鱗の石 03
「――ああ、昨日のお嬢さんか」
少女がその屋台に辿り着いたのは日が昇りきった頃だった。暇そうに店番をしていた男が、ユーアに気づいて顔を上げる。
「あの変な兄さんはどうしたんだい?」
「撒いた。いくつか聞きたいことがあって来たんだが、問題ないか?」
「構いやしないよ。何が聞きたい?」
「これについて」
青い耳飾りを見せれば商人の男の顔から笑みが消えた。警戒の視線を向けられても、ユーアがそれを気にする様子はない。
「屋台で売っているにしては随分と出来がいいと思ってな。それとも、この街の装飾は全部こうなのか?」
しばらく沈黙していた男は、ややあって疲れたようなため息をつく。
「ここだけの話にゃなるが、その耳飾りは曰く付きでね。何でも、ラグニル侯の奥方の遺品らしい」
「ラグニル侯?」
「この街の貴族だよ。ひと月前くらいに精神を病んだ奥方が自殺した後、すぐに若い愛人を妻にしたとか。奥方の遺品もまとめて売っぱらっちまったんだそうだ。まったく気の毒だが、その後からやたらと羽振りがよくなったもんだから誰も何も言えねぇのさ」
「例の貴族のお偉いさんとやらか。その男は馬鹿なのか?」
「いや……まあ俺は直接取引したことはないが、他のやつから聞いた話じゃあ随分と厳格な男だったと聞いたよ? だが恋は盲目とも言うからなぁ……」
まだ少女と呼んでいい年齢の存在から直球に飛んできた質問に、男は少々たじろぎつつも答えた。ふむ、と口元に手を当ててユーアはしばらく考え込む。
「その愛人は何者なんだ?」
「さぁ? 骨抜きにされるってんならよっぽどいい女なのかね。実際にその女を見た奴は少なくとも俺の知り合いにはいない。前の奥方は自分で商人と取引をしていたが、今はラグニル侯が愛人……今は後妻か。そっちもまとめて取引をしてるんだよ。まあ、貴族じゃ珍しい話でもないがね……と、こんな話はお嬢さんにするものじゃないか」
「曰く付きの品を売っておいて今更何言ってるんだ?」
「……まあ、そういうこともあるさね」
男はあからさまに目を逸らす。フード越しに冷たい視線を向けていたユーアは、肩を竦めて口を開いた。
「もう一つ聞きたいことがあるんだが」
「な、なんだい?」
「あの塔は?」
指差したのは通りに並ぶ家屋の向こう。街の端の方にありながらもその存在感を失うことのない、青空を背景に佇む円柱状の建造物だった。
「ああ……ありゃ牢獄塔だ。罪人を捕らえておくのに昔使われていた建物だよ。ま、今となっちゃただの廃墟だがね。気味が悪いってんで悪ガキですら近づかねぇ」
「そんなものを残しておく理由があるのか?」
「牽制だよ。『いざとなればまたここを使うことも厭わない』ってことらしい。まあ残念なことに、今のラグニル侯にとってはもう無意味な建物になってそうだが」
「またその名前か……」
「実質的なトップだからねぇ」
耳飾りの魔道具とその所有者だった前妻、明らかに性格の変わった貴族の男とその前に突然現れた愛人の女。そして——街の住民が近づかない廃墟。
「あからさま過ぎて何かの罠かとさえ思えてくるな」
商人の男に聞いた話を頭の中で整理して思わずぼやいた。さて、ここからどう動くか。方針を考えていたところで、ユーアはふと何かを感じて振り返る。
「……全く」
フードの下で面倒そうに顔を顰めた少女は、踵を返して去っていく。その小柄な体は、不自然なほど自然に人混みへと消えていった。
***
果物の菓子を両手に持ち、サリアは人混みの中で立ち尽くしていた。その向こうでは階段に座って彼女を待っている妹がいる。しかしその隣には、さっきまで居なかった見知らぬ男が腰掛けていた。随分と背の高い男だ。特に目を引くのはこの辺りでは見たことのない、まるで暗闇を切り取ったかのように黒い髪。他所から来た人間だろうか。
のんびりと観察しそうになって我に返った。どうして見知らぬ男と幼い妹が一緒に居るのか。まさか祭りの賑わいに紛れてよからぬことを企んでいる輩なのではないか。だとすれば早くシェリンを引き離さなければ。
意を決してサリアは足を踏み出す。人混みを抜ければ、姉に気づいたシェリンがにこにこと手を振った。
「お姉ちゃん、この人迷子なんだって」
「……迷子?」
無邪気に告げられた言葉に戦意が削がれた。思わず聞き返した彼女に妹は頷く。
「助けてあげたい」
「……」
きらきらと目を輝かせたシェリンは乗り気のようだが、それは人さらいの常套句ではないだろうか。だいたい、迷子ならサリアやシェリンのような子供よりも大人を頼るべきなのだから。どう諦めさせようか、と考えながらちらりと男に目をやる。何やら項垂れている彼はこちらに気がついているのかもよく分からない。迷った末にサリアは口を開いた。
「えっと……あなた誰?」
恐る恐る声をかければ男は顔を上げた。その深く暗い穴のような色合いの瞳で不思議そうに二人を見て答えた。
「ワズ」
***
顔見知りの姉妹が、妙な青年を引き連れてやってきた。街の衛兵であるドミアスは顎髭を擦りながら口を開く。
「シェリン、その男は誰だ?」
「迷子なの」
「……サリア」
妹から姉に目を向ければ、サリアは苦笑いを浮かべた。
「一緒に来た人とはぐれたらしくて。ドミアスおじさん、この人知らない?」
二人の後ろに立っている青年を改めて見るが、記憶を探っても見覚えはない。彼とて全ての出入りを見ているわけではないのだ。とはいえ、黒髪も長身も印象に残る。他の衛兵に聞いてみれば何か分かるだろう。
「こいつは任せてお前たちは祭りを楽しむといい。だが最近は物騒だ。夜になる前にはちゃんと帰りなさい」
「……ありがとう」
「ドミアスおじさんは怖い顔だけど、優しいから大丈夫だからね」
「おい、シェリン」
余計なことを吹き込むなと窘めると、幼い少女はけらけらと笑って駆けていく。姉妹の背中が遠ざかっていくのを見て、ドミアスは小さく溜息をついた。
「ついて来い……何か言いたいことでもあるのか」
「ぶっそうって何だ?」
「お前には関係ない話だが」
「気になる」
好奇心に目を輝かせる青年に、少しばかり辟易しつつも彼は口を開く。
「……この辺りでは、最近若い女が行方不明になる事件がいくつか起きてる。詳細は分かっていないが、何者かの仕業ならサリアやシェリンが狙われる可能性もある。そういうことだ」
サリアとシェリンは亡き友人夫婦の娘だ。もし彼女たちに何かがあればドミアスは彼らに顔向けできない。しかしやはり、朴念仁な彼には頼りづらいのだろう。特にサリアの方は余程困ったことでもない限り訪ねてくることはなく、今日会ったのもひと月ぶりになる。
当の『困ったこと』は彼の説明に合点がいったのか、詰め所へと向かうドミアスの後ろを素直に付いてくる。ひとまず何か後ろ暗い事情があるわけではないようだ。世話を焼きたがっていたシェリンも警戒していたサリアも、この青年を気にしていたことには違いない。仕事が終わったら、報告がてらあの家を訪ねてみようか。
思索に耽る彼に青年が声をかける。
「ドミアスオジサンは怖い顔なのか?」
「ドミアスと呼べ」
***
男は苛立ちに顔を歪ませながら執務室の椅子に座っていた。目の前には山ほど積まれた書類がある。その一つ一つが煩わしい。治安がどうの祭りがどうのと、男に渡ってくるのは他人でもできそうな雑務ばかりだ。実際のところその仕事量を引き受け続けたのは過去の彼本人であり、その結果として優れた働きをし続けた信頼があるからこそ彼はこの地位に立っている。だが、今の彼にとっては地位もこの街もその全てがどうでもよかった。
治安などどうでもいい。祭りがどうなろうと知ったことではない。ろくに内容を読まずに書類にサインをする。そこにあるのは平時の彼であれば即座に棄却するはずの案ばかりだ。だが男は片っ端から承認してしまう。今の男にとって重要なのは、ただ一人――
そこで、不意に男の手が止まった。おかしい。なぜ思い出せないのか。その愛しい女の名前を呼ぼうとして、男は首を傾げる。否、そもそも一度でも彼女の名前を聞いただろうか。
……ああ、いや。そんなことはどうでもいい。今や彼女は男にとっての全てだ。彼女が喜ぶのなら何でもいい。彼女の望みであるのならばそれは何よりの正義だ。
男は濁った目で窓の向こうを見つめる。街の反対側にある高塔は、夕暮れの中で陰気な雰囲気を纏って佇んでいた。
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