第4話
CASE1
世界中で、浮浪者(ふろうしゃ)が忽然(こつぜん)と姿を消すことがある。その筋のうわさでは、臓器売買のために誘拐されるというのが通説になっている。
いくつかある噂の中に「人体実験が行われている」というものもあったが、さすがにそれはだれも信じなかった。その件に関して、噂は噂に過ぎず、真実は決して明るみに出ることはない。
明るみに出ないからこそ、目に映らずにだれも気付くことはない。たとえば昼下がりのおしゃれなカフェ通りをカジュアルな服装の男性が横切り、ケースから小さなカプセルを取り出してそれを地面に投げ捨てたとしてもそんなことがあったこと自体わからない。ほかの場所でコバエサイズの機械がその男と同じようなことをしたり、ヘリが空中から地上になにかを散布したり、ましてやそれが世界中で同じ時期に行われていることなどは神でもなければ把握(はあく)できない。しかしどこであっても、そのなにかが撒(ま)かれた場所にはやがて深い緑色の霧が立ち込めて、そこにいる人間は呼吸が困難になり絶命していく。
その世界の地域のなかのひとつ釜ヶ崎(かまがさき)という場所で警察車両があわただしく移動していた。警(けい)ら隊に所属する警官、森(もり)黒江(くろえ)が同僚とともに通報のあった現場に急行している。
彼女は途中、ストリートグラフィティが描かれているような暗い路地から表情の晴れ晴れとした男が出てくるところとすれちがい奇妙な違和感をおぼえたが、今は事件に対応しなければならなかったため通り過ぎる。
この釜ヶ崎でも行方不明者がまれに出た。しかし世界から突如として失踪する行方不明者というのは実に年間百万人以上もおりこの国においても一時的に所在が知れなくなる人間は年間八万人いる。なにか事件があってもそういった数のなかの一部だと問題視されることはなかった。
釜ヶ崎は町外れにあり木屋がならぶ、いわゆるドヤ街のようなところである。こういうところでは事件は日常茶飯事だが、今日はいつもとちがった。
「テロかな?」車内で、黒江があたりを見回して聞く。
「わからんが」
そう言って同僚は車を降りながら、腰の拳銃に手をかけいつでも抜けるように備えている。
複数名が暴れているとの通報だった。本来ならばこういった危険度の高い犯人が想定されるケースでは数十人の応援が駆けつけるものだが、警官はここにいる二名しかいない。
同時多発的に類似の事件が相次いで発生していたためである。急病者と暴行犯、けが人の対処で手の数が足りなくなっている。そのような通信がいまも延々(えんえん)と車両備え付きの無線機に流れている。
「死人が生き返ったって話、きいたか。心臓の止まったやつが運ばれて、病院で復活。一日で八件も」
男のほうがきく。
「ああ……」黒江は聞いてるんだかないんだかわからないあいまいな返事をする。この異常な事態にいつもより神経を尖(とが)らせていた。だがどう見てもこのドヤ街には人の姿がない。耳をすませてもなにも音がない。
昼間にも関わらず、である。被害者も、犯人も、通報者すら見当たらない。
なにかが黒江の視界でうごいて、彼女はそれを目で追う。高速でうごいた黒い物体は、ただのカラスだった。その鳴き声が不気味にひびく。
しかし自分たちのほかにも気配はある。どこかに暴行犯がひそんでいるかもしれないと警官ふたりは目をあわせずとも考えを共有していた。
人の気配を感じて、黒江は振り返って木屋のほうを向いた。しかしだれもいない。
「いまだれかいたぞ!」
違うほうを向いていた同僚がそう叫ぶと同時に猛烈な早さで走り出した。黒江もあとを追う。
急に同僚は足を止めて、地面を見下ろした。
血痕が点々と道に続いている。しかもその量からいってこの血を流した人物は重傷を負っているだろうことが予想された。
黒江は拳銃を抜きかまえた。最悪の事態も想定にいれてのことだった。いっぽう同僚は警棒を握るだけにとどめた。銃を抜くのをためらったというよりもペアーとして近接と中距離制圧どちらにも即座に対応するための役割分担だった。
血のあとをたどってボロの長屋の裏道を通っていく。血痕が曲がり角にさしかかったとき、ふたりは目をあわせずにうなずきあう。呼吸を整え、突入するように道の向こうに身を躍(おど)らせる。
それから数分ののち、何発かの銃声がひびいた。
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