00-3  少年と声 その③

 少年、――ヘルメス・トリストメギストぶひぇは部屋の隅で膝を抱えて座り込んでいた。虚ろな目に絶望のかげが浮かぶ。その表情は暗く、明らかに自失していた。


『元気だしてくださいよマスター。いや、ヘルメス・トリストメギストぶひぇ様。クク……ぶひぇって、アハハ』


 “声”が少年を嘲るので少年は耳をふさぐ。しかし頭の中からの声から逃れることは出来ない。


「ちがうんだ! 俺の名はヘルメス・トリストギストスなんだ……」


 少年、――ヘルメス・トリストメギストぶひぇは反駁はんばくした。1度登録した名前は2度と変更できないらしい。つまり、少年は今後“ヘルメス・トリストメギストぶひぇ”として生きていかなくてはならなくて……。 所有者登録の際に名前を噛んでしまったばっかりに……。後悔の念が少年の心に暗い影を落とす。


『落ち込んでいるところ悪いんですが時間は無限にあるわけではありません。次に進みましょう』

「あァ? でも、ま、そうしよう……。過ぎたことを悔やんでもどうしょうもないからな。ダンジョンマスターとやらの力を使いこなせれば、こんな名前の人生も少しは救われるかもしれない」


 そう言うと少年、――ヘルメス・トリストメギストぶひぇはゆっくりと立ち上がった。


「さあ! 次は何をしたらいいんだ!?」


 明らかな空元気だったが、このまま何もしないでいるとどんどん気分が落ち込みそうだった。


『次は、――しもべを生み出してみましょう』

「僕を生み出す!? どういうことだってばよ!?」


 と少年はすっとんきょうな声を挙げた。それは当然の反応と言っても良かった。なんせ少年は自分が置かれている状況はおろか、自分が何者かすらわかっていない。


『はい。それこそがあなた様の、――ダンジョンマスターの真骨頂です。ダンジョンマスターの能力を簡単にご説明いたしますと、大まかには3つ。

 まず①“ダンジョン設備の拡充・拡張”。

 次に②“魔物の生産・強化”。

 最後に③“それらを支配する”能力。

 今回はその②、“魔物の生産”をやってみようというわけです』


 少年の問いに声が答えた。一見、少年と会話をしているようだが、先ほど述べた通りこの部屋には少年しかいない。この声は少年の頭の中だけに聞こえる声なのだ。 声の返答を聞いた少年は「うーん」と呻りながら、しばらく考える素振りを見せる。しばらくそうした後、おもむろに「あのさあ」と口を開いた。


「さっきこの“本”を呼び出したから、なんとなく要領はわかるんだよ。今度は本じゃなくてマモノとやらを呼び出すんだろう?」

『そのとおりです』


  声が即答する。少年は手に持った本の表紙を眺めながら続けた。


「それはわかるんだけどさあ。――なんでマモノなんか呼び出さなきゃいけないんだ? 俺はこの状況、窓もドアもない部屋に閉じ込められた状況をどうにかしたくて、あんたの言うことを素直に聞いていたわけなんだけどさ。マモノを呼び出すことと状況を打破すること。これらに関係があるようには思えないんだよ」

『ふむ……。どうやらあなたは何も分かっていないのですね』


 その通りだった。少年はなにもわかっていない。わかっているのは自分の名前がヘルメス・トリストメギストぶひぇだという残酷な事実だけだ。


『魔物を生み出すことと、状況を打破すること。2つの関係がわからないと言いましたね?』

「言ったね」


 言ったね、という少年の声だけが部屋に響いた。当然である。部屋には少年しかいないのだ。つまり少年は独り言、――否、自分との対話の最中にある。正確には自分の“能力ちから”との対話であるが。


『では、お尋ねします。貴方にとって、状況の打破とは何を指すのです?』

「うーん。とりあえずこの窓もドアもない部屋から脱出することかな? このまま部屋に閉じ込められてたら、飢えるか発狂するかで、死んでしまうだろうし」

『部屋から脱出するのが目的ですか。なるほど。それならば簡単です』

「え?」


 あっけない返答に少年は驚いた。簡単だというならさっさと脱出してしまいたい。だが『しかし』と声は続けた。


『あなたの能力はまだ未熟です。チュートリアルすら終えていない。そんなあなたがこの部屋を出ればどうなるか』

「どうなるんだ?」

『まず死にますね。殺されて死にます』


 少年は絶句した。部屋から出れば死ぬ……。死ぬという言葉の重みが少年から言葉を一時的に奪ったのだ。


『魔物に殺されて死ぬ。冒険者に殺されて死ぬ。自分自身の能力に押しつぶされて死ぬ……。とまあ死因はいろいろですが、確実に死にます。あなたはわかっていない。あなたの命の価値を、――ダンジョンマスターの命というものがどれだけ重いのかがわかっていない。そして、あなたの命が狙われていることをわかっていない』

「な、なに言ってるんだ!? なんで俺が狙われなくちゃいけない?」


 なんとか質問を口にしたものの、激しく動揺しているのがわかった。その証拠に胸が激しく脈打っている。それは呼吸することすら苦しいほどの動悸。


『そう。あなたの命は狙われています。あなたが何をしたわけではない。貴方自身には何の罪もない。しかし、あなたの命は狙われている。騎士団が、冒険者ギルドが、賞金稼ぎが、盗賊が、魔物が……、数多あまたの者達が貴方の命を狙うことになる!』


「うそ……だろ? おれはただのヘルメス・メリストメギストぶひぇだぜ? 自分の名前さえ噛んじまうような、情けない男だ。そんなおれにどんな価値があるっていうんだ?」

『価値、というより“宿命さだめ”です。ダンジョンマスターの真骨頂“ダンジョンマスターは狙われる”。そういう宿命なのです』


 頭の中の声に圧倒され、少年はしばらく何も言えなかった。自分の命が狙われている。理解しがたい話だったし、なにより信じがたい話だった。 しかし、自分自身であるはずの声が嘘をつくとは思えず、やはり事実なのだろうなと、おぼろげながら納得することにした。ならば、一刻も早くマモノとやらを作り出してみようじゃないか。


「部屋の外に出れば殺される、それはわかったよ」


 半ば諦めたように言うと、すぐさま声が『いいえ』と答えた。


『部屋の外……という表現は正確ではありません。“ダンジョン”の外に出れば殺されると言った方が正しい。今現在、貴方がいる部屋。ここが“ダンジョン”です。今はこの部屋しかありませんし、外界とも接続されていませんが、この部屋があなたの能力で作り出した“ダンジョン”そのものなのです』

「この部屋が、俺の“ダンジョン”……!」


 少年は部屋を見渡した。爆発によって炭化し真っ黒に煤けた壁、床、天井。床にはベッドの残骸が転がっていて、それ以外には何もない。ドアもない。窓もない。自分以外の誰もいない。ただ空っぽの空間。これを自分が作ったというのか。

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