圏の民が、黎明の国の王が、命をなげうち守った六千年を、自分勝手に壊した罪は絶対に許せるものではない。
闇夜鴉に天晴れと賞賛を贈るのも、長年来の皮肉を込めている。
それでも、終末の巨龍にもう一度挑もうとしたその気概。
ユリシスには無い不屈の闘志。
失っていた
鴉が死界の王に至ったのは、未だ自然霊に転生する以前、世界から昼知らぬ小さき鳥と謗られたがゆえの反骨精神からだった。
己が本質を掴み直し、一矢報いた鳥の偉業。
同格と評されたユリシスもまた、退廃の嵐に挑まなければ手向けの花は咲き誇らない。
ゆえに本性を晒す。
真の姿を解き放つ。
精霊女王、ディーネ=ユリシスには二つのカラダがある。
というか、絶世の美女としてこれまで晒していた姿は
水が溢れる。
樹海がそのままの意味で水中に沈む。
もしも
精霊圏は今や、海に変わっていた。
その言葉の意味は、大きく変わった。
森は水に沈み、全ての植物は樹水となり、地上にとつぜん大海嘯が出現したのだ。
海には六枚の翅が広がっている。
青く、黒く、深い水底を思わせる蝶の翅。
ただしデカい。
もしも地上から見上げるモノがいれば、その翅はまるで真っ逆さまに海が落ちてくるようだと錯覚しただろう。
──精霊女王、ディーネ=ユリシスの本来の姿とは。
獣神王エンディアにも劣らない、巨大な六枚翅を持つ水精蝶だった。
水中に沈んだ精霊圏だが、庇護下にあるモノに影響は無い。
森を泳ぐ魚。
生命の溢るる母なる大海こそは、水の大精霊が誕生した原初の大領域。
「死も滅びも……わたくしの世界において、存在は許されない……!」
退廃の嵐が何もかもを塵に変えると云うのなら、生命湧き出ずる大海を以って抗うまで。
相反する理が互いに天敵となるのは、六千年前、エンディアとの戦いでユリシスは証明済みである。
そして、それだけではない。
「わたくしの真名を明かしましょう……!」
神ならざる精神霊が、
精霊女王、ディーネ=ユリシスはただの精霊ではなかった。
「
巨龍は歌い、愉しそうに蝶を見る。
その眼差しに、圧倒的畏怖に、ユリシスは思わず怯懦を抱きかけるが、
──女王……!
──女王……!
──女王……!
我らが偉大なる女王陛下。
貴女は第四眷属最後の希望。
いと慈しみ深き
ゆえに、お救いください。
我らをお救いください。
貴女さえ共に在ってくれるなら、花と緑、童話と詩、雨と神秘の楽園は依然としてここにッ!
縋りつく臣下の声が聞こえる。
精霊も妖精も、ユリシスにとっては愛し子に他ならない。
ユリシスには同胞たちを守る使命がある。
巨大彗星の衝突によって、〈
だが、第四世界の神は生まれ変わった。
それこそがユリシスだからだ。
蝶には古来、不死の神秘性が宿る。
芋虫が蛹を経て蝶へと新生する変身の過程。
肉体がまったく別でありながら、中身が同じという奇跡。
一度自らの躰をドロドロに溶かしながらも、蝶は生まれ変わった後で美しく空を舞う。
第四の神はそういう神性であり、
本来であれば、ユリシスもまた神として目覚めるはずだった。
しかし、巨大彗星は世界の理を狂わせ、
結果、ユリシスは水の大精霊として目覚め、記憶すらも失っていた。
権能だけは引き継いでいたが、ユリシスに神としての自覚はなく、性格もまっさらとしたもの。
周囲は「女王」と。
あるいは「神」と。
ユリシスを崇め、時にはユリシスよりも遥かに偉大に見える地精霊さえもが膝を着き。
──自死を
そんなふざけた重荷を理由に、目覚めたばかりのユリシスに〝導き〟を求めた。
ユリシスだって、何が何やら分かってはいなかったのに。
気がついた時には故郷は失われ、目の前に広がっていたのは見たこともない新世界。
とりあえず、頼られるままアテにされるまま、手探りで〈領域〉を広げたりして同胞を守ろうとする日々が始まった。
なのに、
北に現れた獣神たち。
正史から流れ着いた漂着のまれびと。
挙げ句の果てには、終末の巨龍。
ユリシスは本当に泣くかと思った。
臣下の前では平気な顔をして、何の心配もないようなフリを心がけていたが、次から次に舞い込んでくるトラブルの数々に、内心では悲鳴をあげていた。
世界神の中つ星に降り立ってからというもの、ユリシスが真に安らぎを覚えたコトは一度も無かっただろう。
あの英雄。
斬撃王ヨキが、ユリシスの前に現れるまでは。
彼のコトは、別にはじめは好きでも何でもなかった。
神としての自覚がなくとも、精霊としての自覚はある。
ユリシスにとって人間は、〝小さくて弱っちいのに数だけは異様に多いモノ〟という認識で、なんて無謀な生命なのだろうと呆れるだけの存在に過ぎなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
けれど。
──乙女よ。いつか叶うのなら、君を我らの故郷に招待したい。
──……なぜ?
──なぜ? そうだな。君の横顔は、我らの王国の朝日にとてもよく映えそうだからか。
──……意味が分かりませんが。
──なら、分からなくたっていいとも。
──……ヘンなひと。名前も思い出せないのに、帰れるワケがないのに。
──夢くらいは見たっていいだろう?
──ヘンなひと……
その会話を覚えている。
六千年経っても片時も忘れ得ぬ言葉を。
そして、永遠の後悔もまた胸に残っている。
自分がとても残酷なコトを言ってしまったのだと気づいたのは、全てが手遅れになった後だ。
英雄はただ純粋に、好意からユリシスを褒めてくれていた。
黎明を望む王国の王が、朝日に映えると口にする意味。
精霊には人間の心の中身が分かる。
だから、ユリシスもこのとき、ヨキがよからぬ想いを抱えて言葉を伝えてきたワケではないとは分かっていた。
分かっていたが、
(生まれたばかりの精霊であるわたくしには、
ヨキは苦笑し、ブローチを贈ってくれた。
けれどその後、二度と言葉を交わす機会は無かった。
巨龍が現れてそれどころではなくなってしまったというのもあるし、ユリシスの方からヨキに会いたいとも思わなかったからだ。
まさに、自分の誤ちに気がつけなかった後悔の月日。
英雄は巨龍を封じた。
黎明の民は王のために全員が命を
──我らもはや、ありえざる神代の徒輩。
──栄えある王国の御名は忘却の彼方に失せり。
──誰も知らず何も残らず。
──いずれは〝無かったもの〟として消え去るが定めなり。
──然れど。
──然れど!
──我ら未だ、明日の輝きを識る〝生命〟なり!
──見果てぬ森の暗黒の先に、黎明の朝日を
──名を失い、記憶を失い、けれども忘れざる暁の光!
──たとえ死するとも! 席を譲った先達の末裔として汝を否定しよう!
──生まれたばかりの〝
彼らとて明日の朝日を望んでいたはずだ。
まだ生きていたのだから、過去になどされたくはなかったはずなのだ。
それでも、ヨキを筆頭に黎明の民たちは迷わなかった。
誰も知らず何も残らず、覚えている者ももういない。
だとしても、たとえ死んでしまうとしても。
大切な生き方だけは忘れない。
故郷に帰れない?
ああ、それはたしかに悲しいコトだけど、暁の光は全員の胸の裡にある。
受け継がれるモノは
その生き様に、輝かんばかりの在り方に、ユリシスは涙した。
心の底から、感謝を得た。
ユリシスの事情など、ヨキは知らなかっただろうし黎明の民も知らなかっただろう。
生まれたばかりの〝
英雄と過ごした何気ない日々を、後になって思い返して「なんて掛け替えのない宝物だったのだろう」と涙したのもユリシスの勝手な想い。
自分が彼との時間に、気がつかぬうちに深く安らいでいたのだと知ったのもかなり後になってから。
(そんな愚鈍な女が……)
今さら、ヨキに対して残酷な言葉を吐いたこの口で、あなたに恋をしました──なんて。
口に出すのは、恥知らずの極みに違いない。
「──それでも……!」
ユリシスは言いたい。
あなたに恋をしましたと。
生まれてからこれまで、あなたから贈られた言葉に勝る賛辞はひとつもありませんでしたと。
気づくのが遅くなってごめんなさい。
あの時、ひどいことを言ってしまってごめんなさい。
あなたが好きです。
だから、
「
真名、解放。
其は永久にして不滅、原初の生命を司る至高の蝶。
涙が持つ癒しの力は美しき第四世界の景色を再来させる。
東方大陸に
答えはユリシスだ。
涙滴型の鱗粉は、それひとつが樹海を生み出す生命氾濫の波濤である。
触れたもの皆すべて、御伽の星に変わるがいい。
大海嘯は天より高く、巨龍圏へ殺到した。
「この渾身を以って、今度こそ……!」
失わぬための戦いを。
奪われぬための奮起を。
蝶は龍に挑み、最後の
「──Lou・loulou・louuuuuuuuuaaaaaaaaaaaaaaa──!!」
「ぁ」
滅びの歌声が、それら一切を正面から塵に変えた。
風化の暴威が、ユリシスに迫る──
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tips:第四の神
転生体の名は、ディーネ=ユリシス。
神としての権能は一部のみ引き継ぐ。
はじめから死の概念が無いため、カラダを破壊されてもその度に新生する。
が、巨大彗星衝突によって不具合が発生し、現在のユリシスに神だった頃の記憶は無い。
本性は巨大な六枚翅の蝶。
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