#154「醜悪な襲撃の懸念」



 ゼノギアの容態は、あまり良くならなかった。

 一応あの後、船医に診てもらって常時えろえろ状態からは脱却できた。

 だが、仮に絶好調を100とした場合、今現在のゼノギアの体調は50かそこいらくらいの状態らしい。

 カルメンタリス教の神父はベッドの上で、しばらくは安静にしておく必要があると言われてしまった。


「これだけ船酔いに弱いヒトも、珍しいですがね」


 と、苦笑していたのはドワーフの船医。

 俺とフェリシアは頭を下げて、仕方がないのでゼノギアの看護をお願いしている。


 患者がカルメンタリス教の神父というコトもあって、最初は無料で診てもらえないかとゲスい目論見もあった。

 しかし、対応してくれたドワーフの船医はやたら親切で、ゼノギアの看護自体も思いのほか長期間になりそうなコトもあり、


「これはさすがに、礼が必要ですね。気持ちばかりですが、受け取っていただいても?」

「よしてください。神父さんのお連れの方々から、金なんかいただけません」

「で、でも、まさか治療薬院ケヒトでの入院ばりに診ていただけるなんて、こちらも思っていませんでしたし……」

「いやいや。たかが船酔い然れど船酔い。医に携わる者として、このくらいは当然ですよ。ですが、そうですね……」


 謝礼を申し出た俺たちに、ドワーフの船医は言った。


「見たところ、そちらの旦那は腕っぷしに自信がありそうだ」

「荒事ですか? まぁ、霜の石巨人フロスト・トロールぐらいなら余裕で退治できますが」

「なんと! だったら、ちぃと〝頼み〟を聞いていただいても、よろしいでしょうか?」


 否やは無い。

 話を聞くと、ドワーフの船医は面白い話を教えてくれた。


「実はこの船が最初の寄港地に着くまで、あと二週間ほどかかる予定なんですが」

「船内で何かトラブルでも?」

「いえ、船内には何にも。ただ最初の寄港地に向かうまで、恐らく何回かの襲撃がありそうで」

「襲撃」


 穏やかではないフレーズに、どうしたって顔を見合わせずにはいられなかった。

 船出の日の演説は、やはり単なる脅しではなかったのか。


「その口ぶりだと、襲撃者の正体はもう割れているんですね?」

「ええ。東方大陸への航海は、これで五回目になります。私は三回分の経験しかありませんが、過去五回すべてでヤツらは現れているようです」


 魔物。


「深海の悪霊、醜悪魚人グロテスクフィッシュですよ」

「!」


 フェリシアが俺の横で、ハッと息を飲み込んだ。

 白の制服と盾の徽章を失っても、少女は未だ刻印騎士の誇りを捨てていない。

 魔物の襲撃と聞いて、フェリシアはすぐに戦う者の顔つきになった。

 咄嗟に懐に伸ばされた手は、恐らく杖を握ろうとしたものだろう。

 少女の心は折れていない。

 歳下なのに、本当に頼もしい限りだ。

 しかし、


「五回目ともなれば、そちらでも当然何かしらの対策はしているんじゃありませんか?」

「ええ。もちろんしています」


 巨人艦トーリー号は、巨人が操舵輪を握る偉大な船。

 並の魔物の襲撃程度、跳ね除けられる準備は整えられている。

 退治できなくとも、要はヤツらの縄張り〈領域〉を抜けられるまで、持ち堪えられれば問題は無いのだから。

 船医は胸を張って断言したが、


「……ですが、今回はちとイヤな予感がしていまして」

「イヤな予感ですか?」

「我らが船長殿も懸念はしていらしたのですが、回数を重ねるごとに、どうもヤツらの数が増えているような気がするのですよ」

「すみません、前回はどれくらいの被害が出たんでしょうか?」

「正直に言うと、甲板に侵入されるギリギリのところまでだったと聞いています」

「なるほど」


 つまり、今回は侵入される。

 もしかしたら、船に乗り込まれる可能性がある。

 備えはして来ているが、想像を超えられた場合の手助けが欲しい。

 要はそういう話らしかった。


「お恥ずかしい話ですが、我々クルーの間でも密かに心配が囁かれておりまして……」

「構いませんよ。俺はもちろん、ここのフェリシアも魔物退治には経験があります」

「はい。もしもの時は、私たちで皆さんをお守りしますから!」

「……ほほぅ。とても勇敢なお嬢さんだ。では、お二人とも。船長殿には私の方から話を通しておきますので、いざという際には是非お力添えをお願いいたします」

「こちらこそ、お邪魔にならない範囲で喜んで協力させていただきますね」

「船員の皆さんをお助けするのは、巡り巡って私たちの安全な航海を守るコトにも繋がりますもんね、先輩」

「ああ」

「ぅぅ……」


 呻くゼノギアのゾンビのような声を背景に、俺たちは昨夜の船医室で、そんな取り交わしを結んだのだった。






 ──さて、醜悪魚人グロテスクフィッシュ


「海の魔物としちゃ、割とよくいるヤツらだってのは知ってるんだが、詳しいところは知らないんだよな。フェリシア、教えてくれるか?」

「お任せ下さい!」


 翌日、デッキ。

 澄み渡るような晴天。

 キラキラと光る海の風を頬に浴びながら、俺とフェリシアは太陽の光の下で朝食を摂っていた。

 食べているのは、乗客に与えられる乾パンと畜犛牛オーノックの焼き肉。

 少量のバターとチーズを挟んで、モッキュモッキュ粗雑な味を楽しむ。

 フェリシアは顔を顰めながら、どうにか頬張りつつ、元気に張り切っていた。


「ん、っ、先輩から頼られるの、なんだか初めてな気がします」

「そうか? 俺の知識なんて、所詮は北方大陸グランシャリオで得られたものに限られてるからなぁ」


 フェリシアのように、立派な学術機関で専門的な課程を修了したワケじゃないし、海だって越えるのは初めて。

 西方大陸のエルダース魔法魔術賢哲学院を次席卒業したと云う才媛に比べれば、ワールドワイドな知識については普通に後塵を拝する。


「単純な戦闘能力じゃ、たしかに俺の方が上だろうけど、何でもできる人間なんていないだろ?」


 常に正しい人間がいないのと同じように。

 後悔を未然に防げる人間が、この世には一人もいないのだから、欠点や不足は補い合って支え合う。

 そういう関係が、これからの俺たちには殊更に必要だと思う。


「言っておくが、俺はフェリシアをすごく信頼してるからな?」

「え?」

「不思議そうな顔をするなよ。ルカやロータスさんもそうだったけど、フェリシアは俺の真実を知っても、変わらずに接してくれたじゃないか」

「え、でも、だって、それは先輩が先輩だったからですよ?」

「ああ。だけど、それを当たり前のように受け入れてくれたのは、俺にとってかなり意外なコトだったんだぜ?」


 八年間の積み重ね。

 リンデンが俺を禁忌の魔物『白嶺の魔女』ではなく、自由民『メラン』として見なしてくれたのは、共に過ごした長き時間と、たしかな実績に基づく信頼関係があったからだ。

 しかし、俺は心の底では、その八年間に自信を持っていなかった。

 

 ──貴公が最初から、素性を明かして、秘密を打ち明けてくれていれば……


 リンデン伯からも言われた。

 俺がもし自分とその周りを、もう少しでもいいから信頼できていれば、あの悲劇は回避できたんじゃないかと。

 その通りだと思った。

 ベアトリクスが為した過去の殺戮。

 〈目録〉で語られる、目を覆いたくなるほど陰惨な事件の数々。

 古代の刻印騎士が今なお死霊術の支配下にある現実から、俺は勝手に無理だと諦め、言葉を尽くす選択肢を自ら捨ててしまっていた。

 この世界に詳しくなればなるだけ、歴史の重みに圧倒されて……ああ、何て愚かだったのだろうと今では思う。

 だからこそ、


「そう大した時間を一緒に過ごしたワケでもないのに、フェリシアはルカたちと同じ反応を返してくれた。その事実が、俺にはとても眩しく映ったんだよ」

「え、え〜……? 私はただ自分が未熟なので、先輩や周りの方を、純粋にすごいなぁって思ってるだけですよ?」

「純朴も素朴も、そこまで行けば価値ある在り方だろ」


 少なくとも俺は、尊いモノの片鱗をフェリシアに感じている。

 そう付け加えると、フェリシアは照れたのか微妙に視線を泳がせつつ、


「初めて会った時、先輩は私を助けてくださいました」

「ん」

「なので、私が先輩を信頼しているのと同じように、先輩もまた私を信頼してくださっているなら、それは素直に嬉しいです」


 にへっ。

 フェリシアは年頃の少女らしく、ややあどけない雰囲気を残しながら弛緩した笑みを見せた。


(……まったく)


 その素直さと純真さに、こちらがどれだけ救われていると思っているのか?

 心根の美しい娘には、昔から敵う気がしない。


「ま、それはさておき……醜悪魚人グロテスクフィッシュ

「あっ、はい」

「あの船医さんは襲撃があるって言ってたが、実際どんな魔物なんだ?」

「んー、見た目は少し水掻き鬼アドゥーに似ているかもしれません」

「魚人だもんな」


 ヌメヌメテラテラしたインスマス面なのは、間違いなかろう。

 クトゥルフ神話のダゴンだかディープワンだか、そんなようなイメージで頭の中に思い浮かべている。


「想像したら食欲が失せてきたな」

「アハハ……水掻き鬼アドゥーも気持ち悪いですもんね。でも、醜悪魚人グロテスクフィッシュはもっと気持ち悪いかもです」

「そうなのか?」

「はい。なんと言っても、大きさが私たちと変わりありませんから」

「ニンゲン大か。元々は海棲生物だったんだろ?」

「そうですね。醜悪魚人グロテスクフィッシュは溺死者の屍肉を食べた海棲生物の魔物です」


 人から転じた魔ではなく。

 海から転じた魔に分類されるモノ。


「俗に言う『海魔』か」

「よく、ヒトの味を知ってしまった獣は、ヒトしか襲わなくなる──なんて話を聞きますよね」

「ああ。クマとかオオカミとかな」

「それと同じで、醜悪魚人グロテスクフィッシュもヒトの味を覚えてしまった。あるいは、ヒトの欲や業を覚えてしまったために、魔物へ転変したと云われています」


 ヒトを襲うのは食べるためでもあり、犯すためでもある。

 見た目も醜悪なら、備え持った性質も醜悪なためにグロテスクフィッシュ。

 捕まった人間は深海に引き摺りこまれ、溺れ死にながら食われ犯され、とにかく悲惨な末路を辿るとも。

 言葉を解する知性は無い。

 あるのはただ、生々しいまでの本能だけ。


「退治する方法は?」

「火ですね。醜悪魚人グロテスクフィッシュはとにかく高温を嫌がります」

「なんだ。それなら対処は簡単だな」


 俺たちには“イグニス”がある。


「魔法の火をお見舞いしてやろう」

「問題は数です。醜悪魚人グロテスクフィッシュは魔物には珍しいことに、群れる性質があります」

「囲まれて物量戦に持ち込まれたら、かなり厄介か?」

「先輩が本気を出せば、恐らく簡単に殲滅できると思いますけど……」


 トーリー王の息のかかった乗組員だけならまだしも、他の乗客がいるあいだは魔女化など出来ない。


「……東方大陸への航海事業、か。

 たしか、貿易と海図制作を兼ねてるんだっけ」

「らしいですね。船舶貿易も海図制作も、成功すれば莫大な利益になるそうですから、私たち以外の乗客は皆さんほとんど、国内でも有数の大商人の方か、もしくは王陛下お抱えの製図兵の方たちばかりみたいです」

「なるほど。道理で」


 船旅など命懸けに等しいのに、乗る客がいるワケだ。

 トライミッド連合王国はひょっとすると、古代以来、はじめての超大陸間貿易を成し遂げているんじゃないか?

 海図作りにまで注力するなんて、よほどこの船の未来にベットしているように思える。


「間違って燃やしでもしたら、俺も大罪人かな」

「……それ、笑えませんよ?」

「悪い。しっかし、いったいどうやって航路を拓いたのかは知らないけど、これだけ金のかかった航海事業だ。俺たちが出しゃばる必要は、そこまで無いような気もして来た」

「う〜ん。クルーは何せ、巨人さんですもんね」


 そう、巨人。

 船側にしがみついて乗船を試みようものなら、彼らは手に持つそのオールで、醜悪魚人グロテスクフィッシュを綺麗に叩き飛ばすだろう。


「襲撃予想ポイントに着いたら、万が一の際の保険くらいのつもりで、控えてればいいかもな」

「ゼノギア神父が元気だったら、女神様へのお祈りを頼むところなんですけど……」

「それは……無理だろ」

「はい、無理ですね」


 二人して苦笑。

 今のゼノギアに祈りなどさせたら、女神様は逆に凶運を送り込んでくるかもしれない。


(こう、ゲロ臭い息で話しかけてくんなよ! 的な感じで)


 なのでまぁ、ここは代わりに俺が祈っておこう。

 どうかあの船酔い神父に、酔い止めの加護がありますように。

 醜悪魚人グロテスクフィッシュの襲撃が仮にあるのなら、大したトラブルにはなりませんように。


 ガブリ。


 牛肉を挟んだパンを齧り、祈りを捧げた。




────────────

tips:海から転じた魔


 海魔。

 海に生きるモノが魔物へ転じた姿。

 船乗りよ気をつけよ。

 深きモノ、醜きモノが汝を冒涜の眼で見つめている。

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