黒竜の魔女

千鳥切

鱗の石 01

 ――、――。




 頭の中で何かが囁く。到底声とも呼べぬはずの音は、女にとって確かに囁きであった。


 


 酷く頭が重い。最後に人に会ったのはいつなのか。最後に食べ物を口にしたのはいつなのか。頭の中は霧がかかったように虚ろだ。何日も寝台に横たわったままだというのに、女は何日も眠っていなかった。眠ると、その霧の奥で囁く何かが近づいてくる気がするのだ。女はそれが怖かった。


 霧の中へと引きずり込まれたらもう戻って来られない。そうして次に目覚めるとき女はその何かに成り代わられているのだ。そんな奇妙な考えが女の精神を蝕んでいた。




 ――、――。




 瞼の向こうに灯りの気配を感じて僅かに目を開く。暗い寝室の窓からは人工的な光が見える。誘われるように、寝台から降りて窓を開いた女は露台に出た。夫から贈られた指輪が、遠くの大通りから届いた光で小さく光る。手摺を支えに立ってそっと息をつく。




「――、――」




 すぐ傍であの音がした。


 衣擦れか、細い吐息のような奇妙な囁き。




 女が固まったのは、その囁きが頭の中ではなく彼女の耳元で聞こえたからだ。ろくに力の入らなかった両手は指が白くなるほど強く手摺を握っている。それが自分の意思なのか否かすら錯乱した彼女には判断がつかない。一体いつから、あの霧の中の存在は現実に出てきていたのだろう。背後の暗い部屋がどうしようもなく恐ろしかった――部屋に戻るくらいなら、と考えてしまう程に。




 そうして彼女は奇妙な音から逃れるために、手摺から身を乗り出した。

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