東方三界黄龍伝 東京編

ペン銀子(小龍)

前編

1 異邦人

 小雨降る二月の東京はどこまでも暗かった。

 車窓から見える景色には、色が一つしかない。

 灰色の街――。

 それが、李沙龍リーシャロンの見た、東京という街の第一印象だった。

 細く角ばった高層ビルがにょきにょきと突き出している風景は上海と大して変わらないのだが、なにかが決定的に違う。

 それはゴミ一つ落ちていない無機質で機械的な街並みのせいなのか、誰とも視線を合わせようとせずに歩く人々のせいなのか、それとも、これは異国に紛れ込んでしまった自分の心細さが見せる風景なのか。

 しかし、沙龍自身は、心細いという自覚はなかった。

 地球上のどこであろうと生きていける自信はある。自分にはそれだけの力と、詰め込まれたサバイバル術があるからだ。

「とうとう雪になったみたいですよ。東京ではあまり降らないんですけどね」

 助手席に座っていた男が、振り向いて言った。

 春日かすがという日本人のサラリーマンで、貰った名刺には沙龍も知っている企業の名と部長という肩書きが記してあった。年齢は四十過ぎに見える。つまり、張大哥チャンターコと同じくらいだが、あの色男との共通点はなにひとつ見つけられそうにない。

 日本のサラリーマンはとにかくよく頭を下げて愛想笑いをするものだ、と聞いていたが、春日はびっくりするくらい「そのもの」だった。真面目で、腰が低く、仕事とあらば子供相手にも馬鹿丁寧な敬語を使う。

「雪……?」

 窓外を見る。

 冷たい小雨がいつの間にか雪に変わっていた。

「積もりそうですね」

 運転席の若い男が不安そうに呟いた。春日の部下である。日曜日に空港までどこかのVIPを迎えにいかなければならないという、厄介な仕事に借り出されているというのに、終始、自制心のきいた無表情を貼り付けていた。無駄口も一切きかない。

 〈ディグニティ〉が静かに停車した。センチュリーやレクサスにも引けをとらないといわれている、日本の高級車である。

 沙龍は車から降りて、宙に舞う白いものを確認した。

 そして、次に、目の前の灰色の建物を見上げる。二つの塔が引っ付いているような、この奇妙なビルが庁舎らしい。

 高速道路から見えたこの建物に反応したら、春日が「近くまで見に行きますか?」と言って連れてきてくれたのだ。

 頬に冷たい結晶が触れては落ちていく。建物の最上階あたりは、厚い雪雲のせいで見えなかった。上海のテレビ塔ほど高いわけではないが、見える範囲ではこの建物より高い建築物は見当たらなかった。

「雪、見るの初めてですか?」

「いえ……」

 雪を見ていたわけではないのにそう言われたので、拍子抜けした。わざとじゃないのだとしたら、観察眼も注意力もなさすぎる。有名企業の部長という地位にまで出世できたのはなにかのコネだろうか。

「上海でもたまに降ります」

 沙龍は硬い声と日本語で言った。

「あ、そうでしたね。ほとんど気候は変わらないという話ですから」

 春日が話す言葉はとても聞き取りやすいし、分かりやすい。

 外国人相手ということで、意識的にそうしてくれているのだろう。

 さらに、瀋陽に二年滞在したことがある、と言っていたこのサラリーマンは、カタコトの中国語も喋れるので意思疎通は問題なくできていた。

「甲斐さんは、ご両親が日本人だと聞きましたが……、日本語はやはり向こうでお父様やお母様から習ったんですか?」

 都庁の展望台にのぼる途中、そんな話をした。

 『甲斐』というのは沙龍の日本名である。

「両親は早くに亡くなりました。日本語は今回の来日にあたり、付け焼刃で勉強してきたんです」

「そうでしたか。無神経なことを聞きました。申し訳ありません」

「お気になさらず」

「しかし、それにしてはお上手ですね。ほとんどネイティヴと変わらないですよ」

「昔から耳だけはいいみたいで……」

 愛想笑いをしてみせると、春日もホッとしたような顔を見せた。空港で会ってからこっち、沙龍の表情があまり変わらないことにあれこれ要らぬ気を回して、心配していたようだ。

 しかし、沙龍に言わせれば春日は愛想笑いのしすぎで、少々気味が悪い。日本人は大体そういうものだ、と知っていなければ、不審に思っただろう。

(とりあえず、私の日本語は問題ないみたいだ)

 ネイティヴの人に(お世辞だとしても)褒められたということは、一応、どこでも通じるということだろう。

 沙龍の日本語教師は二人居る。

 一人は董天で、彼は他にも色々な語学に精通している国際人である。が、それらは全てビジネス用の硬い言葉だ、と自分でも言っていた。

 もう一人は、沙龍が数年前に上海で出会った日本人の雀士で、こちらは正反対のくだけた下町風の言葉を使っていた。

 どちらの喋り方にしても、発音だけは完璧に再現できている、という自信がある。沙龍が今言ったように、耳がいい人というのは、総じて発音がいいものだ。

 意味は分からなくとも、耳で聞いた音を忠実に再生すればいいのである。広東語も、上海語もそうやって耳から覚えたのだ。

 その後、雪がひどくなってきて、道路もうっすらと白くなりはじめていた。

 春日の部下は雪道には自信がないと言い出し、春日を困らせていたが、この部下の言い分も尤もである。慣れぬ雪道で事故を起こしたら元も子もない。

 沙龍は、特に気を悪くすることもなく、

「じゃあ、ここからは一人で行きます。スーツケースは明日以降、届けてくれればいいですから」

 そう言った。

 春日はいい顔をしなかったが、四月からの生活のためにも、東京に早く慣れておきたい、という沙龍の主張には頷かざるを得なかった。

「でも、本当に大丈夫ですか? この雪だとタクシーも危険ですよ」

「地図を見ると、歩いても行けそうな距離です。地下鉄もあるし」

 沙龍が見ているのは、空港で買った、小さなポケットサイズの地図である。

確かに、関東近郊ならこの一冊あればどこでも行ける、と販売員は自信満々に言っていたのだが……。

「……」

 春日は内心驚いていた。

 十七歳の、日本に来るのは初めての少女が、外国語で書かれた地図を、さっと一目で理解できるものなのか? しかも、新宿といえば、世界有数の大都市である。

 日本人さえも迷うこの複雑な街を、日本に来た初日に歩こうというのだ。こんな雪の日に。

 中国支社の責任者からは「大事な取引先のお嬢さん」と聞いていたので、どうせお金持ちのわがまま娘だろう、と思っていたのだが、どうも様子が違うな、と春日は思った。

「すみません……。北海道出身の同僚だったら、こんな雪道でも平気だったんですが」

 そう言ったのは、春日の部下である。

 最初に挨拶した時以来の会話だ。

 無口なのは性質ではなく、仕事だとそうなる、というだけの話かもしれなかった。

「ホッカイドー?」

「あ、日本の地名です。北国の――」

「そうだね、保科君だったら、チェーン巻くのも慣れてただろう」

 春日が口をはさむ。

「スーツケースは、自分が責任を持ってお届けます。雪がやめば今夜にでも」

 部下の青年は、おずおずと名刺を差し出し、携帯電話の番号もその裏に書いてくれた。

 さらに、沙龍が今日から暮らすことになるマンションについても色々教えてくれた。

 どうやら、彼が準備をしてくれたようだ。

「家具類はだいたい運び込んであります。気に入らないようだったら仰って下さい。すぐに取り替えますから。水道、ガス、電気は使えるようになっているはずです」

「えっと……、ミスター・シュイサン? 日本語ではどう読めば?」

 名刺の漢字は分かるが、日本語の読み方が分からない。

 ここは、似て非なる国だ、とつくづく思う。使っている文字は同じでも、読み方が違えば、それはやはり異国の言葉である。

水上みなかみです」

「ありがとう、ミスター・ミナカミ。ミスター・カスガも、今日はわざわざ空港まで迎えに来てくれて、ありがとうございます」

「いえ、お役に立てたら幸いです。なにかあったら遠慮なくご連絡くださいね」

「はい。じゃあ、また。再見」

 そうして、サラリーマンコンビと別れ、沙龍は駅の方に向かった。

 素直に北上すればマンションにたどり着けるのは分かっていたが、身軽に街を歩いてみたかったのだ。

 大きなスーツケースは水上に預けているので、荷物は小さなリュックサック一つである。

 冗談のようにどかどかと降ってくる雪は、日曜の静かな都庁前では、物音を全て吸収していたが、駅の周辺は賑やかだった。人混みにホッとする。

 目が慣れてくると、灰色一色だと思った街にも、色んな色があることに気付いた。

 並木道の緑、レンガ色の建物、牌坊のような赤――。

(ん? なんだあれ……?)

 人混みのど真ん中に、牌坊のような、鳥居のようなものがあって、それが沙龍の目を引いた。

 歌舞伎町の入り口にある、電飾の門である。

 外国人の沙龍にはそれが不思議な光景に見えた。

(なるほど、この先は繁華街か)

 規模は違うが、上海の暗黒街と同じ匂いがする。

 今はまだ夕方にもなっていないし、いかがわしい人間がうろうろしているわけでもないのだが、沙龍の危険を嗅ぎ分ける感覚は鋭い。

 こういった勘のよさがなければ、『蒼龍会』のトップに座ることはできない。

 『蒼龍会』は中国全土に支所を持っている。その影響力は東南アジアや周辺各国にまで及んでおり、日本にも多少のコネクションがあった。

 沙龍が春日や水上に賓客のような扱いを受けているのも、『蒼龍会』の幹部があれこれ手を回してくれたおかげなのだ。

 勿論、春日たちは沙龍の正体など知らない。日本に留学するためにやって来た、富裕層の家の令嬢だと思っているはずだ。

 四月からとある私立高校の三年に転入することになっているのは事実だが「留学」ではない。日本人が日本の高校に編入するだけ、という体裁を取っていた。

 事実、沙龍は日本人なのである。

 日本人の両親が、十七年前に中国に渡って、とある山村で沙龍を産んだのだ。

 そこには、沙龍も知らない、複雑な事情がある。


 ――なぜ、彼らは日本での安穏な暮らしを捨てて中国に渡ったのか?


 沙龍が、両親とは逆に、中国での贅沢な暮らしを捨てて、単身日本に渡って来たのは、一つにはその理由が知りたかったからである。

 といっても、優先順位をつけるなら、それはかなり下の方に回されるはずだった。

 東京に来た理由があるとするなら、「ここにはなにかがある」と直感で思ったからにすぎない。

(そう。私の探している、なにか、だ――)

 上海が魔都なら、ここ、極東の一千万都市も、また得体の知れぬ妖都である。

 これだけ人のひしめく場所には、神も鬼も、妖も魔も、必ず居るものだ。



 去年末に新築されたという三十階建ての分譲マンションは、やはり濃い灰色と薄い灰色だけでできていた。日本人はカラフルな色が嫌いなのだろうか。赤いネクタイをしていた春日あたりからは違う答えが返ってきそうだが、どうも街並みを見ているとそうとしか思えない。

 正面玄関のガラス戸を抜けると、二重ドアになっていて、暗証番号を打ち込むエリアがあった。セキュリティーは一応やってます、という感じだ。

 しかし、こんなものはプロにかかれば、紙のようなものである。アメリカのネイビーシールズあたりにかかれば、このタワー型マンションなど、十分で制圧されるだろう。

 そこまではいかないとしても、『蒼龍会』の誇る第三部隊なら――。などと途中まで真剣に考えて、沙龍は苦笑した。

 董天曰く、

『日本はあきれるほど平和ですから、とりあえず、どこかのギャングに襲撃されたり、マフィア同士の抗争に巻き込まれるなんてことはないでしょう』

 とのこと。

 しかし、その後で、やかましいくらいに念を押された。

『沙龍様が特になにもしない限り、平和に過ごせることと思います。そう、なにもしない限り、です。間違っても、喧嘩を売られたり、買ったり、はなされませんように。ナンパは……、まぁ、されないと思いますが、極力、暴力で撃退したりしないように。いいですね?』

 逐一あの小舅の言葉を思い出して、なんだかムカムカしてきた。

「『されないと思いますけど』ってなんだよ。仮にも年頃の女の子に、なんて言い草だ」

 ぶつぶつ口の中で言いながら、自分の部屋の鍵を開けた。

 真新しい建築資材の匂いが充満している。

 電気をつけると、思ったより「色」があったのでホッとした。

 外装と同じく、内装も無機質なモノトーンで統一されているのかと思ったのだが、水上が揃えてくれた家具は華やかなものが多く、これは彼の好みというよりも、ここに住むであろう人間のことを調べて、その好みを推し量った結果ではないか、と思う。

 上品なアンティーク調のアジアン家具は、やはり、「中国」を意識しているし、寝室のベッドは派手すぎないシンプルな感じで、若者向けだ。

 2LDKの仮住まいは、一人で暮らすには広すぎる気がしたが、これも董天曰く、

『沙龍様には日本の狭いワンルームは耐えられないでしょう』

 とのことで、日本の住宅事情を知らない沙龍は素直にその言葉に従うしかない。

 確かに、上海では贅沢し放題だった。

 週末はリッツカールトンで過ごし、平日ですら、租界時代からの高級ペントハウスでお手伝いさんになにもかもやってもらっていたのだ。

 お腹がすけば三ツ星料理店のVIPルームでコース料理が提供され、移動は黒塗りリムジンで、必ず屈強なボディガードが同乗する。

 それらは、数万の構成員を養う、骨の折れる仕事の見返りとしての贅沢と言えるかもしれないが、実際の仕事は董天を始めとする幹部連中がやっていたので、沙龍は椅子にふんぞり返っているだけでよかった。

 ただ、その椅子に座るまでには五年という歳月と血生臭い掃除を必要とした。

(あ、コーヒー淹れる道具がないな……)

 スーツケースが届かないことを見越して、着替えとタオルと歯磨きセットは買ってきたのだが、コーヒーまでは頭が回らなかった。

 そこに、いいタイミングで固定電話が鳴った。

 受話器を取る前から、相手は分かっている。

「ハロー?」

 咄嗟にそう言ったら、明るい笑い声が聞こえた。

『甲斐さん、やっぱり、外国人なんですねー。あ、すみません、もしもし? 水上です』

「はい。分かります」

『雪がやまないようなので、スーツケース、今日はお届けできそうにないんですが……、大丈夫ですか? なにか足りないものがあれば、言って下さい。まだ会社に居ますから』

 彼の部署は新宿のビル街にあるらしい。つまり、ここからも近い。

 本社は丸の内と言っていたが、沙龍には東京の地理はまだよく分からない。春日は、その丸の内の方に居るらしい。

「一通り、駅前で買ってきましたから、大丈夫です」

『そうですか。たくましいなぁ』

 これが、素直な賞賛なのか、世話ができなくて残念だという意味なのか、いまいち分からない。

 時間もあることだし、少し探ってみよう、と沙龍は軽い気持ちで思った。

「あ、でも、一つだけ……」

『はい?』

「缶コーヒーやマクドナルドのじゃない、濃くて美味しいコーヒーが飲みたいんですが、どこで飲めますか?」

『んー、そうですね……。そこからだったら、ヒルトンのラウンジという手もありますが……。もう少し、くだけた雰囲気がいいなら、アイランドタワーの中にもあったかな。三十分ほど待ってください。迎えに行きますから、ご案内しますよ』

 実際には、水上が到着するまで四十五分かかったが、それもこれも東京には珍しい大雪のせいで、沙龍は大して気にしていない。

 が、水上は遅刻をしたことを一生の不覚のように何度も謝っていた。

 これもまた、沙龍にとってはカルチャー・ショックのひとつであった。

「なぜそんなに謝るんだ?」

「それは……、時間が読めなかったのは、自分のミスですし」

「その程度のミスが『ごめんなさい』に値するのか?」

「ハイ?」

「中国人は、めったに『ごめんなさい』は言わないんだゼ。面子が死ぬほど大事な民族なので、自分が悪くてもそれを認めたがらないからな」

「……」

 水上が、そんな丁寧な言葉遣いじゃなくていいですよ、と言うので、ビジネス日本語をやめたのだ。しかし、その直後に、引きつった顔をみせるようになった。何故だろう。なにかおかしいのだろうか。

「つまり、貴女の感覚だと、十五分遅刻したくらいで、何度も謝る必要はない、ということですか?」

「うん」

 結局、アイランドタワーの中のコーヒーチェーン店に入った。

 もう九時は過ぎているし、この大雪なのに、人の賑わいがあるのが不思議だった。

「日本人は、特に、日本のサラリーマンは時間厳守が基本ですから。実は日本人は、小さい頃から秒単位で動くように訓練されるんです」

「アハハ……」

 それが冗談だと分かるくらいには、コミュニケーションが取れている。

 水上のこともこの三十分で大体分かった。

 水上慎太郎。二十七歳。

 リーダーになりたがるタイプではないが、かといって控えめに徹するというタイプでもない。よくも悪くも「中庸」である。

 中肉中背で、外見的な特徴もこれといってないが、どこもかしこも「薄い」という印象はあった。眉毛も薄いし、唇も薄い。目は薄いというより、やや細めだ。

 地方出身だが、大学に入学した時から十年間、ずっと東京で暮らしているので、もう東京人のつもりだという。

「まぁ、東京で暮らしてる人の多くはそんなもんですよ。純粋な江戸っ子は少ないんじゃないかな」

「〝江戸っ子〟?」

「おじいちゃんの代から東京で暮らしている人たちのことをそういうんです」

「ふーん。上海もそうだよ。地方出身者が多いから、地元っ子は意外と少ないんだよね。私も〝地方出身者〟になるんだけど……」

「甲斐さんは……、うん、と、下の名前は?」

「カオル」

「どういう字?」

シン

 と言っても、音だけで水上に分かるはずもなく、沙龍はペンを借りて紙ナプキンの上に書いて見せた。

「ああ、井上馨の字か」

「イノウエ?」

「うん、歴史上の人なんだけど……。これ、男の人につける字だよ。少なくとも日本ではね。お父さん、変わり者だったのかな」

 独り言のように言っている。

 その声が少し疲れていた。

「さぁ、会ったことねーからワカンネェな」

「……」

 とうとう、水上は前言撤回することにした。

「自分で言っておいてなんだけど、ビジネス用の言葉のほうがいいみたいです」

「そうですか。じゃあ、変えます。やっぱり、どこかヘンなんですか?」

「アハハ、一気に変わるなぁ……。うん、まぁ、正直に言うと、年頃の女の子の使う言葉じゃないんですよね。その日本語教えてくれたの、男の人でしょ?」

「はい」

「それも、かなり……、なんていうか、アウトローみたいな……?」

「〝ろくでなし〟という意味なら、そうです」

「ハハ……」

 苦しい愛想笑いをする水上を、沙龍はまた不思議なものを見るような目で見つめていた。

 悪い人ではないのは一目瞭然なのだが、人物像がよくつかめない。

 ただ、朝から休日出勤をさせられて疲れているというのに、こうしてコーヒーに付き合ってくれるというのは、よほど真面目な社員なのだろう。会社と仕事に身を捧げているとしか思えない。

 なんにせよ、しばらくはこの街と人を観察してみるしかない。四月まではまだ時間がある。

 水上は、とりあえず間に合わせに、と言って、このチェーン店で売っていた挽いたコーヒー豆とドリップの道具一式を買ってくれた。

「ありがとうございます」

「淹れ方、分かりますよね?」

「はい、多分」

「多分、か」

 そう言って、何故か、水上は笑っていた。

 それは、なんともいえない、綺麗な笑い方だった。てのひらに舞い降りたひとかけの雪が、風に飛ばされて、あっという間に消えてしまいそうな儚さだ。

 不吉な話だが、自殺する人間は、もしかしたらこういう人かもしれない、と沙龍は思った。

 しかし、

(こうも至れり尽せりだと、居心地が悪いな……)

 コーヒーのお土産くらいならどうってことはないが、新築マンションを家具付きで用意するなど、どう考えても尋常ではない。

 『蒼龍会』の幹部の誰かが、春日の会社の中国支社のトップと知り合いで、そのツテで便宜を図ってくれているのは分かるのだが、ここまで恩を売っても、春日たちに利はないような気がするのだ。

(あるいは、カスガか、その中国支社のスタッフが、蒼龍会の連中になにか弱みでも握られて脅されてるとか……?)

 そんな風にも考えたが、あまり詮索しないことにした。

 沙龍はもう蒼龍会の『老板ラオハン』(※ボスの意味)ではないし、今後、あそこに戻るつもりはないのだ。

 水上と別れ、雪道を歩いてマンションに戻る途中、都庁の方を振り返ってみた。

 黒い夜空に灰色の建物。そして、白い雪――。

 改めて、知らない街に居るんだな、と感じた。

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