公私宴
はんすけ
第1話 日本の未来が決する夏
夏の、広島県広島市。繁華街の熱が肌を濡らす。酒にあふれ、紫煙がたゆたい、喜怒哀楽が暴れ狂う、深夜。火種が無数に転がる享楽の地に、皆野未来はいた。
皆野未来、鳥取市立因幡中学校在学。身長、180センチメートル。体重、78キログラム。一見したところ、彼を十四歳と判別できる人間は皆無。しかし、その漆黒の瞳を覗き込んだならば、彼がまだ汚れ切っていない少年なのだと理解できる。名は体を表す、それを地で行くように、若い彼は未来そのものだった。
スカジャン、ジーパン、スニーカーといった具合に、皆野の服装は至ってノーマルで、繁華街に充分溶け込めるスタイルだった。そうだというのに、彼の存在は際立ち、周囲の注目を集めてしまっている。なぜか? 答えは彼の髪型にある。昭和と平成の遺物ともいうべき前方に大きく突き出したポンパドール、俗に言うリーゼントが彼を悪目立ちさせてしまっているのだ。彼のポンパドールは剥き出しの導火線。喧嘩の火種だらけの空間にあれば、着火は必至。案の定、広島駅周辺を闊歩していたところで、彼は二人の男に呼び止められたのだった。
「タイムスリップでもしたんかい、兄ちゃん」不自然に背筋が真っ直ぐな男がニタニタと笑いながら言った。「気合い、入ってるじゃない」
「ちょっと歩こうな、お兄さん」ポケットに両手を突っ込んだ男が無表情で言った。「俺たちとお話ししような」
顔色一つ変えず、抗うこともなく、皆野は促されるまま歩いた。
不自然に背筋が真っ直ぐな男の体格は皆野と同等。もう一人の男は皆野より一回りも大きい。彫物、古傷、当たり前。そんな二人が歩けば、擦れ違う輩は皆、頭を下げた。
皆野たちがやってきた場所は、薄暗い路地。酔っ払いが一人、壁に寄りかかっている。ポケットに両手を突っ込んだ男は躊躇なく酔っ払いを蹴飛ばした。
「何すんじゃい、こら!」そう叫んでから、自分を蹴飛ばした男を見上げて、「すんません!」と素早く態度を改め、酔っ払いは賑やかな表通りへと駆けていった。
そうして、路地には三人だけ。
「俺とタイマンな、兄ちゃん」
「待てよ、安藤。このお兄さんに目を付けたのは俺だぜ。俺がタイマンを張るっていうのが筋ってもんだろ」
「ふざけんじゃないよ、小山。お前さんにはこの前、縮景煉獄同盟の頭とのタイマンを譲ってやっただろうがよ。順番的に、こいつは俺の相手だろうがよ」
小山は、やれやれ、といった具合に首を振り、「そいつを一分以内に半殺しに出来なかったら、揚げもみじ、お前のおごりな」と言った。
安藤は不敵な笑みを浮かべ、唇を舐め、背中に忍ばせていた金属バットをゆっくりと抜き取った。
「ドトール、スタバとはしごして・・・・・・」小山は冷や汗を流した。「キャラメルマキアートなんかをすすってる間中、ずっと金属バットを隠し持ってたっていうのかよ。安藤、やっぱりお前は正気じゃない」
示される畏怖の念、それが安藤の大好物だった。ヒト科に稀に見られる、恐れられることを快感とする性癖。歪んだ人相が、恍惚によって一層と狂気じみた。
「マジで、やばい奴だ。中学からの付き合いだが、未だにあいつのサガにはブルっちまう。絶対に敵には回したくない。ガチでイカれてるから、あいつ」
なおも畏怖の愛撫を続ける。それは意図的だった。十年来の付き合いで、マブダチの悪癖はとうに理解している。安藤を気持ちよくしてやりたい、という思いやりが、普段は口数の少ない小山を饒舌にしていた。
「切れたナイフ、では形容が弱い。切れた肉切り大包丁、これくらいでなくては安藤という男を言い表せない。恐ろしい、まっこと恐ろしい男だよ。ジェイソンより怖いよ、ジェイソンより」
快感が絶頂に達して、安藤は奇声を上げた。そうして、前方へ跳躍し、皆野との距離を縮める。バットが届く間合いに入った。
両の手の平が出血するほど強くバットのグリップを握りしめ、大きなテイクバックを見せる。それは、骨を粉砕するつもりでバットを振るぞ! という意思表示だった。その意思を、皆野は読み取った。読み取ってなお、彼は避けようとする素振りすら見せない。まるでプロレスだ。避ける、という概念が存在しない。受ける、という概念しか存在しない。
「脳みそ、ぶちまけろや!」
そう叫びつつも、頭部は狙わず、左肩目掛けてバットを振った。さすが安藤、喧嘩なれしている。バットで頭部を殴ったならば、それはもう喧嘩ではなく事件であると認知している。不良の領分から警察の領分になると熟知している。百戦錬磨の猛者が百戦を消化できるのは、一々くさい飯を食わないからだ。ゆえに安藤、その手は血にまみれながらも前科なし。
バットは安藤の狙い通りの部位に当たった。筋肉と金属が衝突する鈍い音が路地に響く。
「俺のスイングスピードは大谷レベル! 打球飛距離150メートル超え確定の強打じゃい!」
下品な笑い声を上げながら、安藤は連続で十数回、皆野の左肩をバットで打った。
そのうちに、鈍い音が響かなくなった。それでも、安藤はスイングの動作をやめない。無我夢中だ。
「安藤! 安藤! 安藤!」
執拗に呼ばれる自分の名前、その何度目かで我に返り、小山を見やる。
「バット! バット! バット!」
促されるままバットを見る。驚愕。
「バットの、芯の根元から先が、ない!」
安藤は路地の暗がりに目を向けた。そこには、真っ二つになったバットの片割れが転がっていた。
「俺のバットに何をした!? お前!?」皆野に向けた目は、恐怖を宿していた。「金属切断機にでもかけたのか!?」
「やわなバットが勝手に折れたのさ」
バットで打たれていた間、皆野は1ミリメートルも動くことがなかった。ゆえに、一歩踏み込むだけで安藤の体に拳が届く。腹部への強烈な左ブロー。その衝撃で、ポイ捨てされていた空き缶が一斉に跳ねた。
安藤は白目をむいた。一時間前に食したあなご飯、その原型がある程度残った物を吐き出し、前のめりに倒れる。失神だ。
ボディーブロー一発で人間を失神させることは果たして可能なのか? ヘビー級のプロボクサーが、週一日のジム通い程度の腹筋を打ったならば、可能だろう。しかし、鍛え抜かれた腹筋を相手にしたならば、例えマイク・タイソンであっても一撃KOは不可能。それは、プロボクシングの試合が証明している。プロの試合において、ボディーブローは執拗に打ち込み続けることを前提とした積立貯金のような攻撃なのだ。安藤の腹筋は、シックスパックである。ついでにもうツーパック増やそうかという鍛えようだ。プロボクサーと遜色ない。この腹筋を一撃で仕留める? 無理だ。到底無理だ、常人には。
「常人じゃないね、お兄さん」小山が言った。余裕のある声音だ。「ダニエル・デュボアの若い頃の動画を思い出しちまった。超一級品のボディーブローだ。でもね、お兄さん。あえて左を使って打ったのは感心できないね。金属バットで何度も強打された肩を酷使してまで、俺に弱みを見せまいとするその浅ましさが感心できないね。喧嘩は先に弱みを見せたほうが負け、そいつは鉄則だが、鉄則に捕らわれる余りにイカれた左肩で全力のブローを打ったら、左、もう使い物にならないだろ」
小山の発言を受けて、皆野は左肩をぐるぐると回した。一見してノーダメージと分かるほど、円滑に回る。
「右利きなんだ、俺は。右で打ったら殺しちまってた」
事実として、皆野の骨にはひび一つ入っていない。更に言うならば、打撲すらしていない。その上に言うならば、青あざ一つできていない。粉砕骨折が必至の打撃を浴びていながら、脱帽である。
皆野のノーダメージを理解して、小山は大声で笑った。
「これじゃあ安藤に勝ち目はないわな!」
竹原慎二氏とゲンナジー・ゴロフキン、どちらが強いかと広島のやんちゃ坊主たちに問えば、強い熱量でこう即答するだろう。竹原さんのほうが強いに決まってるじゃん、と。では、安藤と小山、どちらが強いかと広島のやんちゃ坊主たちに問えばどうなるのか? 彼らは先の問いと同等の熱量でこう即答するのだ。小山さんのほうが強いに決まってるじゃん、と。
凶器を必要としないマッスル、天を穿つかのようなタッパ、許容に満ちたメンタル、それらを加味して、人々は小山をこう呼んだ・・・・・・。
「広島の通天閣」小山はもう、笑っていなかった。「この通り名は伊達じゃないのよ。お兄さん、あんたはこれから地獄を見る」
ポケットから両手を出し、全身に力を込めた。筋肉が盛り上がる。身にまとっていた本革のライダースジャケットを内から破り捨て、デカい上半身を露出する。
「肉体改造byオレ流!」
叫ぶや否や、小山の全身から水蒸気のようなものが現れた。広島市の熱気が汗を蒸発させたのか? いや、そうではない。この水蒸気のようなもの、ドラゴンボールでいうところの、気。ハンターハンターでいうところの、念。今、小山に起こっている現象は、この世界の共通認識として、気念、と呼ばれる超能力なのである。
唯でさえデカい筋肉が、気念の力によって更にデカくなる。何割増し? 何割増し!? ちっちゃいジープではもう済まない! 偏に、デカくなる!
十数秒の後、筋肉の増大が止み、ベルジャン・ブルーも真っ青な肉体が完成した。肉体の変化を体重で表すならば、ビフォーが150キログラムであり、アフターが240キログラムである。もちろん、タッパは213センチメートルそのままだ。
「広島に生まれて広島に育った俺だが、ひねくれ者だからね、清原和博と落合博満の大ファンなのさ。気念の技名は二人からとったんだよ。技名を叫ぶの、かっこよかっただろ? ワンピースみたいで」
己の上腕二頭筋をなでる。愛でるようになでる。自己愛を満たしてくれる、至高の筋肉。
「俺は安藤みたいに手心を加えてやれない。そんな器用じゃないんでね。お兄さん、死にたくなければ、詫びを入れな。そうすれば、両腕を折るだけで勘弁してあげるから」
「言葉を覚えたての幼児みたいだ」事ここに至ってさえ、皆野は平然としていた。「おしゃべりが大好きなんでちゅね」
露骨な挑発は、すんなりと小山の逆鱗に触れた。浮かび上がる極太の血管が、上半身だけでなく顔面にまで広がる。
「このクソガキ! 全身の骨を砕いてやる!」
240キログラムの体ながら俊敏で、あっという間に皆野との距離を詰め、右のこぶしを繰り出す。岩石みたいなそれは、優れたスピードと相まって、AT-4対戦車ロケットランチャーを超える威力のパンチと化した。そんなものが顔面を直撃する。
骨の破裂する音が、聞こえた。刹那に、小山は勝利の余韻を楽しんだ。直に右のこぶしが痛み、破裂音の出所を悟るまで。
「俺の!?」ぐしゃぐしゃになったこぶしを天高く挙げ、絶叫する。「こぶしか!」
皆野は、鼻血を出していた。しかし、鼻は折れていない。脳震盪の症状も見られない。ほぼ無傷である。
「こんなものか」十四歳の少年のものとは思えない、寂しい声だった。「こんなものなのか」
血走った目で、小山が左のストレートを放つ。後出しで、皆野も左のストレートだ。
皆野のストレートが速度で遥かに上回り、小山のストレートが届くことはなかった。
胸郭の下部に直撃したストレートによって、表通りまで吹き飛ばされる。その飛距離およそ10メートルであった。
猛烈な勢いで飛んできた規格外の巨漢を目撃し、通行人たちは悲鳴を上げた。
「救急車!」一人の心優しい通行人が言った。「それとも、警察!?」
「警察は、呼ぶな」肋骨が粉々になった体に鞭打って、小山は言った。「救急車だけでいい。重傷者が、二人だ」
皆野はゆっくりとした歩調で表通りに出て、一瞬で群がった野次馬の隙間から倒れている小山を一べつし、そのまま喧騒のなかへ消えた。次なる喧嘩の相手を求めて。
夜のとばりを切り裂く光が、広島城を神々しく照らし出す。血で血を洗う喧嘩の華は、孤独な月下美人がごとく、朝に何も残さなかった。
皆野は広島駅付近の駐輪場にいた。自前のシティサイクルにまたがり、こぎ出す。夜の人種が去り、健全ながらも刺激を失った街にはもう、関心がなかった。
一晩で、皆野は安藤と小山を含む計十人の輩を血祭りにあげていた。刃物を持った輩がいて、火器を持った輩もいた。それらを相手取ってさえ、彼にダメージらしいダメージは皆無だった。
「退屈だ」
冷めきった声は風に隠れた。
皆野は鳥取県鳥取市に向かって自転車をこぎ続けた。
午前五時半に広島市を出た皆野が鳥取市に到着したのは、同日の午前十時半だった。広島市から鳥取市までは、中国縦貫自動車道を使ってさえ四時間ほどかかる距離がある。皆野の自転車にはジェットエンジンを装備するなどの改造は施されていない。市販品のままだ。それで五時間走破を達成した脚力と持久力は、称賛に値する。
鳥取市に到着してからは、常識的な速度で自転車をこいだ。家に帰ってもやることがないから、見飽きた街をぶらぶらする。
真昼間では喧嘩相手なんてそうそう見つからない。それこそ鳥取砂丘でコンタクトレンズを探すようなものだ。
ぎらつく太陽を、皆野は恨めしそうににらんだ。
「よう! 未来!」
交番の前に立っていた警察官に声をかけられ、皆野は自転車を止めた。
「大原さん」
「未来。俺、今、暇で暇でしょうがないんだよ。お茶とお菓子を出すからさ、ちょっと交番に寄っていって、話し相手になってくれよ」
皆野は面倒くさそうにしつつも、自転車を交番の前に停めた。
「そこに座っちまって構わないよ」
交番に入ってすぐ左手に置かれている机と椅子を指差して、大原は言い、それから詰め所の奥に行き、お茶とお菓子を持って戻った。
「大山町産の茶葉だ」机にお茶とお菓子を置く。「お菓子は因幡の白うさぎだ」
「見れば分かる」椅子に深く座りながら言って、白うさぎを一口で食した。「美味い」
大原は壁に寄りかかりながら微笑んだ。
お茶にも口を付ける。
「美味い」
皆野に向けられる大原の眼差しはお茶同様、温かかった。
「チャリでどこに行ってたんだ?」
「広島市」
「すごいな。先週は岡山市だし、先々週は大阪市だろ。チャリ、よく壊れないな」
「俺の相棒はタフが売りでね」
そう言った皆野の真顔を、大原はしっかりと見詰めた。
「チャリを相棒って呼んであげる君が、俺は好きだよ」
頬が、赤らむ。茶を一気に飲み干し、席を立つ。
「ごちそうさま。俺はもう、帰るぜ」
「未来」大原の顔から笑みが消えた。「本当の君は茶目っ気のある優しい少年で、決して喧嘩に明け暮れるような人間じゃないんだ」
「いつもの説教が始まった」皆野は首を横に振った。「くさいことを言うのは止めてくれ」
「若さは有限だ。もっと自分を大事にしてくれ」
「大事にしてるさ。大事にしているからこそ、俺は俺の望む喧嘩に明け暮れているんだ。俺は今の生き方に満足している」
「本当に、満足しているのか?」
澄み切った声が胸の奥に刺さり、皆野は俯いた。
「自分が本当は何を求めているのか、考えてごらん。考えても分からなければ、探してごらん。探す場所なら、人との真摯な関わりのなかに幾らでもある」
「うざいよ、大原さん」
吐き捨てて、逃げるように交番を飛び出し、皆野は再び鳥取市内をさまよった。そのうちに空腹を覚え、トスクのフードコートで食事を済ませ、それからようやく、家路についた。
鳥取市内にある自宅は、築四十年を超えるアパートの二階だった。母親と二人ぐらしの小さな住まい。
「もう午後の二時か」
玄関に置かれた古い時計を見て、言う。リビング兼ダイニングに入る。食卓の上には、紙幣と走り書きのメモが置かれていた。メモを手に取る。そこには、このお金で食事を済ませてください、とだけ書かれていた。
メモをごみ箱に捨て、紙幣を財布に入れる。そうして、自室に入り、横になり、眠りに落ちた。
玄関チャイムが鳴って、皆野は目を覚ました。寝ぼけ眼でスマホを見やり、時刻が午後七時八分であることを知る。まだ母親が帰ってくる時間ではない。
来客への対応を面倒くさく思い、皆野は居留守を決め込んだ。
五秒に一度の間隔で、玄関チャイムは計三回鳴った。その後には、二十秒ほどの静寂があった。
『帰ったか?』
そう思った刹那、皆野は寒気を覚え、全身の毛を逆立たせた。冷や汗が噴き出す。生まれたての鹿の脚みたいに震えてしまう体に困惑しながら、皆野は自室を出て、玄関を見やった。
「いる。玄関ドアの向こう側に、気念の闘気を発している奴がいる。何者だ? どこぞの不良が喧嘩に負けた腹いせに殺し屋でも送り込んできたか?」
一瞬、窓から飛び降りて逃げ出そうかと考える。そんな自分を、激しく恥じる。
「何をブルってやがる、俺は。俺は、喧嘩無敗の皆野未来だぞ。相手がターミネーターでも逃げやしない。正面からぶちのめしてやる」
勇ましい声とは裏腹に、玄関へ向かう足取りは重かった。際限なく噴き出る冷や汗で、質の悪いプールサイドみたいに床がしめる。恐怖に苛まれながらの前進は、毎月貯金を切り崩しながら生活していくかのように、痛苦を極めた。
玄関まで辿り着き、鍵を開けようとサムターンに手を伸ばす。真実の口に伸ばされる手が彷彿とされる、恐る恐るの仕草。
臆病な己にいきどおり、皆野は腹の底から声を上げ、一思いに鍵を開けた。後は、ドアノブをつかみ、ドアノブをひねり、ドアを押す、三工程だけ。しかし、皆野にはもう、その三工程をこなすだけの気力は残っていなかった。彼は、閉じたままのドアを前にして膝をついた。
玄関ドアが、外側から開かれた。
顔を上げ、玄関ドアを開けた男と目が合う。男の瞳は満天の星空みたいに無数の輝きを有していた。年の頃は六十代前半。硬質な漆黒の毛髪が若々しく生い茂っている。生粋の紳士であることが一目で見て取れる上品な顔立ち。2メートルを超える身長、100キログラムを超える体重。紅のスーツに純白のローファー、そんな装いが滑稽ではなく粋に見える。彼の佇まいに、けちを付けられる要素は皆無だった。
「怖がらせてしまって、申し訳ありません」男は皆野にそっと手を差し伸べた。「鳥取県知事、漢咲努大です。初めまして、皆野未来君」
既に闘気を発しておらず、漢咲に威圧感はなく、唯、包容力だけがあった。
皆野は漢咲の手をつかまず、自力で立ち上がった。
「知事が、家に何の用だ?」
「君と話しがしたいのです」恭しく頭を下げる。「お時間をいただきたい」
「嫌だね。帰りな」歳相応の幼さで、嘲笑を作る。「県庁でふんぞり返ってな」
「どうしても、君に聞いてほしい話があるのです」
「しつこいね、あんたも」眉間に渾身の力を込め、にらむ。「要求を通したいのなら、力尽くでやってみな」
漢咲は皆野から少しも目を逸らさず、微笑んだ。
「君と争いにきた訳じゃないんだ」
「あんたは俺と話したい。俺はあんたと話したくない。落としどころがない以上は、暴力で我を通すんだよ!」
言うや否や、皆野は左のブローを放った。内臓を爆破するつもりで放っている。そんな危険な攻撃を、腹筋でしっかりと受ける漢咲。
こぶしと腹筋が触れ合って、皆野は未だかつて一度も味わったことのない衝撃を受けた。
『喧嘩に明け暮れて早三年、数え切れないほどの腹筋をほふってきたが、こんな腹筋は初めてだ! 分厚いタイヤ、装甲車、そんなふうに形容される腹筋は数あれど、それらとは次元からして違う。言うならば、この腹筋は、山だ。富士山だ。鳥取県民の俺には想像することしか出来ないが、富士山の麓を殴ったならば、こんな感触であるに違いない』
「素晴らしいパンチだ」淀みのない声で、漢咲は言った。「きちんとした訓練を積めば、私よりも強くなる」
遥か高みから降り注ぐ声に、畏怖ではなく憎悪を抱く闘争心で、皆野は切れた。
「現時点で俺がてめえより弱いって断言しやがったな、くそじじい! 見当違いだって体に教えてやるよ!」
喧嘩無敗の浅ましいプライドで、更なる暴挙に出る。腹筋に対する連続ブローだ。常軌を逸した高速、一秒あたり十回の打撃、それを左手だけで。
連続ブローが始まって、十秒が過ぎる。比喩ではない百裂拳。こぶしはもう血まみれだ。しかし漢咲、未だノーダメージ。
「皮が裂けてしまっている。ここまでにしなさい。いずれ骨まで損傷する」
情けをかけられて、ますます連続ブローに固執し、皆野は叫びながら左のこぶしを振るい続けた。
騒ぎに気付いて、アパートの住人たちが部屋から出てきた。喧嘩など見慣れていない真っ当な人々は、皆野の連続ブローを目撃し、おののいた。そんな住人たちの様子に気付いて、漢咲は皆野の拳を手の平で受け止めた。
「ご近所迷惑になってしまった。場所を移しましょう」
「知ったことか!」
「子供も見ている」
漢咲が目線で指したところには、八歳の男児がいた。親の制止を振り切って暴力を見詰めていた男児の目には、恐怖と一緒に誤った尊敬の念が宿っていた。それを見て取り、拳を引っ込め、屈辱に震える。
「どこで決着をつける?」くっきりと、こめかみに血管が浮かび上がる。「あんたの墓場だ。自分で選びな」
「鳥取砂丘がいいでしょう」そう言ってから、漢咲はアパートの住人たちに対して深々と頭を下げた。「騒がしくしてしまって、申し訳ありませんでした。トラブルは解決しましたので、どうかご安心ください」
ざわめく住人たちに会釈しながら、漢咲は一階へと降りていった。皆野はその後に続いた。
「漢咲さん!」一階に住んでいる老人が、漢咲に駆け寄った。「日本を、どうか、どうかお願いします!」
「善処します。私の全てを懸けて」老人が求めた握手に漢咲は間髪入れず応えた。「どうか、お体を労わってください」
「超高齢労働者の私に・・・・・・」老人は涙を流した。「その言葉は染みますわ」
老人の気が済むまで、握手は続いた。
「私の車で行きましょう」老人の手が離れてから、皆野を見やる。「近くの駐車場に停めてあります」
「車なんて遅い。走ったほうが速い」
言い終わるより先に、走り出していた。
「いいですね。健康のためにも走りましょう」
皆野に続いて、漢咲も走り出した。
時速五十キロを超える速度で二人は走った。人道の面からして、歩道を使うという選択は有り得ない。では、車道を走るか? それは道路交通法に反する。ならばどうやって、鳥取市南部から鳥取砂丘へ向かえばいいのか? 簡単だ、千代川を使えばいい。千代川の水面を蹴って走り、北上すればいい。そのまま日本海へ出て、東に少し走り、北から鳥取砂丘に上陸すればいい。現に二人はそうやって、鳥取砂丘に到着したのだ。
漢咲を引き離そうと終始オーバーペースで走った皆野は、呼吸を乱していた。一方の漢咲は、皆野に離されることなく走り切ってなお、呼吸が安定していた。
「今夜はとても空が澄んでいる。よかった」空を見上げながら愉快な声を出す。「星明りがなければ真っ暗で何も見えないからね」
鳥取砂丘のきめ細かな砂粒が、星明りを浴びて輝いた。まるで、地上の天の川。
「特別な夜だ」
「気持ち悪いことを・・・・・・」呼吸を整えて、言う。「言うな」
「何も気持ち悪くなんてありません。今夜は私にとって、君のような素晴らしい若者に出会えた特別なものなのだから」
「意味が分からない」
「歳をとれば、君にも分かる日がきますよ」
「くだらないお喋りはここまでだ。これ以上、じじいの道楽には付き合い切れない」皆野はスカジャンを脱ぎ捨て、鋼のような上半身を露にし、右手を強く握りしめた。「全力だ。全力で、あんたを殴る」
皆野は右のこぶしに気念を集中した。周囲の砂が波打つ。風紋であろうか? いや、違う。この夜に風は吹いていない。気念の力が強大な余りに、地表の砂が振動しているのだ。
海岸の砂が、鳴いた。
「その若さで、これほどまでの力。大したものだ」
「あんた・・・・・・」気念によって光り輝いたこぶしを漢咲に向ける。「家族は?」
「今は、一人です」
「それなら、心置きなく逝けるな」
憤怒と悲哀の入り混じった皆野の顔を、漢咲は慈しむように見詰めた。
「一つ、約束してくれませんか。その右のこぶしに私が耐えたならば、話を聞いてくれると」
「死人に口なし、ってな! 運よく生き延びたら好きなだけ駄弁りなよ!」
吉田沙保里氏の高速タックルに似た挙動で、皆野は一瞬のうちに漢咲との間合いを詰めた。そうして放たれる渾身の右ストレート。みぞおちに、直撃。
強烈な衝撃は、巨大な砂嵐の呼び水となった。
荒れ狂う鳥取砂丘、その様を日本海上から目撃したイカ釣り船カンダタ丸の船長、神谷明は、当時の惨状を明朝、キー局のニュース番組の取材にて語ることになる。
「まるで大きな遮光カーテンだったね、あれは。鳥取市の街の明かりが丸っきり見えなくなったんだもの。舞う砂塵の量もさ、すごくてさ。沖にまで届いて、甲板砂まみれ。つるつる滑って、危ないのさ。鳥取砂丘の砂、さらさらだからね。うちの若いのなんて、すっころんで海に落ちちまったよ」豪快な笑いをはさむ。「大丈夫、大丈夫。ちゃんと救助したから、ぴんぴんしてるよ。まあ、当時はかなり焦ったがね。なにせ船灯まで砂まみれだったもんでさ。急ピッチで砂を払って、ようやく奴さんの姿を見つけたときには、涙が出ちまったね、おいら。ほれ、日本の漁師なんていうのはさ、絶滅危惧種だろ。レッドリストにもちゃんと載ってるんじゃないかね? そんなんだからさ、若い漁師っていうのはさ、宝なのよ。おいらの、いや、日本の宝。大事にしなくちゃならない。でもね、今の沈没党の政権下じゃね。食料輸入倍増計画だって? この底なしの円安で? 冗談じゃないよ。そりゃあ、燃料は際限なく高騰してるさ。一回漁に出るだけでも破産覚悟さ。だからずっと俺たちは、市場から円を回収してくれって声を上げていたのに、更に日銀が国債を買うって、どうなっとんじゃい? 2022年とかに、日本の食料自給率はカロリーベースで38パーセントだったっけ? そいつが去年の2033年度には9パーセントだ。二桁切った。こんな状況で、今年の通常国会では、漁業中国フル委託関連法が成立してしまった。俺たちを殺したいのか、沈没党は。総理大臣、国滅同義は・・・・・・なに? 政権批判は放送できない? 検閲がある? 馬鹿野郎!お前らマスコミがそんなのだから、沈没党が無限に幅を利かせるんだろうが! おい、ちょっと、カメラマンさん!? カメラを止めるな! カメラを止めるな!」
話は、鳥取砂丘の夜に戻る。強烈な右ストレートに端を発した砂嵐は、数分の後に消滅し、今やもう、皆野と漢咲の姿を隠すものは何もなかった。
皆野は、呆然自失の体で両膝をついていた。漢咲は、みぞおちへの打撃など無かったかのように軽やかな足取りで砂を踏んでいた。
脱ぎ捨てられたスカジャンを拾って、漢咲は皆野のそばに戻った。
「七月とはいえ、夜の砂丘は少し冷える」
差し出されたスカジャンを、皆野は素直に受け取った。
「私の話を、聞いてくれるね」
「約束だ」歯を食いしばりながら、声を出す。「約束だ」
ずっとあった微笑みが、漢咲の顔から消えた。
「来る七月三十一日、衆議院議員総選挙こと夏の公私宴が開会します。君には、鳥取県選挙区代表のメンバーとして出場してもらいたい」
そう言って、地べたに腹ばいになる。土下寝だ。
「この通りです」
『自分よりも遥かに弱い相手に対して、最上級でへりくだっている!』動揺そのままに、心が叫んだ。『俺みたいな中坊でも価値が分かる上等なスーツを砂まみれにして!』
生れて初めての敗北感を、持て余す。
自分らしさを失念して、甘えた声音で、「俺、野球は素人ですよ」と言い、そうして、はっとする。
「野球のルールさえ分かっていれば問題ありませんよ」立ち上がる漢咲。「公私宴において重要なのは、野球の技量ではなく気念の技量ですから」
「出場するとは言っていない」取り戻した反骨心で、突っ張る。「調子に乗るなよ、じじい」
漢咲の顔に微笑みが戻った。
鳥取砂丘の沖合に、ともし火が連なって見える。イカ釣り船の漁り火。二人は、それを見詰めた。
「どうして・・・・・・?」ぼそりと、言う。「俺なんだ?」
「喧嘩無敗の皆野未来。本州の西側では有名人です」
「しかし、あんたには手も足も出なかった」
「君は強い」
「過大評価だろ」
「人を過大に評価すること、過小に評価すること、それらは等しく、人を滅ぼす。私はそんな愚は犯さない。全てありのまま評価する。君は強い。そして、これからもっと強くなる。これは正当な評価です」
取り出した名刺を皆野に差し出す。私物のラインIDが記された名刺だ。
「二日後の午前十時から、長野県上伊那郡辰野町にある公私宴球場にて、開会式が行われます。開会式には参加しなくても構いません。君にお願いしたいのは、開会式終了後の午後二時から行われる高知県選挙区代表との試合への出場です」
ごくごく自然に握手を求められ、反射的に応じてしまう。大きい手、それを握り、強い欲求を覚える。この男に認められたい・・・・・・衝動が余りにも甘美で、驚愕し、皆野は漢咲の手を乱暴に振り払った。
「話を聞いてくれて、ありがとう。私は、君を待っています。それでは、今日のところはこれで、さようなら」
漢咲は南に向かって走り出した。すぐにその姿は砂丘に隠れた。
皆野は、倒れるようにして大の字になった。視界に広がる一面の星空。てんびん座がはっきりと見て取れる。
夜空をまじまじと見るなんて、久しぶりのことだった。
「公私宴」
その声が夜に溶けて、後は静寂だけがあった。
「タイムスリップでもしたんかい、あんちゃん」人相の悪い男がニタニタと笑いながら言った。「気合い、入ってるじゃない」
「ちょっと歩こうな、坊や」厳ついガタイの男が無表情で言った。「俺たちとお話ししような」
深夜の鳥取駅周辺で、絡まれる。しかし、皆野は男たちを相手にしなかった。
「どうしたの? 怖くなっちゃったのかな?」
「タマタマはついてるの? タマタマは」
挑発されてさえ、皆野の歩は止まらなかった。
「腰抜けじゃん!」
嘲笑を背に浴びながら、当てもなく歩く。
「メンツのための戦い。自分の強さを誇示するだけの、愚かしい見栄の張り合い。それが、俺の喧嘩だった」独り言であった。「知らなかった。敗者に対して頭を下げる、そんな人間がいることを、そんな戦いがあることを、知らなかった」
十四歳の夜は無限に自由で、ひどく心細いもの。迷いを抱き、さまよう定め。しかしそれこそが、成長の要。
公園に立ち寄る。自販機でコーラを買う。ベンチに座る。
「あの鉄棒、ガキの頃に逆上がりが出来なくて、何度も何度も挑戦したよな・・・・・・挑戦。そんなもの、逆上がり以来なかったかもしれない」
漢咲の名刺を取り出し、見詰める。
「漢咲、努大」
ハートが、たぎった。初恋の相手よりも神聖な、超えるべき目標。
「漢咲!」
コーラを一息に飲み干し、空き缶を缶用ごみ箱に捨てて、再び街を歩く。足取りは、少しだけ軽くなっていた。
「よう! 未来!」
声をかけられて、振り向いた。駆け寄ってくる私服の大原が見える。
「何かあったのか? 昼間に会ったときよりも・・・・・・」言いかけて、血まみれの左手に気付き、穏やかな表情を一変させる。「その手、どうした!?」
「まだ血が出ていたのか」失念していた負傷箇所を徐に見詰める。「大丈夫だ、問題ない」
「問題がないようには見えない」
「皮が裂けてるだけだ。骨は折れてない」
「止血はしたのか?」
「してない。必要ないよ」
「出血を甘くみるな。俺の車に救急箱がある。そこの駐車場に停まってるから、一緒に行くぞ」
「必要ないって」
「いいから、行くぞ!」
手を引かれ、恥ずかしさに悪態をつくも、皆野は大原から逃げたりしなかった。
コインパーキングに停められたノートから救急箱を引っ張り出す。傷口の汚れを水で洗い落とし、消毒液をかけ、清潔なガーゼと包帯を以てして圧迫止血を試みる。手際が良く、処置は五分もかからずに終わった。
「傷口を心臓より高い位置に上げておけよ」救急箱を仕舞いながら。「止血の基本だ」
皆野は、左手をポケットにつっこんだ。そんな生意気な態度にさえ、大原が不愉快を感じることはなかった。若さ故の過ちというものを、彼は理解していたから。
「家まで送るよ、未来」
「ガキじゃないんだ。一人で帰れる」
「もう夜の零時を回ってる。中学生が一人で出歩くような時間じゃない」
舌打ちをした皆野の背中を大原は笑いながら優しく押し、助手席に乗るよう促した。
車が、走り出す。
手本のような安全運転は、繁華街の道路にあってさえ、広大な農道を進むように穏やかだった。
「これからは、夜は家に居てあげな」赤信号で、ブレーキを踏む。「お母さんに心配をかけないためにも」
「俺と顔を合わさずに済んでいることに、あの人はほっとしているよ」
「君のお母さんが朝早くから夜遅くまで働いているのは、君のことが大切だからだ。大切な子供の顔を見たくない親なんて、いない」
「出産間近の嫁さんをほったらかして、こんな時間にほっつき歩いてる大原さんに、とやかく言われたくないね」
「刑事部のころの同僚と大事な話が合ってね」青信号で、アクセルを踏む。「お義父さんとお義母さんが家に泊まってくれているから、嫁さんも安心だ」
皆野はスマホのゲームをプレイし始めた。しかし、すぐに飽きてしまい、両手を頭の後ろに組んで外をぼんやりと見詰める。
「自分とお母さんのことを大事にしろよ、未来」
「はいはい、分かりましたよ」あくびが出た。「説教はこれくらいにして、ちょっとばかり俺の質問に答えてくれないかい?」
「俺に質問なんて珍しいな。いいぞ、何でも聞いてくれ」
「公私宴について、知りたいんだ」
「政治に興味を持ったのか、未来。そいつは良い心がけだ」
「興味なんかない」声の抑揚が少し乱れる。「まあ、夏だからよ。時事ネタとして、聞いてみただけだ。実際、先月にあった鳥取県選挙区代表を決める投票にも行ってないし」
「分かった。そういうことにしておこう。まあ、理由は何であれ、参政権が十三歳に引き下げられた今、公私宴について知ることは未来にとって有益だ」微笑み、咳ばらいを一つして、語り出す。「時は1945年。翌年に控えた戦後初の衆議院議員総選挙をにらみ、GHQは衆議院議員選挙法を大きく改正した。法改正の目玉は二つ、女性参政権と公私宴法だ。それらを以て、GHQは日本の民主化を推し進めるとともに・・・・・・」
「ちょっと待ってくれ、大原さん」調子の出始めた語りをさえぎる。「歴史なんてどうでもいい。俺は公私宴の仕組みを簡単に知りたいだけなんだ」
「そうなのか。でも、歴史を知ることで見えてくることはたくさんあるんだぞ。特に、公私宴による初の総理大臣、法条守が誕生した経緯なんかは今度の公私宴を考える上でも・・・・・・」
「その話はまた今度、聞かせてくれ」
鳥取城の水堀に月が映っている。それを右手に見ながら、車は進んだ。
「公私宴に出場するのは全49チームだ。四十七都道府県すべてから代表チームが選ばれる。北海道と東京のみ出場枠が二つだ。各都道府県の代表チームとなる政党は、六月の最終日曜日に行われる選挙区別の投票によって決まる。そうして選出された代表チームは、一回戦第一試合が行われる七月三十一日から決勝戦が行われる八月三十日までの約一か月間、現行のMLBとほぼ同じルールによる野球の試合に臨むこととなる。勝ち進むほど衆議院における議席数を多く獲得できるトーナメント、それが夏の公私宴だ」ハンドルを握る力が、強まった。「現在の衆議院の議席数は465。夏の公私宴で優勝したチームが得る議席数は233。すなわち、優勝チームの代表を務めた政党が与党となる。そうして、慣例として、優勝チームのキャプテンは総理大臣になる」
「鳥取県の代表は、慈愛党だったな。出来立てほやほやの弱小政党が、保守王国でよく最多票を得られたものだ」
「慈愛党の党首である漢咲努大さんが鳥取県知事としての四年間でやってくれたことを、俺たち鳥取県民は知っている。市議会も県議会も沈没党の議員だらけでありながら、諦めることなく、身を粉にして俺たちの生活のために働いてくれたことを知っている。完全失業率、開業率ともに過去最悪を更新し続けている日本において、鳥取県のみがこの四年間でそれらの率を改善させた。訪日外国人数および訪日外国人による消費額を全国最多に押し上げた功績も、インバウンドに甘んじる他ない今の日本においては大きい。そうして得た地方税収入は、一円残らず全て、県民が求める行政サービスに還元されている。鳥取県民は馬鹿じゃない。慈愛党は勝つべくして勝ったんだ」
「ずいぶんと買ってるんだな。慈愛党を、漢咲努大を」
「メディア・リテラシーを意識していれば、誰がまともか分かるものさ」
自宅の近くにある雑貨屋を見やる。数年前までは黄ばんでいたシャッターが、今は清潔な銀色だ。記憶にある限りずっとテナントを募集していたビルを見やる。名前も聞いたことのない企業がいつの間にか入居している。雑草が伸び放題でごみだらけだったために、小さいころから敬遠していた公園を見やる。雑草が綺麗に刈られ、ごみ一つ落ちていない、遊具の手入れまで行き届いた公園に生まれ変わっている。
無関心を脱し、周囲を注視してみれば、変化は無数に見つけられた。うんざりしていたはずの街に、皆野は薄らと好感を抱いた。
アパートの前で、車は停まった。「どうも」と言い、皆野は下車した。
「未来」
大原も下車した。そうして、二人は向かい合う。
「君の幸せを願っている人がいることを、忘れるなよ。君は一人じゃない。自分と大切な人たちの未来を良いものに出来るよう、生きなさい」
「今日の説教くささは異常だよ、大原さん」大原に背を向け、手を振る。「それじゃあな」
階段を上がっていく皆野を見詰め、その姿が見えなくなってから、大原は乗車し、緩やかに闇夜へ隠れた。
真っ暗な玄関で靴を脱ぐ。母親の部屋から寝息が聞こえて、忍び足で自室に入る。
皆野は一時間ほど仮眠をとった。
左手の包帯を解く。ほんの僅かな睡眠で、裂傷は完全にふさがっていた。若さの脅威である。
スマホで天気予報を見る。今日も明日も本州全域で晴れ間が広がるとの予報。天気予報を見た後はグーグルマップを使い、自宅から公私宴球場までのルートを検索する。
「中山道を経由して480キロメートル弱の距離か。長野県はもっと遠いと思ってた。これならチャリで余裕の半日コースだな」
夜明けまで寝ていようと再び横になる。しかし、目が冴えてしまって、もう眠れなかった。
二泊三日を想定した着替え等もろもろをショルダーバッグに詰め込む。それから、洗面所に行き、髪型を整えた。ポンパドールがばっちり決まって気合がみなぎる。
旅支度は、すっかり済んだ。そのまま出発しようとしたが、思い直し、メモ帳から一枚を破り取り、「数日戻らないけど心配はいらない」と記して、それを食卓の上に置いた。
外に出る。生暖かくも清々しい空気が肺を満たす。
「今はあんたの望み通り、公私宴とかいう馬鹿騒ぎに付き合ってやるよ」自転車にまたがり、皆野は笑った。「気念の技量が重要とされるトーナメントを勝ち抜くなかで、俺は腕をみがく。そうして、公私宴が終わるまでには必ず、あんたより強くなって、リベンジだ。首を洗って待ってろよ、漢咲!」
東へと、こぎ出す。純粋な魂は、夜のとばりに恐怖ではなく希望を抱き、よどみなく進んだ。
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