砕けた月

歌川ピロシキ

銀の月が照らす夜

 それは、若葉が薫る季節の、月の美しい晩だった。

 一切欠けるところのない銀の真円。中天の満月は皓々と輝き、乾いた砂礫されきだらけの草原をさやかに照らしている。

 初夏の月明りにまばらに生えた苦蓬にがよもぎの葉が銀色に光りながら揺れていた。


 そんな静かな夜のこと。


 七宝族のホマレは羊舎を見回っていた。

 そろそろ緬羊めんようの出産が近い。特に二歳をすぎたばかりのユキは今回が初産だ。陣痛が始まり次第、すぐに介助してやらなければ母子ともに生命が危ない。

 ホマレは不安げに声を上げるユキの腹を触診し、特に張っている様子がないことを確認して羊舎を後にした。


「兄さん、ユキの様子はどう?」


 末弟のアキラが岩の陰から顔をのぞかせた。


「こら、まだ起きていたのか? 子供はもう寝る時間だぞ」


「僕はもう十二だ。いつまでも子供扱いしないでよ。それに、兄さんだってまだ成人前だよね?」


 アキラは零れ落ちそうに大きな藍色の瞳をすこし険しくして憎まれ口を叩く。口をとがらせて拗ねた表情が無垢で愛らしい。


「俺はもう十七、次の春には成人の儀だ。声変わりもしていないお前と一緒にするな」


 ホマレはそう苦笑しながらも、駆け寄ってきたアキラを軽く抱き寄せて、頭をぽんぽんと撫でてやった。


「もう、兄さんたら。そうやっていつも子供扱いするんだから」


 ぷぅ、と頬を膨らませたアキラは、しかし次の瞬間には空を見上げて破顔した。


「兄さん、月が綺麗だよ」


「ああ、まるで銀の盆のようだな」


 ぱぁっと白い花が開いたかのような笑顔を見せる弟に、ホマレもつりこまれて笑顔になる。

 藍色の澄んだ空には大きな丸い銀の月。そして水晶を砕いて散らしたように、満天の星が無数の光を放っていた。


「光の洪水だな」


「うん、星が降ってきそうだ」


 二人はしばしの間、無言で輝く月と星々を見上げていた。


 そよそよと吹く風に揺れる草の葉擦れだけが辺りを満たす静謐な時間。

 ホマレの心も自然と穏やかに凪いでいく。


 不意に月明りの中を舞う夜鷹の鋭い叫びが大気を切り裂き、二人は我に返った。


「そうだ、これ飲んで。喉、乾いたでしょ?」


 アキラが差し出した革袋には、羊乳酒カムスがなみなみと入っていた。


「ああ、気が利くな。ありがとう」


 羊乳酒カムスはほどよい冷たさで、羊たちの世話で火照った体を心地よく冷ましてくれる。口の中でぷちぷちと弾ける炭酸が、溜まった疲れを溶かしていくようだ。

 きっと甕ごと井戸水につけて、しっかり冷やしてくれたのだろう。そんな弟の気遣いが嬉しくて、ホマレの頬は自然に緩んでいた。


「ふぅ、美味い」


「ね、僕ももらっていい?」


 背伸びしたい年頃のアキラは、何でもホマレの真似をしたがる。


「仕方がないな。少しだけだぞ」


 羊乳酒カムスは酒といってもごく弱い。まだ少年のアキラが飲んでも酔っぱらうことはないだろう。


「そろそろ、夏の野営地に発つ季節だね」


 兄から受け取った革袋から一口だけ羊乳酒カムスを含むと、アキラはぽつりと言った。


「今年も、僕は村でお留守番かな?」


 月を見上げたまま哀し気に言う弟の心は痛いほどによく分かる。

 置いていかれる寂しさと悔しさは、ホマレもつい最近まで味わっていた。


「どうなるかわからんが、父さんにお前も連れて行くよう言ってみるよ」


 父のイタルは七宝族の八人の首長の一人。

 厳格な彼が、ホマレの口添えだけで心を動かすとも思えないが、このところ成長著しく、優しくてよく気の付くアキラのことは父も気に入っている。

 提案してみるだけの価値はあるだろう。


「ほんと⁉ 兄さん、ありがとう‼」


 頭上に広がる夜空のような藍色の瞳をきらめかせ、輝くような笑顔を見せる弟に、ホマレは必ず父を説得しようと固く心に誓った。


 ちょうどその時、南の方から何かが唸るような音。


「兄さん、あれ……」


 アキラの指さす方を見ると、丸い月の光の中に、何か黒い染みのようなものがある。それが見る見るうちに近付いてきて……


「鳥……? いや、違う。絡繰カラクリ仕掛けの人形か?」


「あいつら何かぶら下げてる」


 二人が首を捻っているうちに、その奇妙な鳥のような物体は彼らの頭上にまで飛んできて、ぶら下げていた樽のようなものを二人のかたわらに落とした。

 次の瞬間、轟音とともに辺りを覆いつくす白い光。

 吹き飛ばされる弟に向かって必死に伸ばした手が何かをつかむと同時に、激しい衝撃が襲ってきてホマレの意識は暗転した。

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