第19話

 翌日。目が覚めるとすぐに起き上がり、部屋のカーテンを開けた。朝日を顔から浴びて、目に光が入ると徐々に眠気が消えていく。それから廊下に出る。


 一階のキッチンに行くと、冷蔵庫を開いて、牛乳を取り出した。食器棚からコップを取り出して、一杯の牛乳を飲み干す。そこで「早いね」と後ろから声を掛けられた。


「おはよう、お母さん」


「もう行くの?」母はトーストと味噌汁というなんとも不釣り合いな朝食を済ませながら、仕事に行く準備をしていた。


「うん。今日、大学祭があるから」


「うそ。お母さん聞いてないけど」母はトーストを取り落とした。「えーなんで教えてくれなかったの」


「だって、恥ずかしいし」

日葵は友人たちといるところを見られたくない性格だった。別に恥じるところなど何もないが、なんとなく恥ずかしかったのだ。そのため真田くんと付き合っていることも隠していたし、サークルでどういう活動をしているのかも、あまり話していなかった。


「あーあ。まだ反抗期やってるんだ」母は冗談めかして言う。日葵はいちいち取り合わない。


 母は朝食を平らげると、シンクに食器を持っていき、軽く洗った。洗面所に行って、忙しなく化粧などの準備をしていた。


 日葵も朝食にしようとトーストを焼いて、昨夜の残りである味噌汁を温め直す。そこで母が戻ってきて、荷物を整えた。


「じゃあ、先に行くから。日葵も気を付けてね」日葵は頷いて、「いってらっしゃい」と返す。


 急いで朝の支度を済ませる。トーストを一口で平らげ、味噌汁を一気飲みする。そこで一度、テレビを付ける。朝の情報番組が流れていて、「今日はおおむね晴れ間が見えそうで──」と聞こえたので、すぐに電源を消した。晴れるならどうでもよかった。


 食器を片付けると、洗面所に向かう。電動歯ブラシを使って歯を磨き、顔を洗って化粧を済ます。二階に戻って部屋に入り、着替えと荷物の整理を終える。ふたたび一階に降りると、忘れ物がないか確認。玄関でスニーカーを履いて、家を出て鍵を掛ける。いつになく慌ただしく動いた。



 満員電車に一時間ほど揺られた後、大学に到着する。日葵は一直線に部室に向かう。


 ドアを開いて中を見ると、既に隆介と音々が来ていた。


「おはよ」


 彼らはばらばらに挨拶を返して、今日の段取りを確認する。日葵は受付をするので、アンケート用紙をあらかじめ用意しておく。隆介は監督として簡単な挨拶ができるよう、台本を書いている。音々はチラシ配りが主な仕事だが、脚本も務めているということで、隆介の補佐もしている。


 そうした仕事をこなしていき、三〇分が経った頃。ドアが開いて文也が入ってきた。眠そうに目を擦りながら、「ぎぇ」と鹿のように裏返った声を発した。何を言おうとしたかわからず、四人は笑う。


 文也もお茶を飲んだりして落ち着くと、早速仕事に取り掛かった。彼はふと呟く。「真田くんはまだ来てないんだな」


「まあ、いつものことでしょ」隆介は慣れたように返す。


 真田くんは朝にめっぽう弱く、いつも目が覚めるのは一〇時を超えてからだった。だから基本的に一限は取っていない。長く寝ていたいからとのことだった。だらだらと起き上がれるのは羨ましいものの、今日のように忙しい日は困る。いまは九時。大学祭が始まるのは九時半からだから、彼はもう間に合わなそうだ。


「こういうことがあるからチラシ配りなんだよね」と音々はぼやいた。チラシ配りは最悪一人でもできるし、いなくても上映はできる。だから、朝いないことが多い真田くんはチラシ配りに充てられた。しかし一人もいないと、それはそれで観客が集まらない。そこにきっちりした性格の音々がもう一人に入ることで、真田くんが来るまでのサポート役に回る。いざ彼が現れれば、人一倍活躍する。音々の仕事はそれまでの繋ぎだった。


 そうこうしているうちに、四人は一通り準備を終えた。


「よし、持ち場に着こうか」と隆介が言うと、彼らはそれぞれ講義室に向かったり、チラシを持って外に出たりした。


 九時半になり、敷地内にチャイムが鳴った。「これより大学祭が開──」という誰かの声が響く。


 三〇四の前で受付の席に座っていた日葵は、腰を浮かせ、観客を迎える準備をする。この日に備えて、チラシ作成だけでなくSNSの運用もしていた。毎日一回、「来る我が大学の大学祭にて、今年も創作研究会は映画を上映いたします。その名も『密室の罠』です! しかもこの作品は、前代未聞のAIによる脚本! ぜひみなさん観に来てください!」と投稿していた。キャッチーな宣伝のお陰か、回数を重ねるうちにどんどん注目度が上がっていった。最終的にはいいねの数も五〇個ほど付いていたから、最低でもそれくらいの人数は期待できそうだ。


 日葵は当然、昨日の出来事も頭の中に刻んでいた。「今日は大学祭が終わったら、必ず幸広に謝罪する」そう心に決めて、今日という日を乗り切ろうと思った。


 そのお陰もあり、いままでと違って、清々しい気持ちでいた。音々や隆介と文也によって真相が明かされるまで、ずっと胸騒ぎがしたままだった。真田くんと自分はなぜ距離を置くことになったのか。そのことばかり頭をよぎって、勉強にも身が入らなかった。


 だが、いまは違う。昨日、日葵がようやく気付けた真実によって、すべて自分が悪かったことが判明した。それからの日葵は、ようやく元の自分に戻ることができた。省みるべきことを自覚し、改善するための道筋が判明したいま、怖いものはなかった。いまなら、真田くんとふたたび恋人に戻れる。


 いずれにせよ、大学祭は進む。


 日葵は文也と並んで座り、受付として仕事を始める。「こちらで映画の上映をします」とか「ぜひいらしてください」とか、できる限り声を上げて呼び込む。こういう人前で声を上げるのが苦手そうな文也も、このときは目一杯頑張っていた。


 そのお陰か、三人組の男性が集まってきた。グループで行動しているようで、先頭の男性が「ここで映画やるんですか」と尋ねてくる。


 日葵は快く「こちらで一〇時から上映いたします」と言って案内した。


 それからもチラシを持った人や、スマートフォンを見ながら歩いてくる人たちが、講義室の前に集まってくる。初回の時点で既に三〇人ほどが座席に着いていた。彼らは宣伝を聞き付けてやって来たのだろう。日葵の努力が功を奏した瞬間だった。


 客の出入りが落ち着いてきたところで、日葵は呟く。「結構集まるね」


「本当。意外に集まってる」文也は疲れた様子だった。


「どんな反応になるんだろ。楽しみだね」


「緊張する」


 それから間もなく一〇時になり、上映開始時刻となった。日葵は立ち上がり、ライトを消す役割のため講義室に入った。


 教壇に立つ隆介は、マイクを持って、話し始める。「これから、私たち創作研究会が作りました『密室の罠』という映画を上映いたします。こちらは私、法学部三年の濱口隆介が監督を務めまして、脚本は文学部三年の鈴村音々が書いております。みなさまもあらかじめご承知だとは思いますが、こちらの脚本は鈴村さんがAIに指示を出して、脚本を作成したものとなっております。もちろん、AIだけにすべての台詞や情景などを書かせることは難しいですし、私が知らない間に先行作を盗作していたことが発覚しては大問題になりますので、多少の修正はしております。そこはご了承ください。私、腐っても法学部ですので、その辺きっちりしておきたい立場なのです」


 隆介の冗談に会場から笑いが起きた。彼は続ける。


「ですが、ストーリーの骨組みはすべてAIが担っております。登場人物の役割やトリックなどはAIが作りました。ですから、いまの時代、AIはこんな映画が作れるんだと、みなさんには多少の贔屓目になってからご鑑賞いただけると、より楽しめると思います。では、お楽しみください」


 彼はマイクを置くと、日葵に目を向ける。その合図に頷いて、天井のライトを消した。


 隆介は映画の再生ボタンをクリックする。映画が、創作研究会以外の人たちの目にも入り始めた。


 上映中も受付で列の整理を続ける。五人の男女が既に並んでいて、日葵は手応えを感じていた。想像以上に宣伝がうまく行っていたようだ。


 そんなとき、ポケットが揺れた。おもむろにスマートフォンを取り出すと、音々からの電話だった。「はい」と言って出る。


「もしもし日葵? いま大丈夫?」


「うん。こっちは思ったより盛況してる。これも音々のお陰かなー」


「あーほんと。それはよかった。わたし結構頑張ってるんだからね。一人で道行く人にたくさんチラシ配ってるんだから。でも、無視されると相当傷付くね。ティッシュ配りのお兄さんの気持ちがわかった」


「それはお疲れ様。ところでどうしたの? 電話なんて掛けてきて」


「ああうん。実はまだ真田くんが来てないみたいなんだけど、そっちにいない?」


「いやあ、来ていないけど」日葵は左右に首を回して、廊下全体を見渡す。が、真田くんの姿はない。一度スマートフォンを伏せて、文也の肩を叩く。「幸広から連絡来てない?」


「ん? ないけど。あいつまだ来てないの」


「みたい」と肯定して、音々にも「来てないらしい」と伝える。


 いまの時刻は一〇時半。大学祭が始まって一時間が経っている。真田くんは朝が弱いとはいえ、ずいぶん遅いように感じる。何かあったのだろうか。日葵は不安になる。嫌な予感がして、冷たい何かが背中から駆け上がって来るように感じた。


「ちょっと心配だから電話してみる」と日葵は答える。よろしくねと音々は返して、電話を切る。


 日葵はメッセージアプリを開いて、真田くんの連絡先をタップする。通話ボタンを押して、スピーカーを耳に当てた。


 しばらく呼び出し音が鳴る。何度も繰り返し鳴る音の時間が、なんだか途方もないもののように感じて、日葵は焦り始める。冷や汗が顔を滴って、寒気を感じた。そして電話が繋がった。しかしそれは期待したものと違って、女性の声だった。


「百瀬さん?」という知らない人の声が聞こえて、日葵は慌てる。思わず隣を向いて、文也を縋るように見つめる。「どうした?」と彼は何がなんだかわからず困惑するだけだ。


 日葵はこちらから掛けたというのに、思わず「どちら様ですか」と聞いてしまう。


 先方は日葵の言葉を躱して、「もしかして、幸広の友達ですか?」と聞いてくる。日葵は、はいと答える。先方は「実は」と前置きした上で、状況を語り始める。


 初め日葵ははいと受け答えができていた。「幸広が実は」と先方が言って、日葵は「はい」と答える。しかし、「頭を強く打って」と話が進んでいくにつれて、返す言葉はどんどん小さくなっていく。「意識が戻らないかもしれない」との話が出てからは、震える声しか出せなくなった。事の次第を頭で理解しようにも、脳が働くのをやめてしまい、混沌とした嵐が巻き起こる。手から力が抜けて、スマートフォンが右手を滑り落ちる。床に鈍い音が響いて、スクリーンのガラスが飛び散った。それを隣で見ていた文也は急いで屈んで、スマートフォンを取ってくれる。「どうしたの急に」と目を大きく開いて、日葵の突然の変容に驚愕している。日葵は「ああ」と暗い声を漏らし、彼と同じ高さまで屈んで、スマートフォンを受け取る。しかし頭がくらくらしてしまい、崩れ落ちた。日葵は顔を両手で覆って、静かに泣き始める。文也が「誰からの電話?」と問い質す。日葵は「幸広が、だめかもしれない」と掠れた声で答える。


 真田くんが交通事故に遭ったとの一報が入ったのは、この時だった。

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