②
放課後。
この時期は、生徒会の仕事も少し落ち着いている。次に波が来るのは、夏休み明けだろう。
なにしろ学園祭からの体育祭、そして生徒会選挙とイベントが目白押しだ。
「別に、生徒会役員は成績優秀であるべし、なんてルールはないんだが」
神楽坂会長が、ぐるりと役員一同を見回した。
「赤点補講だけは勘弁してくれよ。一応、生徒の模範ってことになってるからな」
青いメッシュが入ったショートカットを揺らして、腕を組む。
見た目は完全に不良だが、神楽坂会長はすこぶるつきの優等生だ。
噂では、去年受けた模試で東大理三にA判定を出したらしい。
三年生用の模試で、だ。正直、彼女が普通の公立高校に通っている理由は良くわからない。
「ってわけで、今日はここまで。で、明日から試験終了まで生徒会はお休み。残った仕事はアタシが片付けとくから、各自勉学に励んでくれ。別に遊んでもいいけど」
ほらほら出てけ出てけ、と追い出されてしまう。
廊下で他の役員たちと顔を見合わせて、「本当にいいのか?」と確認し合うも、まあ会長が言うならいいか、という方向で落ち着いた。
なんだかんだいって、生徒会一同、会長への信頼は絶大だ。
期末試験前。
といっても、私は試験前に特別な勉強をしない。普段から積み重ねておけばそれで大抵の問題はクリアできるし、そういうやり方しか知らないともいえる。
こうなると行き先はひとつだ。
ローファーの爪先を家庭科室へ向ける。
まだ高い日差しが差し込む廊下で、階段を昇ってきた篠森とかち合った。
じめつく夏の湿気なんて素知らぬ顔で、濡れ羽色の髪がさらりと揺れる。
「あれ、今日はずいぶん早いですね、先輩」
「期末試験前だからね。生徒会も休みなの」
「試験」という単語に、篠森の肩がピクっと震えた。
高校に入って初の期末試験を前に、緊張でもしているのだろうか。
ともあれ、家庭科室に入る。丸椅子にスクールバッグを下ろした私は、さっそく話を切り出した。
「あのさ、篠森。海ってどう思う?」
「海」
「うん、海」
海ですか、と篠森が反復する。
しまった。ちょっと遠回り過ぎたかも。
「この時期なら、岩牡蠣が旬ですね。生もいいですが、炊き込みご飯とか、天ぷらとか。後はアジも夏の魚ですし、カツオもいいですね。たっぷりの茗荷とおろし生姜を掛けて」
案の定、彼女が口にした答えは的を盛大に外れていた。
自分でも、これは妙だと気づいたのだろう。
黒目がちな瞳を私に向けて、小首を傾げる。
「これ、そういう話ですか?」
「ごめん。そうじゃ──ないこともないんだけど。でも違くて。なんていうか、旅行とか、好き?」
「リョコウ……?」
未知の言語で話しかけられた人の反応をしないでほしい。
ひと呼吸置いて、ようやく言葉を咀嚼し終えた彼女が、パッと顔を上げた。
驚きと警戒に、臆病な喜びを混ぜたような表情だ。
「……もしかしてわたし、今、旅行に誘われてます?」
「わかってもらえて嬉しいよ」
私は彼女に事情を伝えた。
椿の祖母が民泊を営んでいること。素泊まりなら無料で宿泊できること。そこは海辺の街で、海水浴ができるビーチこそないけれど、水遊びができる程度の岩場があり、一か所だけ温泉も沸いていること。
ひととおり説明を聞き終えた篠森は、人差し指を顎に押し当てた。
今まで見てきたなかで、一番真剣に考えている。
「……先輩と、海……」
ちょっとヘミングウェイみたいだ。
ややあってから、篠森は顔を上げた。
「すみません。少し考えさせてください」
想定どおりの解答だった。
彼女がふたつ返事で旅行についてくるタイプだとは、私も思っていない。
あるいは、私と二人ならふたつ返事だったかも──と考えるのは、いささか自意識過剰というか、自惚れだろうか。
「オッケ。あと日程なんだけど、椿の部活と私の生徒会が両方空いてるの、ここしかなくて……大丈夫?」
「こ、この日ですか」
スマホのカレンダーで候補日を示すと、なぜか篠森の顔色が変わった。
「あれ、なにか予定ある?」
「……その。これから入る可能性が、なきにしもあらずというか」
「?」
視線で尋ねると、観念したように篠森が言った。
「その日って、赤点補講と被ってますよね」
「うん。……え。篠森、まさか」
「…………。」
白皙の頬を汗が伝う。
海浜の校則はかなり緩い。その代わりというわけではないが、成果主義というか、成績が落ちた場合はしかるべきペナルティがある。
具体的には、補講だ。
「まじ?」
「古文が、ちょっと」
「ちょっとって、どのくらいちょっと?」
ぼそぼそと告げられた中間試験の点数を聞いて、私は思わず額に手を当てた。
「それは、だいぶ大きめの『ちょっと』だね……」
「総合点なら平均値なんです。ただ、古文だけはどうしても苦手で」
困った。ここまで来て、赤点で参加できないというのは寂しい。
幸い、試験まではあと一週間ある。他の科目も含めて、しっかり勉強すればどうにでもなるはずだ。
そのためには──
「篠森。明日から期末試験終わるまで、料理禁止ね」
「え⁉︎」
「当たり前でしょ。学生の本分は勉強だし」
赤点の罰は、強制的な補講参加だけじゃない。
あまりにひどい場合、部活動や同好会への参加を禁止されることもある。
篠森が家庭科室の設備を自由に使用できるのは、同好会活動という大義名分があるからだ。
私の食生活と、なにより篠森自身のために、活動禁止はどうにか避けたい。是が非でも、赤点を回避してもらわねば。
「その分、勉強に集中すること。わかった?」
「でもそれじゃ、先輩のご飯が」
「一週間くらい、コンビニでベースブレッドでも買って食べるよ。とにかく今は試験。勉強、教えてあげるから」
「先輩がですか? でも、二年生だって試験ですよね」
「大丈夫。私、普段から勉強してるから。試験勉強とかあんまりしない」
真昼に幽霊でも見つけたみたいに、篠森が目を見開いた。そんなに驚くことか?
翌日から試験勉強が始まった。
料理と違って勉強は場所を問わないけど、なんとなく家庭科室に集まってすることになる。
ここなら集中できるし、声を出しても問題ない。
範囲に合わせた質問をしながら、篠森の現状を把握していく。
自己申告のとおり、古文が赤信号。他にも数学、歴史系が黄色。逆に、英語の成績はどれもかなり良い。
理由を尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「将来、海外旅行したいんです。とりあえず英語が話せれば、どこへでも行けるかなと」
「行ってみたい国とかあるの?」
「さしあたり、台湾ですかね。本場のフォーティャオチァンを食べてみたいです」
「なんて?」
「フォーティャオチァン」
「なにそれ」
「台湾の高級スープです。佛跳牆。修行中の僧侶も塀を飛び越えて食べにくる、という」
味云々以前に、えらく身軽なお坊さんである。
「あとは、本場の小籠包とか
「あー、いいね」
それならわかる。あつあつのスープが入った小籠包と、トロトロに煮込まれた豚肉が載った魯肉飯。煮卵が載っていると更に嬉しい。
「それから
また知らない単語が出てきた。シュエファ……なに?
「雪花冰は、平たくいうと甘い牛乳で作るかき氷ですね」
かき氷!
趣深い単語に、さきほど朗読した枕草子の一節が脳裏をよぎる。
「あてなるものだ」
「……なんて言いました?」
「あてなるもの。高貴なもの。上品なもの、だよ」
そんなの出題範囲にありましたっけ、と篠森が教科書をめくる。多分、一年生の範囲には存在しない言葉だろう。
かき氷食べたいですね、と篠森が呟く。
人形みたいな外見をしている彼女も当たり前だけど人間で、夏服のブラウスは、肩の辺りがぺたりと肌に張り付いている。
ほんの微かに、淡い水色のブラ紐が透けていて、私はつつましく視線を逸らした。
†
数日間、勉強を見ていてわかったこと。
篠森は物覚えが悪いほうじゃない。理解も早いし、応用もできる。
単純に、科目に対する興味の差が点数に反映しやすいタイプなのだろう。つまり、古文には全く興味が無いということだ。
平安時代の料理帖でもあれば、途端に学習意欲を発揮するかもしれない。
もちろんそんなものは手元にないし、あっても試験範囲とは関係ないから役には立たない。
数日の勉強会で、どの科目も「まあいけるんじゃない?」くらいの水準になる。
最後に点が取れそうなポイントを伝授して、勉強会は終わった。
ちなみにその間、私はずっとコンビニ飯だった。
久々だし、万人向けの濃い味付けをしているはずなのに、なんだかひどく味気なかった。
三日間かけた期末試験が終わる。
試験の最終日、約束どおり家庭科室へやってきた篠森は、なんというか「ふんす」って感じの顔をしていた。足取りに、大地を踏みしめるような力強さがある。
回答の返却は来週だけど、手ごたえのほうはその表情でおおよそ察することができた。
「良い感じ?」
「はい。かなり」
見るからにやり切った顔だ。これなら多分、心配はいらないだろう。
「ありがとうございました。先輩のお陰です」
嬉しくなるようなことを言う。
ちょいちょい、と指を動かす。猫じゃらしを見つけた猫みたいに、無警戒な足取りで篠森がやってくる。
充分に距離が縮まってから、手を伸ばして頭を撫でた。
「お疲れさま。頑張ったね」
さらさらの髪が、指の表面を滑る。
篠森は、自分が何をされているのか曖昧な感じの表情で、ぽやんと私を見上げた。
手触りがいいのでそのまま撫でくり回していると、「あ、暑苦しか!」と払い除けられた。
ちょっと痛い。
私は調理台の下に屈み込んで、隠していた箱を取り出した。
「頑張った篠森にいいものがあります」
箱にプリントされた写真を見て、篠森が目を丸くする。
「かき氷機じゃないですか」
「そう。去年の学園祭でどこかのクラスが買って、そのまま寄付してくれたやつ」
引き取り手がいないので、備品倉庫に仕舞われていたものだ。以前、整理の仕事をしていたときに見かけて、なんとなく覚えていた。
「それがご褒美ですか?」
「違います。これはただの機材でしょ。ご褒美はこれから作るんだよ。ちなみに、ちゃんと氷も準備済み」
「先輩が?」
「そうだよ」
「先輩、氷の作り方知ってたんですか?」
「馬鹿にしてるでしょ」
「すみませんちょっとだけ」
見てなよ、と業務用冷蔵庫に近づく。
製氷コーナーの扉を開けて、製氷皿を取り出した。
昼休みにこっそりやってきた私が作ったのは、透明な氷ではなく、薄クリーム色をした白い氷。
牛乳に練乳を混ぜた、ミルク氷だ。
篠森が呆然として言う。
「それ、雪花冰」
「うん。篠森の話を聞いて、食べたくなっちゃったから」
一旦製氷皿を冷蔵庫に戻して、かき氷機を丹念に洗う。一度使われたきりなので、ほとんど新品同然だ。
あらためて取り出した製氷皿を、グッと左右に捻る。ぱき、と氷が皿から離れた。
水より不純物が多いせいか、なんとなく音も感触も柔らかい。
かき氷機の蓋を開けて、ミルク氷を落とす。
心得たもので、篠森はもう小皿とスプーンを持ってきている。
ハンドルを掴んで、ゆっくりと回す。
しゃりしゃりと氷のほどける音がする。
削られて落ちるミルク氷は、さながら夏に降る雪だ。
皿に積もっていく白と、私の顔を交互に見つめて、「あてなるもの、ですね」と篠森が薄く笑った。
どこか遠くで、吹奏楽部が奏でるトランペットの音がする。
ことり、と硝子を床に置くような声がした。
「──海、行きたいです。先輩となら」
降り積もった雪花冰が、かさりと溶けて崩れた。
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