第四話 ラヴ・ソー・スウィート
JGP初となる
そして、目の前で行われているレッスンの風景と手元のノートに視線を何度か往復させ、大きな溜め息をつく。
―――全っっっっっっっっっ然
蘭子は悩んでいた。この一ヶ月、誰と組めば自分が最も輝けるかを考えてはいたのだが、それを自分の持つ情報と共にまとめていくうちに、自分以外の相性が良さそうな組み合わせを見つける方に思考がシフトしていき、最終的に自分を除いた考えのまとめが出来上がるという本末転倒な行為を何度も繰り返していたのだ。
「これじゃただの厄介カプ厨……ホーリーオタクにあるまじき邪の行いぃ~……」
頭を抱えて唸りながらも、今一度ノートを見返してみる。確かに、書いてある情報は正確かつ仔細だ。可能性のひとつとして、月乃とひとみが組むかもしれないという予想も書かれており、見事的中している。
しかし、それらはあくまで客観的な視点で見たものであり、デビュー前から四月までに記したのは仲間として、ライバルとして意識すべき点ばかり。蘭子のノートには、自分自身のことが全く記されていない。
加えて言えば、蘭子生来のオタク気質が今だけは非常に邪魔なものとなっていた。自分が誰と組むとよいか、よりも「ここで組んで欲しい」「こうあって欲しい」という他者への願望が先行してしまい、つい自分をそっちのけにして考えてしまうのである。
それだけではないことも、蘭子自身薄々気がついてはいるのだが。
「蘭子」
とにかく、一刻も早く自分を含めた予想を更新しなければいけない。一組目がお披露目となってしまった今、他の七人も急ぎ初めているはずだ。
「蘭子」
しかし一人のオタクとして自分の持っている要素を書き出してしまうとなんだか自分に酔っているような気がしてしまい気恥ずかしさが表面化しノートを抱えてベッドの上で大回転してしまうのでまずはそこをなんとかしないといけない実際のところ中三の十四歳ならまだ中二病も許容範囲内なんだから少し盛るくらいの気概が無ければアイドルなんて
「蘭子!」
「どぅえぁぁ!? はい、はい!? えっ!?」
聞いたこともないような声色の声に驚きはっとした瞬間に、鼻先が触れそうな距離まで近づいた
どうやら休憩に入ったらしく、全員が荷物の周辺に集まって水分補給の途中だったようだ。
「……近付いても気づかれないことはよくあるけど、話しかけて気づかれないのは初めての経験よ」
「んぅえぇっ、すすすっ、すみません!」
初めて見る不機嫌な顔に、慌てて立てていた膝をつき頭を下げる。咄嗟の行動だったが、頭を下げてから土下座にしか見えないことに気付いた。目を向けていた
「まったく、そんなに集中して何してたの?」
稔としては当然の疑問を口にしただけだが、蘭子は言葉に詰まった。まさかユニットの考察をしようとしたら自分のことを計算に入れていなかった、などと言えるはずもなく、どうにか誤魔化そうと思考を巡らせる。
「えー、っと、です、ねぇ……危機管理、みたいな~」
「私に嘘つくつもり?」
腰に手を当てて立ち上がった稔に、鋭い目で見下ろされる。やや身長の低い稔と、同年代の中では身長が高い方の蘭子では見下ろされる構図自体が珍しく、思わず怯んでしまう。
しばらく沈黙が続いたあと、稔は溜め息をついて振り返った。
「まあいいわ。レッスンが終わったら話したいことがあるから、その時にね」
「え、あ、はい……?」
「逃げないでよ」
去り際にそう残され、思わず髪が乱れる勢いで首を縦に振る。その様子を確認すると、稔は一足先にレッスンへと戻っていった。
ノートを抱きしめたまま、蘭子はやってしまったと当惑する。そこからの二時間は、彼女にとってノートを取ることも忘れるほどに気が気でない時間となったのだった。
レッスンが終わったあと、見るからに落ち着かない様子の蘭子へ稔が近づく。普段であれば談笑しながら更衣室へ向かうところの他メンバーたちも、二人の様子を入口から観察している。
「え、ええと、な、なんでしょう、かぁ」
「そう構えなくていいわよ。別に怒ってる訳じゃないし」
少し凄みすぎたと思ったのか、稔は気まずそうな顔で髪をいじりながら言う。しかし、そう言われても何の用かわからない以上蘭子としては緊張を解けそうになかった。
「さっきの件もそうだけど、ユニットを組むために必要な情報を集めてるんでしょ? 相手、決まったの?」
「へっ?」
何の用事か想像がつかなかったとは言え、予想だにしない質問に思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。慌ててノートのページをめくり、顔を隠すようにして声を絞ろうとするも、やはり事実を言うのは気が引ける。
「いや~、まあ……ぶっちゃけ、何も決まってない、ですね」
「そう」
てっきり悪印象になると思い、それなりの覚悟をもって発言したのだが、今度は露骨に機嫌の良さそうな顔になる稔。ますます訳がわからなくなり、蘭子は視線を右往左往させて困惑する。
稔は髪から手を離すと、笑顔のまま問いかけてきた。
「蘭子、確か次の土曜はオフよね。その日、用事ある?」
「えっ、あ、えーっと、午前はちょっと用事が。ご用でしたら午後から」
「何の用?」
瞬く間に顰め面へと戻りながら、稔は顔をずい、と蘭子に近づける。全く感情が読めず、蘭子は内心で悲鳴を上げながら両手を上げ、降伏のようなポーズを取りながら弁明した。
「いえ、あの、すんごく個人的な用でしてっ、あんまり人に言いたくないというかっ」
「私に言えないようなことをするってこと?」
「はいぃ!?」
「こーら稔」
いよいよ脳がオーバーヒートに陥りかけた瞬間、見かねた
「蘭子が困っちゃうでしょ」
「……そうね、やりすぎたわ。ごめんなさい蘭子」
「い、今のはさすがにびっくりです」
辛うじて言葉を返したものの、未だに落ち着かない心臓をなんとか鎮めようと蘭子は少々大げさな動きで深呼吸する。三回繰り返してどうにか人心地を取り戻してから、稔に向き直った。
「よ、よし、はい! 不肖菓蘭子、もう大丈夫ですっ!」
「そう。土曜の用事は一人? だったら私も連れて行ってね」
「はい?????」
☆
土曜日、朝九時五十分。蘭子と稔の姿は、秋葉原のショップ前に出来た列の中にあった。列を作る人間の男女比は七対三といった具合で男性の方が多く、リュックサックに大量のラバーストラップを着けた男性や、いわゆる痛バッグを下げる女性などでまま「濃い」光景となっている。
そんな列の中にいて、ブラウスにバルーンワンピースというガーリーコーデの蘭子と、半袖のシャツにカーゴパンツといったカジュアルコーデの稔は、浮くほどではないにせよ周囲の人間とはまた違った空気感を生みだしていた。
「それで、何で並んでるの?」
平然と並んでいる稔だが、無論彼女は付き添いである。それも、結局何が目当てか口を割らなかった蘭子に、待ち合わせの約束を強引に取り付ける形でこの場にいた。
さすがに現場まで来たことで蘭子も観念したのか、稔の発言に対する周囲の反応を若干気にしながら、おずおずとスマホの画面を見せる。そこには、週末の朝方に放送している女児向けアニメの公式サイトが映っていた。
「こちらの作品に出ているランの推しがですね、この度ポップアップストアでめでたく商品化するということでですね、初日に最速で大人買いしに来た、という……ワケです」
「それだけ? ならどうして黙ってたの?」
視線を泳がせながらもごもごと煮え切らない口調で説明する蘭子に、稔は首を傾げる。しかし、蘭子は依然として目を泳がせたままやや早口になった。
「いやあの、やっぱこうランにもオタクとして一線引いておくべきところがあると言いますかなんと言いますか、あんまりこういうのがわからない人に対してお話しても~みたいなところもありますし、ほら人によって感じ方ってそれぞれで、決めるぜ覚悟とは言ってもランだってこういうのが原因で距離取られたりしたら傷心は免れないなぁってところがあって」
「そう。ところでそれ何話くらいあるの?」
内心で怯えながら口に出した本音をさらりと流されたうえ、予想外の方向に話題を転換された蘭子はほぇ、と間の抜けた声を上げる。言われた言葉を理解するのに数秒かかったようで、しばらく体ごと固まってから人であることを思い出したように動き出した。
「え、あ、こちらですか。えーとこれ単体だと今三十七話で、あと一クールくらい続く予定ですね。シリーズ作品があと二作ほどあったりしますけど」
「全部でどれくらい?」
「え、全部ですか……二百ちょっと、くらい、ですかね」
ただの質問だと思って素で答えてから、蘭子はまさかと思い急速で稔の顔を見る。稔は顎に手を当てて何やら考え込みながら質問を続けた。
「DVD・ブルーレイとか持ってる?」
「え、ちょっと待ってください稔ちゃんまさか」
「ええ。私も観てみようかと思って」
柔らかな微笑みを向ける稔とは対照的に、蘭子は鳩が豆鉄砲を食ったような顔でまたも硬直する。それから思い出したように慌て直しつつ、やや大げさな身振り手振りを交えて問いただし始めた。
「いえあのっ、二百話ですよ!? 時間にして八十時間くらいになるわけで、確かにランは気分で見返したりしますけどそれを全部今からなんてのは流石に」
「いいわよ。蘭子がそれだけお熱なら、私も観てみたいもの」
涼しい顔で返され、またも呆気にとられる。元より何を考えているのか探りづらいところのあった稔だが、今日の言動は蘭子にとって、一段と予想も理解もできないものだった。
目まぐるしい表情の変化を楽しむように笑う稔に、蘭子は恐る恐るといった様子で最後の念押しをする。
「……稔ちゃんは、どちらかと言うと映画がお好きで、あまりアニメなどには明るくないと存じてます。その、感性に合うかどうかは保証ができませんよ……?」
「ええ、そうね。でもいいの。あなたと同じものを、あなたと観たくなった。それじゃ不満?」
人差し指を立てて微笑む稔に、ついに蘭子が折れた。それとほぼ同時にショップ店員が列の前に現れ、立ち並ぶ人々が動き出していく。
店内へと歩みを進めながら、最後に蘭子は振り返って言った。
「あ、ひとつだけ。今回はシリーズのポップアップですので、本当に全作観るというなら多少のネタバレが含まれる恐れがあります。ですからあんまり中を見ないで、見たとしても一時的に忘れてくれると」
「そう」
稔は頷くと、蘭子に腕を絡めてぴったりとくっついた。少しの身長差もあってか肩に顔を預けるその姿勢に、蘭子は理解が追いつかずフリーズする。そして、今度ばかりは抑えきれず悲鳴を上げた。
「どぁああぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁあぁぁああ!?」
「ふふ、見ないようにして転んだら大変だものね? ほら、行きましょ」
「どっ、なっ、は、はぁぁ~~~……ああもうわかりましたよぅ! ランの半身、お貸しします!」
周囲の客から睨まれることにも最早気づけないまま、蘭子は稔を連れてショップの階段を登り始めたのであった。
☆
タレント寮、一階リビング。そこでは、今まさに中間テスト一週間前を迎えたましろ、ひとみ、弦音、彩乃が追い込みの勉強会を開いているところだった。とはいえ、普段の授業から仔細にノートを取りしっかりと復習するひとみにはその必要がなく、他三人の面倒を見る形になっているが。
「ま~じで無理……意味わからんし……」
「早い。一つ覚えるごとにバテてたら、テストなんて出来ないでしょ」
加えて言うと、ましろと彩乃は別段成績に問題がある訳ではない。二人とも中堅、平均値に近いくらいの位置にいるため、事前に復習する機会を設ければ大きくテストを落とすこともないのである。
しかし、弦音だけは訳が違った。元より記憶することが大の苦手で、大好きなギターでさえ覚えて弾けるようになったのはアイドルを初めてから。そのため成績はまま危なく、暗記の多い科目は特に天敵なのである。
そのうえ、
「最近おとーさんからマジ鬼電来るし……あーしそんな信用できんかなぁ」
「今日誘わなかったら、自分で勉強してたの?」
ひとみの鋭い返しに、弦音はうっと唸って言葉を詰まらせる。この勉強会自体、自分が声をかけなければましろが復習を忘れるだろう、というひとみの提案に二人が乗る形となっており、言われた通り弦音一人であればまず復習などしなかったことは想像に難くない。そして、実際に復習してみれば出題範囲の半分も授業内容を覚えていなかった。これでは文句など言えるはずもない。
それでも、事実と感情は別問題とばかりに弦音は机に身を投げる。
「んなこと言わないでよママ~!」
「ママって」
「あはは、確かにひとみ、お母さんみたいだもんね」
膨れ面で駄々をこねる弦音と屈託のない笑みで同調するましろに、ひとみは溜め息をつく。
「ましろが昔から忘れっぽいせいでしょ」
「違うよ、間に合うようにやろうとしてるだけ」
「それで当日になっても忘れてたこと、一度や二度じゃないんだから」
腰に手を当てて呆れるひとみだったが、ポケットの振動で表情を変えてスマホを取り出す。通知の内容を確認すると、鞄を持って三人に向け指さした。
「じゃあ私、月乃さんとレッスン行ってくるから。ちゃんと今日の分終わらせてよ、特にましろと弦音!」
「んー」
「うぇーこの量全部やんの~?」
「ありがと、ひとみも頑張って!」
生返事を返すましろ、大声で不満を垂れる弦音、拳を握ってひとみを見送る彩乃。三者三様の反応に拭いきれない不安を感じながらも、ひとみは寮を出て行った。
残された三人の間に、少しの沈黙が流れる。シャーペンをノートやワークブックに走らせる音だけが続くも、二分もしないうちに弦音が体を背後へ投げ出し大の字になった。
「無理~! なんでこんなメンドーでムダに長い言葉ばっか出てくんの~!」
「でも覚えないと、テスト落としたら仕事どころじゃなくなっちゃうよ。そしたら右城さんとか前野さんにも迷惑かかっちゃうしさ」
「アイドルなんだからベンキョーできなくてもいーじゃーん! 仕事でニホンシ使うことないし!」
両腕をばたばたと動かして騒ぎ立てる弦音に、彩乃は困り果てた様子で嘆息する。増援を仰ごうとましろの方を見ると、ましろは何やら真剣な表情でペンを動かしていた。
「ほら、ましろも凄い真面目に……何書いてんのそれ?」
あまり良い手段でないとは思ったものの、その様子を弦音に伝えて発破をかけようとした彩乃だったが、言葉の途中でましろのペンがノートの端に向いていることに気付き、それを覗き込む。これは流石に気になったのか、弦音も上体を起こしてましろのノートを覗いた。
「え、うーん……桃の精、みたいなの」
ノートの端には、桃の断面から顔と手足が生えたような、何とも言えない表情の生き物が描かれていた。表情の真剣さとは裏腹に、特に何も考えずに描いていたようで、改めて見直してから「微妙かも」と呟く。
その様子を見て吹き出す弦音。彩乃は微妙な表情で固まりながら、ひとみ無しでこの二人を制御する難しさに内心頭を抱え始めていた。
そこへ、階段の方から足音がする。見てみると、ルームウェア姿の恭香がスマホ片手に部屋から降りてきていた。
「やほ、何やってんの?」
「恭香さん。今、勉強会してたんですけど、ひとみがレッスン行っちゃって」
「あー、そういうこと」
並ぶ顔ぶれと彩乃の発言から、恭香は大体の状況を察したらしく、笑顔で頷くとましろと弦音の間に座った。
「それじゃ、お姉ちゃんが二人の勉強見てあげよう」
「いいんですか?」
「いいのいいの。ほら、弦音はどこがわかんない?」
「全部~」
二人の背中を軽く叩きながら、恭香は彩乃に向けて綺麗にウインクする。それに頷き返しながら、彩乃は心の中で恭香を拝んだ。
「あー暗記科目か。全部覚えるのは厳しいね」
「っしょ!? やっぱムリだよね!」
「それじゃあさ、テスト範囲の中でも覚えやすいところをピックアップしてこうよ。短かったり、語感が良かったりすればスッと頭に入るでしょ? 無理して覚えるくらいなら捨てちゃって、とりあえず平均点くらいを目指そ」
弦音に指導しながら、時折ましろの方を見て身が入っていなければ注意する。そのどこか手馴れた様子にほとほと感心しながら、彩乃はふと気になったことを尋ねる。
「恭香さんはテストとか大丈夫なんですか?」
「私? 大丈夫だよ、さっきまで復習やってたし。ゼロ期生のお姉さんたちは成績落としたりしないから、安心して頼っていいからね」
自分も中間が近付いているというのに、それを歯牙にもかけない恭香に羨望の視線が集まる。その余裕に何か感じるところがあったのか、やがて三人は黙々とペンを走らせ始めた。
一方、寮を出て月乃と合流したひとみは、合流地点の駅からレッスンスタジオに向けて歩いていた。
雨こそ降っていないものの、梅雨入りを過ぎたせいか曇天の下は湿気が多く、高い気温も相まってじんわりとした空気が肌にまとわりついてくる。
煩わしそうに手やシャツで仰ぎながら、月乃は隣を歩くひとみに問いかけた。
「そろそろ中間だけど、問題なさそう?」
「はい。少なくとも私は、ですけど」
含みのある言葉と苦笑いで返すひとみに、月乃もまた微笑み返す。
「なら良かったわ。先週、誕生日だったでしょ? 中間が終わったら、何かお祝いさせて」
「そんな、気を使わなくても。お祝いなら、もうしてもらいましたし」
先週―――六月八日をもってひとみは十六歳になり、寮のリビングでパーティをしたばかりだった。月乃は仕事でその場にこそいなかったものの、日が変わるタイミングで祝いの言葉を贈ってきたことに変わりはない。
「遅くなったけど、ちゃんと祝わせて欲しいわ。これから苦楽を共にする相方だもの」
そう言われてもまだ少し悩んでいたひとみだったが、最終的には恥ずかしげな笑顔でそういうことなら、と頷いた。
「それじゃあ、来月は期待しててくださいね」
「ふふ、ええ。もちろんよ」
嬉しそうに微笑みあって、二人はスタジオへ入っていった。
☆
昼過ぎ。早めの昼食をとった稔が蘭子を連れていったのは、アウトドアショップだった。自然をイメージさせる内装の店内で、稔は登山用具のコーナーにいる。
「あのー、稔ちゃん?」
「なに?」
「これはショッピング……ということでよろしいんでしょうか?」
真剣な顔でやや厚手のアウターを睨む稔に、蘭子は困惑を隠せない様子で尋ねる。行きたいところがある、と言われたのみで詳細がわからないうえ、雰囲気を見るにこの場で買うようにしか見えない。
すぐには質問に答えなかった稔だが、やがて一着のアウターと近くにあったシャツ、パンツを手に取って振り返った。
「いいえ、前準備よ。蘭子、これ着てみて」
「え、ランが着るんですか?」
「ええそうよ、ほら早く」
服を手渡され、背中を押されて試着室へ向かう。言われるがままに着替えてカーテンを開けると、稔は腕を組んで満足そうに頷いた。
「これで良さそうね」
「いえあの、何のことだかさっぱり」
「脱いで。買うから」
着てすぐに脱げと言われ、わけもわからないまま脱いだ服を返す。すると稔はそれを持ってレジへと向かい、会計を済ませて戻ってきたかと思うと今度はその袋を渡してきた。
「はいこれ、プレゼント」
「どえっ!? いやいやいや、何でですか! さっきから全然まったくこれっぽっちも理解が追いつかないんですけど!」
先輩(かつ推し)に金を出させたことで限界に達したのか、遂に疑問が爆発した蘭子に、稔は屈託のない笑みで返す。
「本当にそう? 推理してみて、あなたならきっとわかるはずよ」
「推理、って言われても」
「ヒントは私のプロフィール。今から見るのは禁止ね」
―――試されてるっ!
蘭子は思わず直感する。理由はわからないが、説明もしないまま連れ出して季節外れに近い服を贈ってきたのは、自分のことを知っていれば自ずと理解できる、ということだったようだ。それならそうと最初に言って欲しい、という思考を振り払って蘭子は考える。ヒントがプロフィールにあるということは、これは自分のドルオタ力に対する挑戦状と言ってもいい。全ての項目を覚えていれば、類推することができるはずだ。
幸いにも、十人しかいない同僚アイドル全員のプロフィールは全て頭に入っており、暗唱も余裕でできる。蘭子は急ぎ脳内のアイドルデータベースから稔の情報を引っ張り出した。
天体観測?
「……まさか稔ちゃん、今日はこのまま」
「あら、わかった? はっきり言ってくれないと、答え合わせのしようがないわ」
回答にたどり着いた蘭子に、稔は一層嬉しそうな様子で聞き返す。
「このまま、天体観測のために」
「正解。山に登るわよ」
「先に言ってくれませんか! なんで当日準備なんですか!」
疑問が晴れてなお感情豊かに騒ぎ立てる(加えて言えば登山が嫌とは一言も言わない)蘭子を、稔は何も言わず笑顔のまま見つめていた。
その後、準備をするからと一時的に解散して、二人はそれぞれ家と寮に戻る。リビングで勉強する三人と監督役の恭香に軽い挨拶をしてから、蘭子は部屋に入り今朝買ったグッズを丁寧にベッドへ置き、先刻買ってもらった登山着へと着替え始めた。夜は冷え込むとはいえ、まだ夕方。アウターは畳んでリュックに詰め、半袖の動きやすい服装になる。
「なんというか、普段のランなら決してしない格好……これもアイドルになったからこその経験、ってことかなぁ」
姿見の前で体を左右に振って身なりを確認し、荷物を持って部屋を出る。珍しくお洒落さの低減した格好の蘭子に、リビングにいる四人の視線も集まる。
「どした蘭子」
「どぅえ、いえちょっとその、登山に?」
「あー、稔と! 楽しんできなよー」
ひらひらと手を振る恭香にこちらも手を振り返し、急ぎ足で寮を出る。稔が集合場所に早く来るのはわかっている、であれば後輩の自分がそれに遅れる訳にはいかない。
徒歩四分をかけて事務所の最寄り駅に行き、指定された駅まで電車に乗る。車窓から見える街並みを眺めながら、思わず溜め息をついた。
「大丈夫かなぁ」
蘭子からしても、今日の稔はいつも以上に掴みどころがなかった。元より、第一印象に比べて非常にノリがよく、思わせぶりな台詞で弄ぶいたずら好きなところはあったのだが、ここ最近―――それこそ、Luminous Eyesが結成されてからは拍車がかかっている気がする。
何を考えているのかわからない、ミステリアスな部分も稔の大きな魅力だ。それは彼女のファンも、左枝や後藤も、そして蘭子自身も重々理解してはいる。しかし、こうも振り回されるとその原因がどこにあるのか、気になって仕方がない。
そんなことを考えているうちに、目的の駅に到着する。話によれば稔の家からの最寄りらしく、ここから山に行くまで更に電車で移動するためホームで待っていて欲しい、とのことだった。
ホームのベンチにリュックと腰を下ろす。微妙な時間ということもあってか、蘭子の他には五人ほどがまばらに立っているだけで、乗降車が終わったホームに人の気配は少なかった。
どうやら稔より早く着いたらしい、と判断してスマホを取り出し、SNSを開いて投稿をチェックする。最近の観測対象は、もっぱら推しよりも新人アイドルに偏っていた。
ここ二年以内、特に今年になってからデビューしたデュオユニットであれば、参加資格を持つBrand New Duoで自分たちのライバルとなる可能性もある。情報は多いに越したことはない。
「やっぱり、カタいのは……」
日本全国、多種多様なアイドルたちの中でも蘭子が目をつけているのは、音楽アーティストで言えば国内最大手の事務所、
結成二年目ということもあって間違いなく当たる相手、かつ最大の敵にもなりうるだろう、というのが蘭子の見解―――
「何見てるの?」
「どわぁぉ!?」
唐突に耳元で囁かれ、声を上げて驚く。危うくスマホを落としそうになり、宙に浮いたそれを慌ててキャッチした。早鐘のように鳴る心臓を押さえながら振り向くと、そこには登山着に着替えた稔が立っている。
「お、お疲れ様、です?」
「私、そんなに足音小さいかしら」
稔は足音が小さく、人に近付いても気づかれないことが多い、というのは周囲の意見だが、蘭子に言わせれば驚く程気配がしない。ほとんど人のいない駅のホームという場でこれほどまでに気配を消せるのはもはや才能だろうとすら思ってしまう。
しかし、当の稔からすると話しかける度に驚かれるのは流石に許容し難いらしく、できるだけ音を立てて歩くよう心掛けているそうだ。
「なんて言ったらいいか、ままならないわね」
「そ、そぉ~ですねぇ~」
やや怯えながらも相槌を打ち、頬を膨らませる稔と並んで座る。電車を待つ中、話題は自然と元に戻っていった。
「それで、何見てたの?」
「あ、はい。Brand New Duoに参戦してくるであろう、他の事務所のアイドルたちの目星をつけてました。ライバルの情報も、きちんと仕入れておかないとですから」
「そう。でもあなた、まず自分が誰と組むのかを考えないといけないんじゃないの?」
痛いところを突かれ、うっと声を上げる。そのタイミングでホームにアナウンスが響き、電車が二人の前に停車した。
稔の先導で電車に乗る。中は混んでいるというほどでもなく、二人で並んで座ることができた。若輩とはいえ芸能人、周囲の目に気を配りながら会話を続ける。
「他のところの有望株っていうと、やっぱり大手?」
「そうですね。オタクの誇りにかけて、まんべんなく情報収集してるつもりですが、やっぱり大手となるとオーディションやレッスン設備、トレーナーさんの質も違ってきますから。ラン的に最後まで残りそうなのはこちら、楽園の新人デュオ・IG-KNIGHTです」
蘭子が差し出したスマホの画面に、稔も睨むように見入る。赤と紫を基調としたロック系の衣装に身を包んだ、高校生くらいの女性二人によるアイドルユニットだ。
「楽園から去年デビューした新人、とは言え二人共大規模オーディションを勝ち抜いて、二年間の下積みを超えていますから、ランたちとは”新人”の意味が大きく違います。
真剣な顔で語る蘭子に、稔も真剣な顔で頷き返しながら人差し指を出し蘭子の持つスマホを操作する。音量がゼロになっていることを確認したうえで、IG-KNIGHTの最新MVを再生した。
石切場のような荒廃した暗い雰囲気の背景を背に、赤と紫のバックライトを背負いながら歌い踊る二人のアイドル。もしこれがアイドルになる前に見たものであれば気にも留めなかったであろう細かな振りの仕草が、アイドルとなった今では真に迫る名演とも言うべき強さと衝撃を与えてくる。確かに、今の自分とでは雲泥の差だ。
しかし、それを見て稔は口角を上げていた。画面の中のライバルを真っ直ぐ見据えながら、不敵な笑みで呟く。
「なるほど、このレベルを超えるのが目標ってことね」
その声色には不安も懸念もなく、ただ挑戦的な喜びが現れていた。それを聞いて、蘭子も強く頷く。
「はい。これくらいにならないと、目の前の壁を超えるのは不可能です」
二人の間に、現実を目の当たりにした不安やショックはまるでなかった。自分たちのレベルと目指す先を天秤にかければあと半年で追いつき、あまつさえ追い越すなど容易なことでないのは火を見るより明らかだろう。
しかし、それでも。元よりわかりきっていたことが、明確に形を持って迫ってくる、その段階に至っただけ。であれば、あとはただひたすらに努力するのみ。そう断じて疑わない、力強い視線が交錯した。
「やる気十分みたいね」
「もちろんです! ランだってアイドル、ならこのハートはきらめく未来の可能性でいっぱいですから!」
胸に手を当て強気で言い切る蘭子に、稔も微笑む。そうしているうちに電車は街並みを少し離れ、目的の駅へとたどり着いた。
電車を降り、駅から出ているバスに乗って山の麓へと向かう。少しずつ緑豊かになっていく景色を見て、蘭子は思わず稔へと問いかける。
「えっと、これってそこそこ難易度のある感じですかね?」
「そうでもないわ。観光地ってほどでもないから、普段から登山する人でもなければ来ないっていうだけ。ロープウェイに人が乗ってるところも、あまり見ないし」
言葉を返しながら、稔は自分のリュックを開けてスポーツドリンクを一本取り出す。そして、保冷剤から離れ結露し始めたそれを蘭子に差し出した。
「一本じゃ足りないだろうから、餞別」
「えっ、あ、ありがとうございます」
確かに、言われてみれば飲み物は一本しか持ってきていなかった。少し準備不足だったなと己を戒めつつ、ペットボトルを受け取る。
「一口くらいつけておいた方が良かった?」
「どぇっ」
完全に油断していたところに思わぬ発言を差し込まれ、思わず声が出る。稔は冗談よ、と笑いながら人差し指を唇に当てた。その仕草といたずらな笑顔に、蘭子は顔を赤くして返す。
「そ、そういう思わせぶりなのはファンの方たちにお願……いや稔ちゃんの顔の良さでそんなことされたら一般オタクは死んでしまう……」
「ふふふ。ほら、もう着くわよ」
バスを降りると、そこには簡素な駐車場とロープウェイ乗り場、登山コースの入口が並んでいた。簡素な作りに加え、夕方に差し掛かるということもあり人気のない光景はどこか寂しさを感じさせる。
登山の経験はほとんどない。両手を握って気合いを入れる蘭子を見て、稔は嬉しそうに微笑むと歩き出した。
歩き始めてしばらく、稔の言っていた意味を理解する。人こそいないものの、登山道は綺麗に舗装されており、全体的になだらかで歩きやすい道になっている。その分、頂上付近に着くまでは少し時間がかかると思われるが、登山慣れしていない蘭子から見てもちょうど良いくらいに出来たコースだった。
時折振り返りながらも先を行く稔に、蘭子は何気なく問いかける。
「稔ちゃん、よくここに来るんですか?」
「そうね、二・三ヶ月に一度くらい。来たい気分になった時と……大切なことの前に」
「それじゃあ、スカウトを受けた時も?」
振り返らずに答えていた稔が、ふと足を止めた。蘭子もそれに倣うようにして、数歩後ろで停止する。
そして、頂上を見上げるように顔を上げ、呟くように答えた。
「ええ、聞きに来たの。私、一等星になれますか、って」
☆
「終わったー!」
「おー」
タレント寮リビング。本日のテスト勉強を終わらせた彩乃が大きく伸びをし、その横でましろが拍手を送る。
一方、未だ難しい顔で唸る弦音の肩に、恭香が手を乗せた。
「ほら頑張れ! もうちょいもうちょい!」
「うぇ~~、全然アタマに入ってこないし……」
口を尖らせながらスローペースでシャーペンを走らせる弦音。そんな折、玄関扉の開く音がしたかと思うと、千里がリビングに顔を出した。
「ただいま~! あら~みんなお揃いで勉強してるの~?」
「千里さん、お帰りなさい」
「おかえりなさーい」
柔和な笑顔でましろ達の顔を見渡して、千里は胸に手を当てる。
「わからないところがあったら聞いてね~? これでも私、お姉さんだから~」
「ちょうどいいじゃん、ましろ数学ちょっと残っ」
「あ、ごめんなさいね~私理数系はサッパリなの~! お釣りの計算とかできないのよね~」
自信のありそうな発言から急転直下、彩乃の提案をばっさりと切り捨てるマイペースぶりに微妙な空気が流れる。千里も恥ずかしかったのか、取り繕うように手を叩いた。
「そうだわ、お夕飯作るわね~! ご飯食べれば勉強もきっと捗るわよ~」
「ああっ! あたし手伝います!」
手洗い・うがいのついでとばかりにキッチンへ向かう千里を、慌てた様子で彩乃が追いかける。その背を見送り苦笑しながら、恭香はましろへと顔を向けた。
「だってさ。ましろも食べてく?」
「んー、あー、お母さんに聞いてみます」
スマホを取り出し、文字を打ち始めるましろ。それを見て恭香が休憩にしよっか、と言うと弦音はそれまでの態度が嘘のように伸びをして、そのまま大の字になるように寝転がった。
キッチンの方からは、切羽詰まったような彩乃の声と間延びした千里の声が聞こえてくる。
「ストップ! ストップです千里さん!」
「あら~、もういいの~? ましろちゃんもいるんだし、少し多い方がいいんじゃないかしら~」
「もう十分多いですよ!」
その声に、慣れた様子で苦笑を向ける恭香と弦音。視線を戻すと、ましろがきょとんとした表情でスマホを見つめていた。
「どうかした?」
「あ、なんでもないです。ご飯食べていいって」
「お、やりぃ! なんならあーしの部屋泊まってく?」
弦音の前のめりな提案にパジャマないよー、と笑って返しながら、ましろは机にスマホを裏返しで置く。その画面には、母親とのトーク画面がまだ映っていた。
『寮でご飯食べていい?』
『いいよー ひとみちゃんも一緒?』
『レッスンだから違う』
『そっかー さすがに一緒にいる時間減ってきたね』
☆
日が暮れかけ、橙色の空が紺色へと変化していく頃。稔と蘭子は山の頂上付近までたどり着いていた。首にかけたタオルはたっぷり汗を吸い、持ってきたスポーツドリンクはほとんどなくなっている。
登山コースの終わりを知らせるロープウェイ乗り場の前に来たところで一度立ち止まり、稔は振り返った。
「ここで登山コースとしては終わり。大丈夫?」
「全然、問題ないです! アイドル、ですから!」
少し息を切らしながらも、威勢良く答える蘭子に稔は笑顔を見せたかと思うと、ロープウェイ乗り場の入口にある自動販売機に立ち寄る。そして、買ってきた飲み物のうち一本を蘭子に向かって投げ渡した。
「はいっ」
「どぅわっ!? おっ、とと!」
驚きながらも受け取ってみると、それはミニサイズのペットボトルに入ったカフェオレだった。
流石にいたたまれなくなり、蘭子は声を上げる。
「あの! 別に買ってもわらなくても、ラン自分で」
「いいの。付き合ってもらってるんだもの。それとも、カフェオレは嫌い?」
アイドルとしても年齢でも先輩の立場にある稔からそう言われてしまえば、これ以上反論できない。まだ何か言いたそうにもごもごと口を動かしながら、蘭子は大人しくカフェオレをリュックのサイドポケットに差し込んだ。
その場からもう少し歩き、階段になっている道を上がる。すると、山の頂上にしてはなだらかで広さのある開けた場所に出た。見渡す限りではもう登る先もなく、蘭子は無事登頂したことを安堵するように長く息を吐く。
稔はリュックから二脚の椅子を取り出すと、背中合わせになる向きで少し間隔を開けて設置し、その上にブランケットをかけた。手際の良さもさることながら、明らかに自分より多い荷物を持ってきていたことに蘭子は目を丸めて驚く。
「み、稔ちゃん、その量を一人で?」
「ええ。望遠鏡を持ってくる時よりは楽だから、大したことないわ」
事も無げ、と言うよりは少し自慢げに笑う稔を前にして、蘭子はその高い実力の一端を垣間見た。
少しずつ夕方が夜に染まっていく中、二人は背を向け合うように椅子にかけ、体が冷えないようブランケットを膝にかけて空を見上げる。僅かに残ったオレンジは溶けるようなグラデーションで紺色に変わり、東からやってくる濃紺の中で大小様々な星々が煌めいている。山の上から見ていることもあり、街の中からでは見えないような小さな星もはっきりと目に映り、空模様と合わせて一つの芸術とでも言うべき完成された情景となっていた。
琴線に触れる光景を前に、思わず嘆息して見入る蘭子。自然の大きさ、広さが視界いっぱいに広がり、まるで絵画の世界に踏み込んだかのような独特な浮遊感を覚える。一言も発さずに星を見るしばらくの間にも、段々と空の色は変わっていき、やがて完全に夜空となった。
どれだけの時間が経っただろうか、時の概念を忘れてしまうほど星空に見入っていた蘭子に、稔が声をかける。
「ね、蘭子」
「はい」
「あなた、事務所の中で一番好きなのって誰?」
「いや修学旅行のノリ!」
雰囲気に押され、場に合ったロマンチックな台詞や稔のアイドルとしての心持ちなどが聞けるのかと思った矢先、予想外の台詞が飛び出したことで思わず突っ込みを入れてしまう。稔は鋭い返しに少し笑いながらもいいから、と返答を促した。
蘭子はしばらく悩む。はっきり言えば箱推しで、誰が一番だとか優劣だとかそういうのじゃない、アイドルの輝きは一人一人違う、と言いたいところだったが、その場の雰囲気か星空に絆されたか、自然と口から言葉を落としていた。
「……贔屓目なしに、ラン的な好みで言えば、それこそ稔ちゃんですけどね」
大自然の静寂の中、沈黙が流れる。
―――もしかしてラン、今めっっっっっっっちゃ恥ずかしいこと言ったんじゃないですか?
ほぼ意識しないうちに出た言葉ということもあって、それが自分の言葉だと気付くのに数秒、そこから更にこの状況でそんな言葉を発する意味を考えて数秒、かなり遅れて蘭子は顔を真っ赤にする。鼓動が急激に早まり、途端に冷静ではいられなくなった。
どうにか落ち着こうと泳がせていた視線を空に目線を移した瞬間、何かに視界を塞がれる。それが稔の顔だと気付くのに、混乱もあってまた時間をかけた。
「……どぅぇ」
「蘭子、私とユニット組んで」
焦点が合うギリギリの距離で、稔と目が合っている。視線を動かそうにも、頭を下げたことで稔の髪がカーテンのように視線の行き場を打ち消しそれを許さない。
「は、ぁ、ぁの、どうして、ラン、なんでしょう、か」
もはや平静を装うこともできずに、思ったことを口に出す。稔は静かに目を閉じて、語り聞かせるような穏やかな口調で返した。
「デビューしてすぐ、二月ごろね。私にアドバイスくれたの覚えてる?」
「へ? あ、いや覚えてますけど」
それは、四ヶ月前の話。デビューしたてでまだ一期生の中に緊張ばかりがあった頃でも、蘭子は必死にノートをとって持ち合わせのアイドル情報と照らし合わせるなど奮起していた。
ある日、見学していたレッスンの中で稔の振りに気になった点があった。しかし、自分は後輩で歳下、そう簡単に意見してよいものかと悩みに悩んだ末、稔のためを思って伝えることにしたのである。
『大っっ変僭越ながら、ちょっと気になったことがありまして! その、今のままでここのこの振りをやってると、多分ちょっとずつ足首を痛めてしまうのではないかと!』
蘭子にとっては、勇気を振り絞ったとはいえたったそれだけのことだった。今となっては誰が相手でも良かれと思えば口を出すし、トレーナーの太鼓判を経て月乃や恭香からも信頼を勝ち取っている。
「あの時私、とても嬉しかったの。立場も気にせずはっきりと言ってくれて」
「いえ、あの、ランとしては当然のことをしただけと言いますか、お節介しただけと言いますか」
「でも、ひとみは場馴れするまで言ってこなかった。あの日からずっと私、あなたのこと気に入ってるのよ」
至近距離で嬉しそうに語られ、逃げることもできずに心臓の動きばかりが加速していく。このまま行けば爆発するんじゃないかという蘭子の懸念も届かないまま、稔は続ける。
「蘭子の好きなことに一生懸命努力する姿勢、すごく輝いて見えるの。私もそうありたい、って憧れるくらい、あなたのことが好き」
「好っ、はっ、どぇ!?」
直球な言葉が出てきたことで、喉奥から心臓が飛び出そうな勢いで驚く。すると、稔は蘭子の頭に手を添え、そっと額を合わせてきた。
「ええ、好きよ蘭子。ユニットを組めって言われた時から、あなたのことしか頭にないくらい。もしあなたが他の誰かと組みたがってるならって思ってたけど、決まってないんでしょ? それとも、私とじゃ嫌?」
額に蘭子の熱を感じながら、稔も自身の鼓動が早まっていくのを感じ取る。素直に言えば、これほどまで自分が後手に回るとは思っていなかった。蘭子の気持ちを優先させるようなこともせず、最初からアプローチをかけることもできた。それでも、思わせぶりな言動で弄ぶばかりで、Luminous Eyesが結成されるまで自分から動くことができなかった。
―――まだ子供ね、私も。
心の中で自嘲を零しながら、稔は膝の震えに気付かれないよう回答を待つ。
「……ずるいですよ」
ぼつりと呟いた後、今度は蘭子が稔の両頬に手を添え持ち上げる。耳まで真っ赤に染まった二人の視線が、再び交わった。
「
「……! ふふふっ!」
思わず脚の力が抜けそうになるのを堪えて、稔は自分の椅子へ戻る。ゆっくりと腰を下ろすと、長く息を吐いてから再び空を見上げた。
「綺麗ね」
「はい、とっても」
「今日は一際綺麗。あなたと来られて本当に良かったわ」
それからしばらく二人は無言で星を眺め、十分ほど経ってカフェオレがなくなったところで稔が立ち上がった。
「さ、帰りましょうか。忙しくなるわよ」
「はい! ランにどーんとお任せください!」
椅子とブランケットを稔のリュックへと片付ける。帰りの道はロープウェイだ。
「それじゃ、これからよろしくね。
「ぶぇっ」
「ふふ、特別な関係になるんだもの。これくらいはいいでしょ?」
笑顔で人差し指を立てる稔に、蘭子は頬を紅潮させて言った。
「いいですけど! あんまり思わせぶりなのはよしてくれないと困りますからっ!」
☆
翌週、蘭子と稔のSNSには衣装に身を包んだ二人の写真が投稿された。
『新着情報・重大発表! この度、先輩アイドルの明星稔ちゃんと二人組ユニットを組ませていただくことになりました! まだまだ若輩者ですが、二人で精一杯頑張っていきたいと思います!』
『重大発表 事務所の後輩、菓蘭子ことランと一緒にユニットを組むことになりました。ずっと二人でお仕事したかった子なので、こうした形で二人一組になれたことがとても嬉しいです』
『ユニット名は”ステラ・ドルチェ”』
『以後、こちらでの活動もお楽しみに! 先輩の力、お借りします!』
『これからの活動にご期待ください』
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