第5話 お願いね?
しばらくが経ち、二十一時過ぎ。
「お、お邪魔します」
「はい、どうぞ。靴はしっかり揃えてくださいね」
「う、うん。恵美さんと裕二さんはもう帰ってきてるよね?」
「帰ってきてますよ。声掛けてきます?」
「あー……じゃあ、そうしようかな」
髪を下ろしてパジャマ姿になった紗彩ちゃんに迎え入れられて、相川宅の玄関を上がった俺は恵美さんと裕二さんに顔を合わせるため、リビングへと向かう。
俺から進んで相川宅に立ち入ることはあまりない。その必要がないというか、智香ちゃんたちの方から積極的に我が家に会いに来てくれるためだ。
なので少し、この時間帯に足を運ぶのは若干緊張していたりする。玄関に足を踏み入れた時点で何だか甘くていい香りが漂ってきたし。
ぎこちなくそわそわしつつも、俺は紗彩ちゃんの後について行きながらリビングのドアを開いた。
家庭的で見通しのいいシンプルなナチュラルテイストの空間。その中でソファーに腰を掛けてスマホを触っていた一人の女性が俺に気付くと、嬉しそうに笑いかける。
「千尋くんじゃない。いらっしゃい、こんな時間にどうしたの?」
相川家の母、相川恵美さん。
三十代後半とは思えない若々しさ、芯の通った大きな眼差しがおっとり系の母さんとは対照的でとても頼りになる人物。同年代のような感覚で親しみやすい。
……とはいえ、日中は企業の正社員として働く立派な社会人。平気そうに振る舞ってはいても、実際には身体的にかなりの疲労が溜まっているに違いない。
なので平日では余計な負担をかけさせないよう、俺は恵美さんを労るように清々とした笑顔で接する。
「こんばんは、お邪魔してます。ちょっと智香ちゃんに話したいことがあって……」
「あら、そうなの。智香は今、自分の部屋で寝込んじゃってるみたいだけど……」
「そうみたいですね。なので、俺から会いに行こうと思いまして」
俺が言うと、恵美さんは口に手を当てて何やらニヤニヤとし始める。
「あらあら、千尋くんったら、夜遅くに女の子の部屋まで会いに行こうだなんてねぇー……?」
「あ、いやっ、け、決してそういうイヤらしい意味ではなくてですねッ!?」
「いいのよそんな恥ずかしがらなくても。千尋くんになら安心して智香のことを任せられるし、愛し合って結ばれてくれたら私も無事に孫の姿を拝めるもの」
「あ、あいッ!?」
と、智香ちゃんと、俺が……ッ!?
「……ちょっと、お母さん変なこと言わないで。お兄ちゃんの心は純粋なんだから困っちゃうでしょ」
「なに、私は本気よ? 得体の知れない輩に自慢の可愛い娘は絶対に渡さないから。千尋くんだったら優しく気遣ってくれるし顔もいいしで問題ないじゃない」
「それは確かにそうだけど、でもお兄ちゃんにも相手を選ぶ権利があるから」
「はあ〜、真面目ねー紗彩は。私はそんな風に育てた覚えないんだけど」
「いや真面目ならそれでいいじゃん」
「紗彩も年頃の女の子なんだからもっときゃぴきゃぴすればいいのに。無愛想だと男にモテないわよ〜?」
「別にモテたいとか思ってないし」
……なんか、このやり取りだけ聞くと、どっちが大人で子供なのか分からなくなってくるな……。
苦笑いする俺。すると、二階の階段からドタドタと騒々しく下りてくる足音が聞こえてきた。
うん、察しがついた。俺は身構える。
そしてすぐにリビングのドアがバンッ! と勢いよく開かれて、姿を見せたのは──
「おにーちゃーんっ!!」
「お、おおおッ、おおおーッ!?」
予想通り、俺の胸元にめがけて思いっきり躊躇なく飛びついてきた柔っこくて抱き心地のいい物体。紗彩ちゃんと同じくパジャマ姿のひまりちゃんである。
「やっとおにーちゃんに会えたぁー、おにぃちゃあーん、うにゅ〜」
「あ、あはは……ごめんね、今日はあまり構ってあげられなくて」
小さな腰周りに手を添えながら優しく頭を撫でてあげると、ひまりちゃんはとても気持ちよさそうに「ふにゃあ~」と、撫で声を上げていた。
ああ、可愛い。髪はさらさらで手触り良くて、シャンプーの香りがして、温かくて、すっぽりと収まる体のサイズ感がいつまでも抱きとめていたくなる……。
ほわっとした幸せな気持ちに浮かされていると、
「こら、お兄ちゃんにくっつきすぎ。離れなさいっての」
「やぁだぁ~」
俺に抱きつくひまりちゃんを引っ張って剥がそうとする紗彩ちゃん。しかしひまりちゃんはびくともしていなかった。恐るべき小学生の底力。
「おにーちゃんせーぶんがひまりには不足してるのぉ~……おにーちゃんだいすきぃ~……」
「……」
なんか、背筋がぞわぞわっとした。
……何となく気になって、俺は恵美さんを見る。
「まあ、小学生とは言ってもたかが五歳差だし全然大丈夫よ?」
「何が大丈夫なんですかッ!?」
定期、小学生相手はNG。
「あーもう、お兄ちゃんは今からお姉ちゃんに用があんの。だからぁー、はーなーれーろぉー」
「やっ、やぁああああっ!! おにーちゃんっ! おにーちゃあぁあーんッ!!」
痺れを切らした紗彩ちゃんがひまりちゃんの両脇に手を入れて、俺から強制的に引き剥がしていく。
救いを求めるように遠のいていくひまりちゃんの小さな手の平……申し訳ない、あとでたくさん甘えさせてあげるから。
「はは……あ。その、裕二さんは今どこに?」
俺が訊くと、返答したのは恵美さんだった。
「あの人は疲れ切っちゃって部屋で死んでるわよ。今日は仕事がだいぶ大変だったみたい」
「そ、そうなんですね。裕二さんも恵美さんも、お疲れ様です」
「ありがとねぇ」
恵美さんが笑ったのを見て、俺も軽く笑う。
本当によく頑張っている。育ち盛りな三人の子供を養いながら、夫婦揃って残業までして仕事をこなすだなんて。週末を迎えたら思う存分に身体を休めてほしいなと心の底から思う。
……将来的には、俺もそんな社畜人生を送ることになるのかな。
いや、今はあまり深く考えないでおこう。
「ほら、それよりも千尋くんは智香に会いに来たんでしょ? 早く会いに行ってあげたら?」
「あ、はい。じゃあその、すみません」
そう言って、俺が智香ちゃんの元まで向かおうとしたとき──「千尋くん」と、後ろから恵美さんが呼び止めた。
振り向くと、恵美さんは落ち着いた面持ちで俺を真っ直ぐ見つめている。
「智香はね、千尋くんのことをいつも本当によく慕っているのよ。だから……もし元気を無くしちゃってるようだったら、千尋くんがあの子を支えてあげて? そうすればきっと喜んでくれるはずだから」
「……」
「お願いね?」
「……はい」
俺は、笑って頷いた。
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