マイナス三話 Origin-愛内深冬「みふゆ・いん・わんだーらんど」

 ―――人が、怖かった。

 自分以外の人なんて、何を考えているかわからない。ほとんどの人は怒っているように見えるし、わたしのことを見るときは怪訝な目をしているように見える。

 心の弱いわたしにとって、他人という存在そのものが恐怖でしかなかった。

 でも、だからこそ、わたしは、変わらなきゃいけないから―――


 まだ残暑の強い九月、二学期のはじめ。愛内深冬は一人で帰路を歩いていた。その顔は浮かなく、足取りは重い。それも彼女にとって珍しいことではないのだが。

 授業で、発表があった。ただそれだけのことだった。しかし、席を立ちクラスメイトの前に出た時には、心拍数が普段の何倍にもなり、めまいがして過呼吸になっていた。それでも、なんとか発表を終えて席に着いたところまでは覚えている。

 一見すれば失敗に見える経験だが、普段の彼女を知る者からすれば今日は大きな進歩と言える日だった。これまでの深冬であれば、途中で泣き出したり体調を崩したりして中断になることがほとんどであり、最後まで一人で話せたというだけでも快挙と言っていい。大きな拍手ももらい、それに驚いて腰を抜かすこともなかった。

 そんな自分にとっては大成功と言える日でも、深冬の顔は浮かないままだ。

「愛内さん」

「ひっ!? あ、ぁう……ま、待っ、て、くだ……」

 後ろから声をかけられ、思わず息ができなくなる。大慌てで鞄から……イルカのパペットを取り出し、左手にはめて顔の前に出した。

「『やぁ、ごめんね。どうしたの?』」

「今日の発表、良かったよ。一人で最後まで話せたの、初めてじゃない? 慣れてきたみたいで安心したよー」

「『うんうん。深冬も頑張ったみたいだし、伝わって何よりだよ。ね?』」

 パペットの動作に合わせて、必死で頷く。声をかけてきたクラスメイトは、それを見て口角を緩めた。

「少しずつ話せるようになるといいね。じゃ、また明日」

「『うん! また』……あした……」

 去っていく背中を眺めながら、おもむろに左手を下ろす。それから唇を引き締め、パペットを鞄に入れると早足で歩き出した。

 家の玄関扉を開け、閉まると同時に背中を預けてうずくまる。そして、抑えていた涙が溢れ出してきてしまった。

「うぅ……う……」

 ―――なにが良かったの。どこが頑張ったの。わたしは、普通に話せてないのに。



 数十分後、着替えた深冬は母の千秋に事の顛末を話していた。

「そっか。前に進めてすごいね、深冬は」

「……でも、普通には喋れない。わたし、やっぱりダメな子なんだ」

 間食のプリンを食べながら涙ぐむ深冬の背を、千秋が撫でる。

「いいんだよ、ゆっくりで」

「……わたしは、ゆっくりはやだ。すぐ直したい」

 十二年間、ずっと。家族以外の人と話すことができない。それが、愛内深冬の抱えた悩みだった。

 人の前に立つと、呼吸が思うようにできなくなる。心臓の鼓動がうるさく、考えることもままならなくなってしまうのだ。

 一応、解決策がまったくない訳ではない。

「クーちゃんにも……迷惑、かけたく……ない」

 唯一の”友達”であるイルカのパペット、クーちゃんに代わりに喋ってもらう。腹話術の形であれば、深冬も問題なく話せるのだ。

 しかしそれも、深冬にとっては周囲のように「普通に話す」こととは程遠い。

「……なにか、いい荒療治、ないかな」

「んー……無理して直すのは良くないと思うな」

 幾度となく交わした内容の会話。深冬は紅茶を喉に流し込むと、鞄を掴んで小走りで部屋に向かう。

 その背中を見つめながら、千秋はぽつりと呟いた。

「お母さんは、十分頑張ってると思うけどなあ」



「……どうしよう」

 鞄から出したクーちゃんと向き合う形で、ベッドの上に正座する。そうすることで名案が浮かぶわけではない。それでも何かを思いつこうとして、じっとクーちゃんと目を合わせる。

「『……深冬、ボクのことばっかり見ててもしょうがないよ』……そうだけど、どうしたらいいかわかんないもん……『探してみようよ、他にそういう人がいないか、とかさ』」

 短い問答を終え、寝転がってスマホを開く。友達のいない深冬にとって、日々の癒しはSNSでアイドルや声優の発信を見ることだった。自分とは程遠い、憧れの世界にいるアイドルたちは、暗い深冬の人生を明るく彩ってくれる。もし願いが叶うなら、アイドルのような煌びやかで明るい女の子に生まれたかった、とは常に思うことだ。

 通知を頼りに、古いものから新しいものへと未読の投稿を辿る。素早く概要を見ながら、気になったものがあれば指と目を止める、といった調子だ。

 新曲のMV、ステージ、イベントの出演情報、ファンからの質問回答―――

「あ、わぶぇっ」

 ある投稿に目が止まり、驚いてスマホを取り落とす。しまった、と思った時には額に痛みが走っていた。

 慌ててスマホを持ち直し、投稿を見返す。それはファンから寄せられた、何気ない質問への回答だった。

『人生で一番大変なことなんだった?』

『アイドル始めた瞬間! 私、人と喋るの超苦手で、親戚に根性叩き直せって勝手に履歴書送られたから、受かった時マジ死んだと思った笑 でもおかげで今普通に喋れるし結果オーライ 許しちゃる笑』

 じっと文字を目で追っているうちに、呼吸を忘れていたことに気付き慌てて息を吸う。

 ―――そんなこと、あるんだ。

 そのたった数行しかない文字列の、どこまでが真実なのかはわからない。しかし、そこに書かれた言葉たちは、確実に深冬の中で何かを動かした。

 恐る恐る部屋の扉を開け、ゆっくりとした足取りでリビングに戻る。そして、こちらに気付いた千秋に向けて、深冬は一世一代の告白をした。

「ママ……わたし、アイドル、やりたい」



 二ヶ月後、深冬は大手事務所の採用オーディション……を終え、廊下で過呼吸に陥っていた。結果から言えば、パフォーマンスの披露にまで至れずにリタイアしてしまったのだ。

 この二ヶ月で練習を重ね、ある”秘策”も用意した……が、人と話せないという一点だけはどうしても克服できず。オーディションの場ではクーちゃんに頼ることもできなかったため、自己紹介を終えることすらできなかった。

 あまりの様子に、現場のスタッフがベンチで休んでいるよう言ってきたため、どうにか呼吸を整えようとするが、先刻のたった数分間で起きた脳の混乱が落ち着かず、吐きそうになる。

 ―――がんばったのに、結局またダメだった。

 涙が溢れそうになるのを、なんとかこらえる。それでも、腹の底から湧き上がるような感情の濁流を抑えることはできそうにない。

「大丈夫?」

 唐突に声をかけられ、思わず顔を上げる。目の前で、スーツ姿の男性が深冬に向けて天然水の入ったペットボトルを差し出していた。

「あっ、あう、あ……」

 受け取らなきゃ、という気持ちが心を支配し、気づかぬうちに涙が引っ込む。慌てて足元の鞄からクーちゃんを取り出し、左手にはめて右手でペットボトルを受け取った。

「『すみません、ありがとうございます』」

「お、おお……変わった子だね。オーディション受けに来たの?」

「…………」

 黙り込んだ深冬を見かねてか、男性は隣に腰を下ろして笑顔で話し始めた。

「安心して。俺、ここの事務所の人じゃないんだ。別の事務所からオーディションの見学に来てるだけだからさ。何かあったんでしょ? 話せば、少しは気が紛れるかもよ」

 正直、誰が相手でも怖いことに変わりはない。それでも、深冬は自分への苛立ちから少し自棄になっていた。

 もうどうにでもなれ、とでも言わんばかりに、クーちゃんを通じて事の顛末を話し始めたのであった。



「……なるほどね。せっかく練習してきたのに、見せられずに終わっちゃったのか。それは残念だったね」

「……『でも、ボクがいないと喋れない今の深冬じゃ、やっぱりアイドルは難し』」

「そんなことはないよ」

 言葉を遮って反論してきた男性に、思わず深冬は隠していた顔を少しだけ出す。

「君にとっては、深刻な問題を解決するため、いつかはやめたいことかもしれない。けれど、彼を通してなら自分の気持ちもちゃんと言えるんだろう? なら、それをキャラクターとして売りにしちゃえばいいんだ」

 そこまで言ってから、男性は思い出したように懐を漁り、名刺を取り出す。

「よかったら、うちの事務所に来てみない? もちろん審査はするけど、クーちゃんのことは話を通しておくから。練習の成果、見せる場所を用意させてよ」

「えっ、えっ、あ、え……『ありがとうございます! ほら、深冬も』……ぅぁ、ぁりがとう……ございます……」

 こうして深冬は、思わぬ出会いから左枝と書かれた名刺を持ち帰り、また別の日に違う事務所へと赴くことになったのだった。



 翌々週の日曜日、深冬は指定された事務所に赴く。すぐに通された部屋には、左枝を含めた二人の男性と、高校生らしき女性が一人座っていた。

「ぁ、う……『よろしくお願いします』」

「改めて、プロデューサーの左枝です。よろしく」

「社長の宝多です。今日はよろしく」

「デビュー一週間、ゼロ期生アイドルの音路恭香です。よろしくね!」

 前とは違い、クーちゃんに自己紹介を担当してもらい、自分が人と話せるようになるためアイドルを目指したということも話す。

 そして、クーちゃんを椅子に置き、スマホから音を出して歌とダンスを披露する。

 ―――スイッチ、オン。

 深冬は、話すことは苦手だった。そこで、それを逆手にとって考えた。どんなに相手が怖くても、自分の中で歌とダンスをルーチン化し、それをなぞるだけなら何も考えなくていいと。

 もちろん、反応は怖かった。それでも、ここでやらなければという意志が、深冬を突き動かしていた。

 パフォーマンスが終わり、いそいそとクーちゃんを左手にはめ直す。

「『どうだったでしょうか』」

「……想像以上だ。まさかここまで仕上げてるとは」

「すごかった! ダンスのキレもいいし滑舌もすごくいい、自分の世界をしっかり作れてる。私は即戦力だと思います!」

 左枝と恭香に褒められて、深冬は幾分か心が軽くなるのを感じた。

「私も同感だ。愛内深冬さん、君さえよければ、この事務所でデビューしないか?」

「『や』……ゃ、やりっ! ます……!」


 ―――不思議の国に落ちたアリスは、活発で勇敢な女の子。

 わたしはきっと、逆立ちしたってそんな風にはなれない。

 けど、泣きながらでも、無理矢理にでも前に進めば……新しいわたしには、なれるはずだから―――


「『ジュエリーガーデンプロモーション、スカウト一期生! 愛内深冬とクーちゃんです! どうぞよろしくお願いします!』……おねがい、します」

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