放課後。

 この時期は、生徒会の仕事も少し落ち着いている。次に波が来るのは、夏休み明けだろう。

 なにしろ学園祭からの体育祭、そして生徒会選挙とイベントが目白押しだ。


「別に、生徒会役員は成績優秀であるべし、なんてルールはないんだが」


 神楽坂会長が、ぐるりと役員一同を見回した。


「赤点補講だけは勘弁してくれよ。一応、生徒の模範ってことになってるからな」


 青いメッシュが入ったショートカットを揺らして、腕を組む。

 見た目は完全に不良だが、神楽坂会長はすこぶるつきの優等生だ。

 噂では、去年受けた模試で東大理三にA判定を出したらしい。

 三年生用の模試で、だ。正直、彼女が普通の公立高校に通っている理由は良くわからない。


「ってわけで、今日はここまで。で、明日から試験終了まで生徒会はお休み。残った仕事はアタシが片付けとくから、各自勉学に励んでくれ。別に遊んでもいいけど」


 ほらほら出てけ出てけ、と追い出されてしまう。

 廊下で他の役員たちと顔を見合わせて、「本当にいいのか?」と確認し合うも、まあ会長が言うならいいか、という方向で落ち着いた。

 なんだかんだいって、生徒会一同、会長への信頼は絶大だ。

 期末試験前。

 といっても、私は試験前に特別な勉強をしない。普段から積み重ねておけばそれで大抵の問題はクリアできるし、そういうやり方しか知らないともいえる。

 こうなると行き先はひとつだ。

 ローファーの爪先を家庭科室へ向ける。

 まだ高い日差しが差し込む廊下で、階段を昇ってきた篠森とかち合った。

 じめつく夏の湿気なんて素知らぬ顔で、濡れ羽色の髪がさらりと揺れる。


「あれ、今日はずいぶん早いですね、先輩」


「期末試験前だからね。生徒会も休みなの」


「試験」という単語に、篠森の肩がピクっと震えた。

 高校に入って初の期末試験を前に、緊張でもしているのだろうか。

 ともあれ、家庭科室に入る。丸椅子にスクールバッグを下ろした私は、さっそく話を切り出した。


「あのさ、篠森。海ってどう思う?」


「海」


「うん、海」


 海ですか、と篠森が反復する。

 しまった。ちょっと遠回り過ぎたかも。


「この時期なら、岩牡蠣が旬ですね。生もいいですが、炊き込みご飯とか、天ぷらとか。後はアジも夏の魚ですし、カツオもいいですね。たっぷりの茗荷とおろし生姜を掛けて」


 案の定、彼女が口にした答えは的を盛大に外れていた。

 自分でも、これは妙だと気づいたのだろう。

 黒目がちな瞳を私に向けて、小首を傾げる。


「これ、そういう話ですか?」


「ごめん。そうじゃ──ないこともないんだけど。でも違くて。なんていうか、旅行とか、好き?」


「リョコウ……?」


 未知の言語で話しかけられた人の反応をしないでほしい。

 ひと呼吸置いて、ようやく言葉を咀嚼し終えた彼女が、パッと顔を上げた。

 驚きと警戒に、臆病な喜びを混ぜたような表情だ。


「……もしかしてわたし、今、旅行に誘われてます?」


「わかってもらえて嬉しいよ」


 私は彼女に事情を伝えた。

 椿の祖母が民泊を営んでいること。素泊まりなら無料で宿泊できること。そこは海辺の街で、海水浴ができるビーチこそないけれど、水遊びができる程度の岩場があり、一か所だけ温泉も沸いていること。

 ひととおり説明を聞き終えた篠森は、人差し指を顎に押し当てた。

 今まで見てきたなかで、一番真剣に考えている。


「……先輩と、海……」


 ちょっとヘミングウェイみたいだ。

 ややあってから、篠森は顔を上げた。


「すみません。少し考えさせてください」


 想定どおりの解答だった。

 彼女がふたつ返事で旅行についてくるタイプだとは、私も思っていない。

 あるいは、私と二人ならふたつ返事だったかも──と考えるのは、いささか自意識過剰というか、自惚れだろうか。


「オッケ。あと日程なんだけど、椿の部活と私の生徒会が両方空いてるの、ここしかなくて……大丈夫?」


「こ、この日ですか」


 スマホのカレンダーで候補日を示すと、なぜか篠森の顔色が変わった。


「あれ、なにか予定ある?」


「……その。これから入る可能性が、なきにしもあらずというか」


「?」


 視線で尋ねると、観念したように篠森が言った。


「その日って、赤点補講と被ってますよね」


「うん。……え。篠森、まさか」


「…………。」


 白皙の頬を汗が伝う。

 海浜の校則はかなり緩い。その代わりというわけではないが、成果主義というか、成績が落ちた場合はしかるべきペナルティがある。

 具体的には、補講だ。


「まじ?」


「古文が、ちょっと」


「ちょっとって、どのくらいちょっと?」


 ぼそぼそと告げられた中間試験の点数を聞いて、私は思わず額に手を当てた。


「それは、だいぶ大きめの『ちょっと』だね……」


「総合点なら平均値なんです。ただ、古文だけはどうしても苦手で」


 困った。ここまで来て、赤点で参加できないというのは寂しい。

 幸い、試験まではあと一週間ある。他の科目も含めて、しっかり勉強すればどうにでもなるはずだ。

 そのためには──


「篠森。明日から期末試験終わるまで、料理禁止ね」


「え⁉︎」


「当たり前でしょ。学生の本分は勉強だし」


 赤点の罰は、強制的な補講参加だけじゃない。

 あまりにひどい場合、部活動や同好会への参加を禁止されることもある。

 篠森が家庭科室の設備を自由に使用できるのは、同好会活動という大義名分があるからだ。

 私の食生活と、なにより篠森自身のために、活動禁止はどうにか避けたい。是が非でも、赤点を回避してもらわねば。


「その分、勉強に集中すること。わかった?」


「でもそれじゃ、先輩のご飯が」


「一週間くらい、コンビニでベースブレッドでも買って食べるよ。とにかく今は試験。勉強、教えてあげるから」


「先輩がですか? でも、二年生だって試験ですよね」


「大丈夫。私、普段から勉強してるから。試験勉強とかあんまりしない」


 真昼に幽霊でも見つけたみたいに、篠森が目を見開いた。そんなに驚くことか?


 翌日から試験勉強が始まった。

 料理と違って勉強は場所を問わないけど、なんとなく家庭科室に集まってすることになる。

 ここなら集中できるし、声を出しても問題ない。

 範囲に合わせた質問をしながら、篠森の現状を把握していく。

 自己申告のとおり、古文が赤信号。他にも数学、歴史系が黄色。逆に、英語の成績はどれもかなり良い。

 理由を尋ねると、意外な答えが返ってきた。


「将来、海外旅行したいんです。とりあえず英語が話せれば、どこへでも行けるかなと」


「行ってみたい国とかあるの?」


「さしあたり、台湾ですかね。本場のフォーティャオチァンを食べてみたいです」


「なんて?」


「フォーティャオチァン」


「なにそれ」


「台湾の高級スープです。佛跳牆。修行中の僧侶も塀を飛び越えて食べにくる、という」


 味云々以前に、えらく身軽なお坊さんである。


「あとは、本場の小籠包とか魯肉飯ルーローハンとか」


「あー、いいね」


 それならわかる。あつあつのスープが入った小籠包と、トロトロに煮込まれた豚肉が載った魯肉飯。煮卵が載っていると更に嬉しい。


「それから雪花冰シュエファービンとか」


 また知らない単語が出てきた。シュエファ……なに?


「雪花冰は、平たくいうと甘い牛乳で作るかき氷ですね」


 かき氷! 

 趣深い単語に、さきほど朗読した枕草子の一節が脳裏をよぎる。


「あてなるものだ」


「……なんて言いました?」


「あてなるもの。高貴なもの。上品なもの、だよ」


 そんなの出題範囲にありましたっけ、と篠森が教科書をめくる。多分、一年生の範囲には存在しない言葉だろう。

 かき氷食べたいですね、と篠森が呟く。

 人形みたいな外見をしている彼女も当たり前だけど人間で、夏服のブラウスは、肩の辺りがぺたりと肌に張り付いている。

 ほんの微かに、淡い水色のブラ紐が透けていて、私はつつましく視線を逸らした。

 

  †


 数日間、勉強を見ていてわかったこと。

 篠森は物覚えが悪いほうじゃない。理解も早いし、応用もできる。

 単純に、科目に対する興味の差が点数に反映しやすいタイプなのだろう。つまり、古文には全く興味が無いということだ。

 平安時代の料理帖でもあれば、途端に学習意欲を発揮するかもしれない。

 もちろんそんなものは手元にないし、あっても試験範囲とは関係ないから役には立たない。

 数日の勉強会で、どの科目も「まあいけるんじゃない?」くらいの水準になる。

 最後に点が取れそうなポイントを伝授して、勉強会は終わった。

 ちなみにその間、私はずっとコンビニ飯だった。

 久々だし、万人向けの濃い味付けをしているはずなのに、なんだかひどく味気なかった。


 三日間かけた期末試験が終わる。

 試験の最終日、約束どおり家庭科室へやってきた篠森は、なんというか「ふんす」って感じの顔をしていた。足取りに、大地を踏みしめるような力強さがある。

 回答の返却は来週だけど、手ごたえのほうはその表情でおおよそ察することができた。


「良い感じ?」


「はい。かなり」


 見るからにやり切った顔だ。これなら多分、心配はいらないだろう。


「ありがとうございました。先輩のお陰です」


 嬉しくなるようなことを言う。

 ちょいちょい、と指を動かす。猫じゃらしを見つけた猫みたいに、無警戒な足取りで篠森がやってくる。

 充分に距離が縮まってから、手を伸ばして頭を撫でた。


「お疲れさま。頑張ったね」


 さらさらの髪が、指の表面を滑る。

 篠森は、自分が何をされているのか曖昧な感じの表情で、ぽやんと私を見上げた。

 手触りがいいのでそのまま撫でくり回していると、「あ、暑苦しか!」と払い除けられた。

 ちょっと痛い。

 私は調理台の下に屈み込んで、隠していた箱を取り出した。


「頑張った篠森にいいものがあります」


 箱にプリントされた写真を見て、篠森が目を丸くする。


「かき氷機じゃないですか」


「そう。去年の学園祭でどこかのクラスが買って、そのまま寄付してくれたやつ」


 引き取り手がいないので、備品倉庫に仕舞われていたものだ。以前、整理の仕事をしていたときに見かけて、なんとなく覚えていた。


「それがご褒美ですか?」


「違います。これはただの機材でしょ。ご褒美はこれから作るんだよ。ちなみに、ちゃんと氷も準備済み」


「先輩が?」


「そうだよ」


「先輩、氷の作り方知ってたんですか?」


「馬鹿にしてるでしょ」


「すみませんちょっとだけ」


 見てなよ、と業務用冷蔵庫に近づく。

 製氷コーナーの扉を開けて、製氷皿を取り出した。

 昼休みにこっそりやってきた私が作ったのは、透明な氷ではなく、薄クリーム色をした白い氷。

 牛乳に練乳を混ぜた、ミルク氷だ。

 篠森が呆然として言う。


「それ、雪花冰」


「うん。篠森の話を聞いて、食べたくなっちゃったから」


 一旦製氷皿を冷蔵庫に戻して、かき氷機を丹念に洗う。一度使われたきりなので、ほとんど新品同然だ。

 あらためて取り出した製氷皿を、グッと左右に捻る。ぱき、と氷が皿から離れた。

 水より不純物が多いせいか、なんとなく音も感触も柔らかい。

 かき氷機の蓋を開けて、ミルク氷を落とす。

 心得たもので、篠森はもう小皿とスプーンを持ってきている。

 ハンドルを掴んで、ゆっくりと回す。

 しゃりしゃりと氷のほどける音がする。

 削られて落ちるミルク氷は、さながら夏に降る雪だ。

 皿に積もっていく白と、私の顔を交互に見つめて、「あてなるもの、ですね」と篠森が薄く笑った。

 どこか遠くで、吹奏楽部が奏でるトランペットの音がする。

 ことり、と硝子を床に置くような声がした。


「──海、行きたいです。先輩となら」


 降り積もった雪花冰が、かさりと溶けて崩れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る