第五話 マイベスト

 事務所内の雰囲気に、少しずつ明暗の差が現れてきていた。二組目のユニット、ステラ・ドルチェが誕生したことで、いよいよユニット未結成のアイドルが残り六人となってしまったのだ。ただでさえ相手を決めかねている中で選択肢が失われていくという状況は、多くが未成年の少女たちにとって大きなプレッシャーとしてのしかかっている。

 最大の懸念として、最後の二人になってしまえば最早選択の余地もなく、ただ余った相手と仕事をしなければいけなくなってしまう。そんな事態だけは避けたい。

 加えて言えば、ユニット組に活動開始による余裕が生まれてきたことも、結果として他の六人に影を落としてしまっていた。

月乃つきのさん、こちら前野さんから」

「それなら認識してるわ。それより次の公演、二週連続になるんでしょ? ソロの方は大丈夫?」

「ふふふ……ラン、ふふふふ……」

「いやそれゲームの特典ムービーのやつ! どこでそんなマイナーなネタ覚えてくるんですか! 打ち合わせ行きますよ!」

 遅ければ遅いほど、本番のオーディションで不利になる。数ヶ月前にひとみがそう言ったことが、現実として身に迫ってきていた。

 互いに納得して組んだユニット、私生活で関わる機会も増え、意思疎通も十全以上に取れている。既にLuminous Eyesは公演を主として、ステラ・ドルチェは公演に加えSNSの私的な投稿が受ける形で少しずつユニットとしてのファン数を伸ばしていた。

 目に見える光景に加え、数字としての実績が積み重なっていく。そんな様を至近距離で見せられている他の六人は、内心穏やかでない。

 空気が変わり始める中、中間テストの終わった七月某日のことだった。事務所の中でちょっとした事件が起こる。

深冬みふゆ! あーしとユニット組んでください! お願いします!」

「ふぇっ!?」

 テストがこれまでにない好成績で終わったことで心に余裕ができたのか、弦音つるねが意を決して頼み込んだ相手は―――深冬だった。

 唐突に目の前で手を合わされ頭を下げられ、深冬は訳もわからず混乱する。話に流れもなく、相手の意図もわからない、聞きたいことは山ほどあるにも関わらず、思考よりも感情が膨れ上がってしまった結果。

「ごっ、ごめん、な、さいっ!」

「んえっ!? ちょ、なんで逃げんのぉ!?」

 深冬は、思わず走って逃げ出してしまった。

 弦音も断られる可能性までは頭に入れていたものの、まさか逃げられるとは思っていなかったがためにショックの方が優先し、思わず深冬を追いかける。これがまずかった。

 一度、一人(?)になって落ち着きたかった深冬だったが、弦音が追ってくるという予想外の行動に出たことで更に混乱。怖くなってしまい走る速度を上げた。こうして、昼間から事務所ビルの中を二人の少女が追いかけっこする光景が出来上がってしまい、最終的に二人は別の場所で社員に捕まり叱られることとなったのであった。


 その日の夜、普段からは考えられないほど落ち込む弦音を彩乃あやの恭香きょうかが慰めていた。

「フラれた……つか逃げられると思わんかったし……」

「まあまあ、そう落ち込まない。急に要件だけバッて言われたら深冬じゃなくても困っちゃうって。今度もう一回機会作ってちゃんと話そ?」

「弦音は思考と行動が直結しすぎだって。深冬は繊細な子なんだからさ」

 半ば自棄になっているのか、炭酸を大量に飲んで項垂れる弦音を前に、どうしたものかと二人は顔を見合わせる。元々感情の起伏が激しいタイプではあるものの、経緯も含めこのような落ち込み方は始めてのケース。いくら寮で生活を共にしているとは言え、まだ半年も経っていない間柄ではどう声をかけるのが正解なのか、などわからない。

 しかし、それでも。ひとまずは落ち着かなければ、状況の整理もままならない。少し悩んで、彩乃は弦音の肩を叩いた。

「ほら、夕飯何食べたい?」

「サバの味噌煮……んまいの……」

 その回答に恭香がなんとも言えない表情になる中、彩乃はキッチンの方へ駆け出し冷蔵庫を一通り確認する。どうやら目当ての鯖は無かったようで、顔だけを出してその旨を伝えてきた。

「どうします、千里ちさとさん今日仕事ですよね?」

「仕事のあと講義って言ってたかな、けど千里さんに買い物頼むのも……」

「鯖だけで十パックくらい買ってきそうですしね……」

 うんうんと悩む彩乃と恭香。その時、ふと彩乃のスマホが震える。見てみると、それは寮母からの連絡だった。これ幸いと彩乃は明るい顔で叫ぶ。

「周防さんちょうど買い物行ってるみたいです! 頼んじゃっていいですか?」

「ナイスタイミング!」

 恭香のサムズアップに頷いて、彩乃は返信を打ち込み始める。そんな二人をよそに、弦音はコップの中で弾ける泡を見つめながら口を尖らせ呟いた。

「なーにが悪かったんよー……」


 深冬の部屋。ベッドに寝転がった深冬は、目の前に寝かせたクーちゃんと対話していた。

「……やっぱり、ダメだったかな。『うーん、走って逃げたのはまずかったよ。そんなことしたら、弦音だってショックでしょ』……うん、明日、謝らないと……」

 口ではそう言うものの、拭いきれない不安からその顔は浮かないままだった。

 例え弦音と会って謝罪したとしても、問題はその後、本題のユニット結成についてだ。何度も考え直したが、今の深冬ではとてもその気になれずにいる。拒絶したい訳ではない、いつまでも決めない方が自分にとっても良くないことだというのもわかっている。しかし、ソロ活動しか想定していなかった深冬にとって、四月から続くこの流れは苦痛に近いものだった。

 周囲に置いていかれる感覚、自分から持ちかけてもよいのかという不安、そしてなぜ自分を選んだのかという困惑。様々な感情が綯い交ぜになり、深冬の心をきつく締め付けている。

「『けど、アイドルするならユニットの活動くらい予想できたんじゃないの?』」

 ふと、クーちゃんが問いかけてくる。深冬は苦い顔をして目を逸らし、小さな唇を少しだけ動かして囁くような音量で呟いた。

「……自分たちで組むなんて、思ってなかったんだもん」

 思い悩む理由は、今回の結成手段が特殊であることにも起因していた。

 そもそも通常アイドルのユニットと言えば、事務所がプロデューサーを主体として企画・会議を行い、社として認可されたうえで決定後に本人たちに通達されるというプロセスを経て結成されるもののはずだ。深冬自身、そういった手順が踏まれていたのであれば納得してユニット活動に専念できただろう。

 しかし、今回は例外中の例外、期間内に自分たちで話し合って組む相手を見つけろというのだ。当然、選んだ当人からすれば活動の成否に関わる責任も感じてしまうことは想像に難くない。

 やらなければならない、であれば自分に選択の権利はない。だが今回は選ぶか、選ばれる必要がある。その大きすぎる権利は、会社の名を背負う責任を伴うことで深冬の心をきつく縛り付けていた。

 無言のまま、クーちゃんのつぶらな瞳を見つめる。そこに映る自分の顔は、アイドルになる前のように浮かない表情を浮かべていた。

「……寝れそうにないから、ホットミルク飲んでくるね」

 クーちゃんをベッドの端に立たせ、深冬は部屋を出る。曇る心に、晴れの気配はまだない。

 暗い階段を降りてリビングに出ると、そこでは母の千秋がテーブルにつき何かを飲んでいた。一瞬躊躇ったものの、深冬は扉を明け声をかける。

「ママ……?」

「深冬。寝れないの?」

 千秋はこちらに気付くと手招きをする。ゆっくりと歩いて近づいていくと、深冬の頭を優しく撫でてきた。

「なにか飲む?」

「うん。ミルク飲もうと思って」

 千秋は立ち上がるとキッチンの方へ歩き出した。深冬はテーブルにかけ、膝の上で手を握りながら母の背中を見つめる。

 冷蔵庫の扉が閉まる音、マグカップに牛乳が注がれる音、電子レンジの稼働する音。母娘は黙ったまま、生活の音だけが静かに部屋を流れる。

 数分を経て、イルカの描かれたマグカップが深冬の前に置かれる。まだ熱いそれに手を付けることなく、深冬はマグカップをじっと見つめながら言葉を紡ぎ始めた。

「今ね、お仕事で二人組を作らないといけなくて。それで、今日一緒にやりたいって、同期の人から誘われたの」

 話の内容だけ見れば諸手を挙げて喜べるもの、しかしその浮かない表情から何かを悟ったのか、千秋はただ相槌を打って続きを促した。

「でもわたし、自信なくて、びっくりして逃げちゃった。お仕事だから、ちゃんと考えないといけなかったのに」

 手を強く握り締めて唇を結び、弱い灯りを反射するミルクの表面をじっと見つめる。そんな様子を見て、千秋は目を閉じ噛み締めるように語りかけた。

「深冬は、ちょっと頑張りすぎるところがあるって、お母さんは思うな」

「……だってわたし、普通に話せないから。その分、迷惑かけないようにしなくちゃ」

 張り詰めたように声を震わせる深冬の頭に、千秋はそっと手を置く。

「責任を負うのは深冬だけじゃないよ。無理して人の責任まで背負ったら潰れちゃうでしょ? 誘ってくれた人もそうだし、事務所の人にも深冬を選んだ責任がある。一人で抱え込むんじゃなくて、事務所の人とかに話してみたらいいんじゃない? 全部一人で頑張るなんて、大人でもできないんだから。深冬は、深冬にできることをしっかり頑張ればいいんだよ」

 膨らみ、今にも弾けそうだった感情が少しずつ萎んでいく。深冬はやっとのことでマグカップに手を伸ばすと、まだ熱の残るそれに何度か息を吹きかけてからホットミルクを喉に流し込んだ。

「……もうちょっと、考えてみる」

「ちょっと休むことも忘れずにね」

 まだ納得はできないといった表情を浮かべる娘に、母は優しく微笑みかけた。



 翌日の朝。事務所一階ロビーでは千里が前野と話していた。普段とは違い、千里の方がタブレットを持って前野に何かを見せている。

「っていうことなんですけど、行けます~?」

「なーるほどね。うん、私はかなりアリだと思う。社長に掛け合ってみて、許可が取れたらやってみよ」

「ありがとうございます~! 準備とか手配はうちの方で済ませますから、お時間だけいただければいいんで~」

 好感触を得られたらしく、タブレットを挟むように手を合わせて喜ぶ千里。そんな様子を見ながら、前野も嬉しそうに返す。

「そういうのには協力惜しまないよ~? 実際助かるしね。みんな高校生以下だから、あんまり自分以外を気にする余裕ないだろうし」

「一番上のお姉さんですし、一番時間のある時期ですもの~。それに、遅くなって決まらなくって、空気が悪くなっちゃったら~って思って~」

 話が弾む中、自動ドアの開く音がする。二人が視線を移すと、そこには未だ回復の兆しを見せない弦音がふらふらと覚束無い足取りで歩く姿があった。あまりの様子に前野はうわーお、と顔を引きつらせ、千里もまぁ、と頬に手を当てる。

「ぉぁょぉぁぃぁ……」

「おはよ……随分効いてるねぇ」

「おはよう弦音ちゃん、大丈夫~? 昨日のお魚が良くなかったかしら~」

 昨日は別の仕事で事務所にいなかった前野は、話に聞いていた以上の落ち込み方をする弦音に戸惑い、千里は様子の悪化から体調不良を疑い始めた。

 弦音は重心を失ったかのようにふらつきながら近づいてくると、前野の胸に頭を預ける。全体重をかけられた前野は慌ててその肩を抑えると、千里に向き直って言った。

「うお、っとと。ごめん千里、その件は今日中に社長に通しとくから。今は」

「は~い、弦音ちゃんは任せますね~。じゃあ私はこれで~」

 言わんとしたことを察した千里は、おもむろに一礼して事務所を出て行く。その背を見送りながら、前野は弦音を引きずるようにして事務所の奥へ歩きだした。

 なんとかエレベーターに乗り二階に着くと、手近な会議室に入る。先に弦音を椅子に座らせてから、自分も息を吐きつつ腰を下ろした。

「ふぅ。さてと、今回ばかりは大丈夫じゃなさそうだね」

「ん……なんか、全然寝れんくて。深冬とけっこー仲いいと思ってたんになって、ずーっと考えちゃって、なんか、すげー辛くなっちゃったっす」

 迷惑をかけているという自責があるのか、不慣れな敬語でこぼれる言葉にうんうんと頷きながら、弦音の背を優しく撫でる。直情的かつ直感的な弦音にとって、こうした精神的ショックは大敵、というのがマネージャーとして前野が見てきた見解だった。同じ年齢の他三人にしても、ましろは精神的にダメージを受けるタイプではなく、ひとみは何か起きる前後に自分から動いて問題解決に走るため、ひどく落ち込むということもない。彩乃は同年代と比べると落ち着きのある方で、受け身なところはあるもののこういった落ち込み方をすることは中々ない。無論、三人にも例外はあるだろうが、それぞれの性格から落ち込むということには縁遠い部分を持っていることは確かだ。

 そうした中で弦音は、良くも悪くも年齢に対し等身大といったイメージが強く、そういったところからファン層も歳の近い女性の比率が高い。ネックな部分を上げると、他のアイドルと比べ仕事に好き嫌いの感情を持ち込みがちで、物事を額面通り受け取ってしまう、というものがあった。

「まあさ、みんなも言ってるけど、そういう大事な話はちゃんと流れとか、雰囲気作ってからしないと。深冬はいい子だけど、やっぱみんなと比べると繊細だし、ビックリするようなことは特に苦手だから」

「ん……それはわかってるんですけど。謝った後また頼んで、断られたらどーしよって思っちゃって、なんか、怖くなっちゃって」

 一度頼み込むまでは即断即決だった弦音も、今回ばかりは返事を聞くのが怖いらしい。形はどうあれ、断られた挙句に逃げられたというのは事実、となれば同じことをまた問い直すのにも並々ならぬ勇気がいるところだろう。

「そんなに深冬がいいんだ」

「っす。あーし、ぶっちゃけバカだし、アイドルとか社会人としてのジカクとか、そーゆーのも全然足りてないって、わかってます。でも、ジムショがアイドルにしてくれたんだから、諦めたりダキョーすんのは絶対ダメだって、思って」

 芸能界という場所にいる以上、アイドルは競争社会だ。実力が無ければ務まらず、かといって実力だけではどうにもならない。実際にアイドルとなったことで、弦音もその事実を少しずつ肌で感じ取っているのだろう。特に周囲との実力差を気にかけているのは、前野も知るところだ。

 類い稀な才能を持つましろ、勤勉で気配りのできるひとみ、素直かつ高い運動の素養とスポーツ経験を持つ彩乃に囲まれている中で、驚くことや舌を巻くことは弦音にとって茶飯事であり、自分にはできないことを羨む発言は日々の中でも目立っていた。

「だから、あーしなりに頑張って考えて、深冬ならいけるって思ったっつーか、深冬みたいに頑張れたら、あーしもちょっとはイッパシのアイドルになれっかなって」

「深冬みたいに?」

 努力をしている、という点では、JGPに所属する十人の少女たちは漏れなく全員当てはまるだろう。その色や形は様々でも、自分にとって最も輝ける形を探して誰もが今を生き抜いている。

 しかし、アイドルであることそのものに対する比重で言えば、間違いなく深冬は他の九人と一線を画すものがあった。他人と話せないにも関わらず、それを直したいと芸能界を志したその特殊な動機は聞く者全てを驚かせ、実際に月乃はこの話を聞いてすぐ彼女の努力を認め、気にかけるようになった。

 そういった点を鑑みた結果、自分では努力や志で劣ると思った弦音は、誰よりも必死に努力する様を見ている深冬を相棒に選びたいと思ったのだろう。

「おとーさんにギター教わってる時言われたんす。努力するのがイチバン近道だって。だからあーし、めんどくさがりだけどアイドルはマジメにやろーって」

「知ってるよ、マネージャーだもん。弦音が弦音なりに、今できる精一杯をやろうとしてるのは凄くよく伝わってる。だからそんなに落ち込まないで。いつもの明るい弦音でいいんだよ」

 当人は気付いていないかもしれないが、弦音にも真面目な部分は確かに存在しており、それによる成果も挙がっている。現に一期生の中ではSNSのフォロワー数で上位におり、彩乃やましろたちに比べてファッションやコスメに関する投稿が多いことから、ファンからお勧めを聞かれたりその日のメイクを写したストーリー投稿に反応が集まったりと一歩先を行っている。アイドルとしては多くが当たり前にしていることでも、事務所の中で言えば精力的に投稿しているのは弦音だけだ。私生活に関しても、恭香やひとみの手助けを受けて今回の中間テストで今まで取ったことのないような高得点を記録している。

 前野が一人の見守るべき大人という視点で見ていても、弦音は特に劣っているような部分などなく、むしろしっかりと自分らしい特色を持って努力していると言えるのだ。

「ん……落ち込んでても、仕方ないし。前野さん、協力してくれますか」

「よしきた! 任せな!」

 弦音はスマホを取り出すとメモ帳を開き、前野に相談しながら思いの丈を綴り始めた。



 レッスンスタジオ。先刻Luminous Eyesの送迎を終えた左枝は、やや急ぎ足でレッスンルームへと向かっていた。本来であればオフだった深冬が、急にレッスンがしたいと使用許可を求めてきたのだ。昨日の今日ということもあり、心配は収まらなかった。焦る様子はひとみと月乃にも伝わってしまったようで、事を伝えるとすぐ向かうよう言われた。

『私たちなら大丈夫なので』

『二人のこと、支えてあげてください』

 プロデューサーがアイドルに心配されるとは、まだまだだなと心で自戒を唱える。

 レッスンルームの扉を開けると、普段の深冬では流さないようなアップテンポの音楽が聴こえてくる。一面が鏡張りとなった部屋の中心で、深冬は鏡に映る自分と対面しながら激しい振り付けをこなしていた。正確性が売り、と蘭子らんこに評されただけあり、髪は乱れ白い肌には絶え間なく汗が伝っているものの、普段は決してしないような複雑で素早い動きを正確に辿っている。

 今現在、深冬はその幼げある容姿や高い声色から、少女らしさを押し出し独特な世界観を持ったアイドルとして売り出している。デビュー曲も童話をモチーフにピアノを立たせたサウンドで、儚げながらも可愛らしいものだった。

 しかし、目の前にいる彼女はどうだろうか。流れている曲は軽音楽系で、深冬というよりも弦音が好んで演奏する曲調に近い。だが、これまでレッスンにも本番にも使ってこなかった曲調やリズムにしっかりと同調し、曲の世界に組み込まれたかのようなダンスが出来ている。

「はぁ……っ! は、ふぅ……」

 曲が終わり、深冬は糸が切れたかのように座り込むと大きく早い呼吸を繰り返す。首にかけたタオルを取り出し汗を拭っているところに、左枝はゆっくりと近づいていった。

「深冬、お疲れ様」

「はっ、あ、はぃっ、左枝、さん? あの、お仕っ、事」

「ああ、まずは呼吸整えて。水持ってこようか?」

 数分後。二本目のタオルまで使って汗を拭いた深冬は、左枝に持ってきてもらったスポーツドリンクで給水したことで落ち着いたようだ。部屋の隅で壁に背を預けて座り、左枝が先に切り出す。

「まだ、落ち着かないか?」

「あっ、いぇ、あぅ……」

 なんとか一人で返そうとした深冬だったが、言葉が定まらなかったのか焦った様子を見せた後に、隣に立たせていたクーちゃんを左手に嵌めた。

「『やっぱり、まだ悩んでるみたいです。昨日も、全然寝付けなかったみたいだし』」

「そっか。断って逃げちゃったこと、気にしてるんだよな」

 クーちゃんの背後に顔を隠しながら、深冬は浮かない顔で頷く。

「良かったら、なんで断ったのか、俺に聞かせてくれないか?」

「……なんで、ですか?」

 問われた内容が予想していないものだったのか、今度は深冬が返事する。左枝は頷くと、少し姿勢を崩して続けた。

「断ったってことは、何か理由があるのかなと思ってさ」

 深冬は黙った。どうしたらいいのかと言わんばかりにその瞳は右往左往し、右手を口元に寄せている。左枝は笑顔のまま、何も言わず深冬が言葉を紡ぐのを待った。

 何か言おうとしては口を噤む。そうした行動を何度か繰り返しながら、深冬は少しずつ自分の中で思考を整理していく。一分半ほど経過したところで、ぽつりと呟いた。

「……逃げた、のは、自信が、なかったから、です。けど……断った、理由は、たぶん、びっくりした、だけ、だと……思い、ます」

「うん、そうか。ってことは、自分の意思で選ぶのは怖いけど、弦音と組むのが嫌な訳じゃないってことかな」

 まとまりきらなかった部分を言葉にして返され、深冬はゆっくりと頷く。

「深冬は頭がいいから、自分でユニットを組む責任が怖いんじゃないか、って俺は思ってるんだけど、どうかな」

 笑顔ながらも、その心境はよく理解できるといった様子で眉を寄せる左枝の様子に、少しだけ深冬も同情に近いものを覚えた。この無茶な企画に振り回されているのは、自分たちだけではないらしい。

 頭がいいから、という部分には素直に同意しづらい部分もあったが、世辞のひとつだと断じて頷く。

「確かに、自分たちで選んだってなると、失敗したらどうしようって思うよな」

「はい……わたしのせいで、弦音さんにも、左枝さんにも、迷惑、かけられない、ですから」

 幼いながらも、自分がいち芸能人として社会的責任を持っていることに対する自負がある。左枝からすれば、それは嬉しい点でありながら、足枷になりうる要素でもあった。

「大丈夫。四月に言った通り、事務所が無理だと判断したらちゃんとNGは出る。難しいかもしれないけど、もっと軽い気持ちで考えていいんだ。責任を負うのは、深冬でも弦音でもないから」

「……『僕もそう思うよ深冬。選んでもらったんだし、ちゃんとした理由もなしに断るのは失礼だよ』……うん」

 クーちゃんと額を合わせ、深冬は瞼を閉じる。三ヶ月を共に過ごしたことで、左枝にはそのやり取りに込められた意味がわかるようになっていた。

 いくら「友達」という体であっても、クーちゃんとして実際に考え、話しているのは深冬自身だ。彼女が精一杯努力して自分とクーちゃんを乖離させていても、重なる部分は必ず現れる。

 そして今のやり取りは、どうしても責任を感じる深冬自身が、自分を納得させるための一つの手法なのだ。

 ゆっくりと深い呼吸を繰り返して、顔を上げた深冬は左枝に向き直った。

「次は、ちゃんと、理由を聞いて。よく考えて、から、決めますっ」

「ああ。二人でちゃんと、納得いくまで話すといい」

 立ち上がって鞄を持つと、深冬はクーちゃんと共に深いお辞儀をしてレッスンルームの掃除を始める。左枝も微笑みを浮かべ、ネクタイを緩めるとモップを取り出し手伝い始めた。

「ふぇっ」

「はは、俺も運転してばっかりだからさ。体動かさないと」

 驚いた深冬だったが、スーツ姿のまま笑顔で掃除する左枝を見て微笑むと、口角を上げ掃除を再開した。



『弦音さん、今日お時間ありますか』

『ある! あーしも深冬に謝りたい!』

『今自主トレ終わったので、これから事務所に行きます』


 絵文字混じりでありながらも簡素なやり取りで約束を取り付け、弦音は事務所の一室で緊張しながら待っていた。落ち着かないのも確かだが、緊張のあまり立って歩き回ることもできない。彫刻のように固まったまま、扉の方をじっと見つめている。

 ふと扉が開き、深冬が姿を表す。弦音の様子を見て少し驚くも、思わず小さな笑みをこぼすとその正面に座った。

「あ、あのさっ、深冬っ、ごめん! その、あーしキモチばっか焦って、全然話の流れとか考えてなかったし、なんつーか、マジでごめん!」

 腰を浮かせて身を乗り出したかと思いきや、頭をぶつける勢いでテーブルに両手をついて頭を下げる。言葉こそ拙いものの、その様から必死で反省したであろうことは容易に想像がついた。

 深冬は口角を上げると鞄からクーちゃんを取り出し、自分と弦音で三角系になるように置く。その物音で弦音が姿勢そのままに顔だけを上げると、深冬は微笑んだまま胸に手を当てて話し始めた。

「クーちゃんは、証人です。今日は、わたしの、言葉で、喋ります」

「深冬……」

「わたしの方こそ、ごめんなさい。ちゃんと、お話を聞いて、考えて、決めるべき、でした」

 姿勢を正し、丁寧な所作で深冬も頭を下げる。慌てて上半身を上げた弦音は深冬が謝る必要ない、と言いかけて口を閉じた。自分と同じように、考え抜いた結果の謝罪であろうそれを否定してはいけない、と本能的に感じたのだ。

 座り直して、背筋を伸ばす。今日は真面目だと理解してもらうためにも、口に出す言葉は選ばないといけない。

「うん。深冬のごめん、ちゃんと受け取った。メーワクじゃなかったら、もっかいだけ、今度はちゃんと話すから、聞いてくれっかな」

「はい。弦音さんの、ごめんなさい、受け止め、ました。わたしも、もう、逃げたり、しません」

 互いの目をじっと見つめ、数秒を置いて弦音は切り出す。

「あーしさ。その、今まで何かをちゃんと、マジメにやってきたこと、なかったんだよね。高校も、アイドルやるって決めた後に行けそうなとこパッと決めただけで、ギターも中学の文化祭と、あと友達の文化祭の助っ人くらいしかステージ上がってなかったし」

 視線を泳がせながらも、弦音は少しずつ自分の気持ちを言葉にしていく。深冬は黙ったまま、節々で頷いて続きを促す。

「んで、アイドルになって、なれちゃってさ。周り見た時思ったんよね。当たり前だけど、みんなめっちゃ頑張ってるって。それでさ、なんつーか、焦りじゃないけど、あーしも同じくらい頑張んなきゃ、おとーさんとか、右城さんに失礼だなって」

 その話し方は、目の前の深冬に対してのものでありながら、弦音自身に言い聞かせているようでもあった。泳がせていた視線をやがてテーブルの中心に落ち着けて、弦音は続ける。

「だから、この仕事でちゃんと結果出して、あーしアイドルちゃんとやってるって、胸張れるよーになりたくて。誰と組んだらいいかなってずっと考えて、イチバン歳下なのに、誰にも負けないくらい頑張ってる深冬がいいなって、思った」

 脚の上で拳を握り締める。悪い言葉にならないように、前向きな思いだと言えるように。

「深冬の頑張りについていって、ちゃんとオーディションでテッペン取れたら、あーしも頑張ったって言えるはず、だから」

 弦音が口を閉じ、少しの間沈黙が流れる。深冬が口を開こうとしたその時、弦音が手を出して待ったをかけた。

「ごめん、あと一個。やっぱこれ言っておかなきゃダメだわ。五月のランニングでさ、好きな曲一緒ってわかったの……あれ、めっちゃ嬉しかったんよね。他に音楽のシュミ合う人、いなかったからさ」

 真剣な表情を緩めて、弦音は照れくさそうに笑いながら頬をかく。それを見て、深冬は思わず笑い声をこぼした。

「よく、わかりました。でも、いくつか、訂正、させて、ください」

 その言葉を聞いて、弦音は即座に表情を引き締める。対して深冬は笑顔のまま、胸元で軽く手を握り諭すような話し方で言った。

「皆さん、それぞれ、頑張ってる、のは、間違って、ない、と、思い、ます。けど、それは、弦音さんも、一緒、です。周りを、見て、自分で、頑張らなきゃ、って、思えるのは、弦音さんが、それだけ、アイドルに、真面目だから、だと、思います」

 年上に意見するという構図のせいか、深冬はやや息切れ気味に、それでも笑顔を崩さずに続ける。軽く握った手は、徐々に力を込めた拳に変わっていった。

「だから、わたしに、ついていく、だけじゃ、なくて。わたしも、弦音さんに、ついて、行きます、から。二人で、手を取って、進んで、いけたらな、って、わたしは、思い、ます」

「え、じゃ、じゃあ!」

 身を乗り出す弦音が続きを言う前に、深冬がその口に人差し指を当てる。

「わたしも、同じ音楽が、好きな人なら、きっと、楽しく、できるはず……だと、思いまし、た。弦音さん、みたいな、かっこいい、曲、わたしも、踊り、たいです……だから。よろしくお願い、します」

「み……深冬~!!」

 感極まった弦音は、涙ぐみながら思わずテーブルに乗り出して深冬を抱きしめようとする。流石にまずいと思った深冬は、素早くクーちゃんを回収し左手にはめた。

「『弦音! 危ないよ!』」

「うおっとごめ! でも、っへへ……ありがと深冬! あーし嬉しい! クーちゃんも、ハナシ最後まで聞いてくれててあんがとね」

 きちんとテーブルを回り込み、礼を言ってから深冬を抱き締め、撫で回す。やや力の入った所作ではあるものの、深冬もそれを笑顔で受け入れた。

 と、そこへ部屋の扉が開き前野が現れる。タイミング的にも話は聞かれていただろう。弦音は慌てて深冬を離し、頭を深く下げる。

「前野さんマジありがとうございましたっ! おかげでちゃんと組んでもらえました!」

「うん、ちょっと心配で話全部聞いちゃってた。なんとかなって良かったよ」

 朝とは打って変わって、溜飲の下がった様子で話す二人。そんな中、深冬が前野に向けて手を挙げた。

「あの、前野、さん。その、ユニ、ット、結成の、お披露目、なんですけど。わたし、やりたいことが、あって。左枝さんに、お話、して、もらえませんか」



 二週間後、都内の劇場。事務所全体で見れば定期的に行われる重大発表ということもあり、観客の中にもその内容を察する者は多くいた。

 いつもより多いファンたちの前でスポットライトが点灯し、深冬の姿が映し出される。いつもであれば、クーちゃんを主体とした短いMCをするのが恒例の彼女も、今日はクーちゃんを証人として水の入ったペットボトルと同じテーブルに置き、照明から外れた弦音に右手を握ってもらっていた。

『皆さん、今日は、お越し、くださって、ありがとう、ございます。重大、発表の、前に。わたしから、皆さんに、聞いて欲しい、ことが、あります』

 弦音の手を握る右手が湿り、力が入る。もしこれが学校であれば、とうに泣き出していただろう。しかし、それでも。今日の深冬には退けない理由があった。

 ―――弦音さんの頑張りを、わたしが無駄にしちゃ駄目だ。

『わたし、人と話すのが、苦手、です。この、喋り方も、普段からで、学校、でも、発表とかで、泣いたり、声が出なくなったり、しちゃいます。だから、学校でも、クーちゃんに、代わりに、喋って、もらってます。それで、わたしは、それを直し、たくて、アイドルに、なりました。こうして、皆さんの前で、たくさんお話、して。クーちゃんに、頼らなくても、お話、できる、ようにって』

 しんと静まり返る劇場内。観客たちは何を言うでもなく、ただ言葉の続きを待つ。深冬は大きく息を吸って、弦音を一瞥する。ウインクが返ってきたのを確認して、口角を上げファンへと向き直った。

『これから、初めて。大きな、お仕事に、挑戦、します。だから、いつも来てくれる、人たちにも、今日、初めて会う人、にも、ファンの人たち、にも。わたしが、アイドルをする、理由、ちゃんと、話したかったん、です。こ、こんな、わたし、です、けど、応援、して、くれる人が、いる、から。わたし、誰にも、負けないように、頑張り、ますっ!』

 ふと、静まり返っていた観客の誰かが、手を叩き始めた。それを皮切りに、何人かのファンが続く形で拍手する。その場の全員というわけでも、大きな音でもない。しかしそれらの手が奏でた小さな音色は、間違いなく深冬の琴線に振れた。

『っ、続けて、重大発表、です! わたし、同期の、弦音さんと、ユニットとして、活動、することに、なりました!』

 震える声で深冬が言い切ると同時、もうひとつのライトが点灯し弦音の姿が照らし出される。深冬が応援されているとわかったことがよほど嬉しいのか、上機嫌で手を振りながら深冬の隣に出た。

『はいー! いつも来てくれてる人、今日が初めての人、こんにちは~! 堤弦音です! あーし、今日から深冬の相方として頑張ることになりました! 今事務所の先輩たちもデュオユニット組んでるけど、深冬とクーちゃんも合わせて、誰にも負けないユニットになるつもりです!』

 そこで一度、言葉を切る。すると、照明が増え音楽が流れ出した。それは、二人の合意により完成した楽曲。

 「深冬なら自分の好きな曲調に合わせられる」という弦音の思いと、「弦音の踊る曲を隣で踊ってみたい」という深冬の思いを合わせて作られた新曲は、シンセサイザーにギターの高音を絡ませたエレクトリックなサウンドから始まる。

 ユニット活動にあたっての二人の約束は―――「二人の好きを詰め込むこと」。

 二人は顔を見合わせ微笑むと、ポーズを取って宣言した。

『てなわけで、応援よろしく! あーしら二人で』

『”えれくと☆ろっく”……です!』



 同日、事務所ビル内会議室。千里の呼びかけによって、ましろ、恭香、彩乃が集められていた。

「今日は集まってくれてありがとう~。ユニットのことでね、大事なお話があるの~」

 口調こそいつもの間延びしたものでありながら、どこか好奇心に駆られた子供のような表情で千里は語る。

「深冬ちゃんと弦音ちゃんが組んで、もう残りは私たちだけになっちゃったでしょ~? それでね、取り残されて仕方なく~みたいなユニットができちゃうのは絶対にダメって思ってね~、私から社長にちょっと提案させてもらったの~」

 そう言うと千里は目を輝かせて、わざわざ持ち込んだホワイトボードをかなりの膂力で裏返した。勢いよく半回転したボードが置かれていたペンとクリーナーを弾き飛ばし、千里の背後で壁にぶつかったそれらが物騒な音を出す。

 暫しの沈黙を経て、顔を赤くした千里は咳払いの後続ける。ホワイトボードには、綺麗な字に何らかの呪物じみたイラストを添えて「合宿」と書かれていた。

「私たち四人で、うちの別荘で合宿するの! それで、全員が後悔なく相手を選べるようにしましょ~!」

「おー」

「な、なるほど……」

「へー、楽しそう! 私は大賛成です!」

 ほぼノーリアクションのましろ、色々と言いたいことがあるせいか引き気味な彩乃、即答で快諾する恭香。三者三様の反応を見てか見ないでか、千里は自信満々に頷いた。

「ご飯とか、車とかは私が用意させるから~、みんなは普通のお泊りみたいに、お着替えとかレッスン着だけ持って来てくれればいいわ~。きっと楽しくなるし、話し合いも弾むわよ~。来週の水木、一泊二日ね。スケジュールは空けといてもらったから~」

 道理で仕事が入るかもしれないから空けといて、と言われたわけだ。と彩乃は納得する。その後、簡単な仔細を話してその場は解散となった。事務所を出るまでの道中、三人は自然と言葉を交わす。

「千里さん、結構考えてたんですね」

「行動力あるよね~! 合宿楽しみだなぁ」

「うんうん」

 一方、千里は散らばったペンなどを片付けてから、窓の外を見る。夏真っ盛りの今は快晴が続き、雲すらほとんど見えない。

「優柔不断っていうだけでもダメなのに。これ以上出遅れたら、ママに合わせる顔、無いものね」

 物憂げな表情で呟くと、スマホを取り出し電話をかけた。

「あ、もしもし柴崎~? 久しぶり~元気かしら~? 私は大丈夫よ~、それでね、この間話した仕事で別荘使う話、来週に決まったの~。ええそうよ~、お願いね~」

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