第4話 休みの危機
昨日が無事に休日として迎えられた土曜日とするならば本日は必然的に休日として迎えられる日曜日。
シスの中で溢れ出る気怠さはあまりにも重たく鈍い。
――どうしていつもこの程度の気持ちを抱えているのだろうな私は……『私』は
少女の中ではもはや標準装備となっている無気力はシスの中で更に膨れて行く。彼女はもうやる気を漲らせることなど無いのだろうか。
いつものようにやる気のない力が込められない指がカーテンをつまむ。ゆっくりとレールから音を立てながら日差しを透かす薄いそれは開かれて、強い日差しの存在がまたシスに宿りし気怠さを色濃く増して行った。
――そうか、私の中で暴れる気怠さはカーテンのようなものか
閉じられたカーテンによってやる気が心の奥から心の表にまで差し込んでこない。こればかりは改善の余地もなかった、今の姿のままでは。
しかしながら彼女の中にはそれを解決する手段が残っていた。あの方法、それを使ってみせるだけで、ある姿を現実に映し出すだけで心を囲むカーテンは開かれて心の陽だまりがシスを満たす。
――そうだ、男になろう
シスはさらしを巻いて可能な限り胸を潰し、男物のゆったりとした服で身体の線を覆い隠す。このような服でなければ今の身体付きをごまかすことなど到底できない。
髪を纏めて灰色のかつらを被って今よりも短い髪を演じてみせて、髪とお揃いのカラーコンタクトレンズを入れて目の色を変える。
この時点で既に心意気は変わり果てているということだった。
人生への見方、生そのものに熱中するように楽しむ己が完成しつつあった。
更に靴下を履き、これで完成といったところだろう。
――足先まで装ってみせた
そこまで心で語り、それを否定した。
――装うではないな、本来の自分を取り戻したということだ
その顔にほんの少しだけ残る違和感が自身を女だと語っていたものの、この人物としては最大限の努力を終えた後だった。
――背も高いし比較的男寄りの顔だと思うのだが
やはり根本は異なるものだろうか。それでも充分化けることが出来ていることを鏡で確認する事でようやく男装の準備は終えた。
「これで私だ」
本来の心、温もりを受けては輝き昼間でも構わずに空に姿を現す星となり極端に目立つ整った顔。これこそが完全に作り上げられた彼の事実、嘘の姿こそが本音だった。
ランスと名乗る彼は宿題をすぐさま終わらせてうどんと刻んだ野菜を平らげ外へと飛び出した。
別段外に出るわけでもない日もあるものの、そうした日でも彼女は彼になる。精神的な問題だけは止めることが出来なかった。
外を歩き、たまに高い叫び声を上げながらランスに向けて最上級の誉め言葉を投げかける女子中高生とのすれ違いざまに軽く手を振ってはこの世の偽りの塊のアイドルを演じてみせた。
――女の子たちから褒められるのはいい気分だな
晴れ晴れとした想いを胸に、堂々とした足取りで歩いて行く。
向かう先は魔法使いたちが住まうボロボロのアパート。白くて安っぽい壁が顔を出し、日陰に覆われた埃っぽい全容が明かされる。
「このような場に住まうとは、実に趣味が悪いな」
魔法や占いと言った非日常の世界に触れておきながらあまりにも陽気を知らない空間。風水的にも心情的にもよろしくないと言われる環境ではないだろうか。
狭い道路、二軒のアパートの隙間にあればいいのだろうという雑な想いだけで開かれている薄暗い道路を渡り、湿っぽい空気を吸いながら壁に開かれた口へと吸い込まれるように入って行く。中はランスの想像をはるかに超えた陰鬱な雰囲気で彩られ、漂う無気力で飾り付けられたそこはまるで陰の象徴。なに故に魔法使いという界隈は暗い場所を好むのだろう。ランスの明るみは隠し通すことも出来ず、階段を上る姿でさえも今の色彩の中では浮いていた。
やがてたどり着いたドアと向かい合い、呼び鈴を三度押し、ドアを二度ノックする。魔法使いとして用があるのならこの呼び方をする決まりとなっていた。魔法の内と外、ふたつの世界への向かい合い方が異なるのだと彼は語っていた。
そんな魔法使いはドアを開いて顔を覗かせて、声も発しないまま小さな仕草で指を曲げて誘導する。
導きのままに身を飲み込ませ、ランスは彼に言葉を向けた。
「相変わらず陰気だな」
「好きでやってるんだ、好きにさせろ」
男は軽く伸びた不精髭と手入れもされないままに伸びたうねる髪と深いくまが刻まれた三白眼を持ち合わせたまさに暗い人物を絵に描いたような存在だった。
「もっと明るく行こうぜ、でないと広いこの世の中の楽しみが減るぞ」
「おれはいい。生きるために生きてるだけなんだ、ただ生きさせてくれと毎日祈るだけだ」
何かに祈りを捧げるだけの信仰心は彼のくすんだ目の何処にも見当たらなかった。
そんな湿っぽさに支配された空気から早く逃れたい、息が詰まる程に苦しい。そう思いつつランスはこの世間から身を隠すように陰の中に在る空間に来た目的を告げる。
「報酬を」
「そうだったな」
それは目の前の男にとっては仕事。魔法使いや魔法を知らないものの怪奇現象として悩みを報告して依頼を申し込む企業や依頼人から金をもらいそこから二割を抜き取った残りを依頼の遂行者に送る。ただそれだけの仕事。
「以来の受理から書類の整理から報酬の受け渡しまでこの部屋の中で完結してしまうってものだ」
つまるところ埃っぽいこの部屋に陰気は溜まり続けて留まり続け、換気という言葉に遭遇しないまま蓄積されて行く。こうした環境が無くとも陰気に充ちたこの男、中年を今にも迎えようとしているその身体に残された人生も心意気も何もかもが更に陰気に染められ永遠の孤独に閉ざされようとしていた。
そんな男の指から陰気が感染していないものだろうか。心配にはなるものの、流石に杞憂というものだった。仮にこの男の陰気ひとつごときで穢れてしまうのならば依頼人の悩みやこれまで金を取引してきた様々な人物の怨念から野心と言った様々な欲望や煩悩にドロドロとした感情の演劇鑑賞に絶え兼ねて肖像画の顔もすっかりと歪んでしまうものだろう。
「報酬だ、これからもヒーローとかいう綺麗ごとに充ちたごっこ遊びを続けるがいい」
指先足先から脳の髄まで、そこからひねり出される言葉の先まで何もかもが陰気に満ち溢れていた。
そんな彼の所へと更なる訪問者が呼び鈴を一度だけ鳴らす。
「一回なら魔法の勝手を知らない者、俺が呼んだ者が来た」
そう言ってドアを開く。出迎えた人物からラーメンを手渡され、依然頼んだものと思しき空の器を代わりに手渡す。この男の食事は毎日ラーメン。それも毎日出前を取っているという有り様だった。
男は戻って来てラーメンをすすりながら言葉と共に飲み込みドアの方を指す。
「ああ、用済みなのな、依頼の紙だけもらっていなくなることとするよ」
ランスは自身の陽気が穢れに侵されてしまわない内に紙を幾つか勝手に手に取りドアの向こうへと姿を消す。
陰気な男の空間に残されたものは陰の塊、純粋を極めた澱み、穢れの純度十割、汚れしかなければ綺麗にも見えるかも知れないモノ。そんなモノのみだった。
ランスは歩き続ける。女の歩き方に見えないように意識を重ねて、慣れた心の割合を保ちつつ、札束を財布に仕舞いながら歩き続ける。
「学校の中で達成出来るものが二件と外が一件、それで私の中では一区切りか」
ランスが向かう場所はそうした穢れ溢れる場所が主体で、陽気を撒くことで平和を呼び寄せていた。太極図の陰と陽、まさにそれが示す通りの色を持つシスとランス。女の陰は心の模様、男の陽は身体の活発さ、とでも勝手に定義付けるランスとシスの姿はこの上なく愚かな有り様をしていた。
そんなランスがこれから向かう場所、其処もまた依頼が関係している場所、それもこれまでの怪異的なものではなくもっと神聖なる存在なのだという。
「片翼の天使、私がそれを相手にする日が来るのだな」
ランスの中では何処か親近感が湧いて来る存在だった。翼を片方失って地に降りたものか、地に降りるために片方を手放したものか、どちらにしても女でありながらその性を捨て去ろうとしているランスにとっては似た境遇を感じさせた。
「私の入店だ」
外ではそう言いつつも店の中、一種の境界線の向こうでは静かに店員の言葉に従いつつ案内を受ける。特殊な存在の揺らぎはランスの気配に気が付いたのだろうか、薄っすらとした光の影は後をつけながら他者には見えない輝きを放ち続けている。
席に座り、向かい合う。
「注文が決まりましたら呼び出しボタンを押してください」
それだけ告げて女性店員は綺麗な一礼を見せてすぐさま振り返り立ち去る。彼女の表情はほんのりと赤く、甘みが射し込んでいて熟れていた。
「惚れたな、私は罪な男か」
あの様子だとランスが女であることを見抜いていないだろう。
厨房の向こう側で黄色い歓声と分かる人物には分かるらしい男装女子であるという事と男よりもカッコいいとはしゃいでいること。女性店員の感情が暴れているというものの、客席には一切伝わらず、当然ランスも知らないまま。
ランスは早速この場所へと来た目的を揺らぎに伝える。
「片翼、あなたが何をしているかは分からない、何をしたという」
考えもしないまま訊ねて、ランスは答えを相手の口から手繰り寄せようとする。言葉のカタチにそれが現れていた。
揺らぎは空気に揺られてただそのまま答えることを放棄し続けるのみ。
「だんまりか、暖間 莉香」
特に意味もない、ただただ黙ってランスとも口をきいてくれないがために勝手に暖間 莉香と名付けられていた。
ランスはボタンを押して店員が訪れるのを待つ。飛んできたのだろうか、そう言いたくなるような速度で駆けつけてきたのは先ほどの女性店員だった。
「ごちゅっ、ちゅっちゅっ……ご注文をお伺いします」
どもっている。そんな姿が可愛らしくてついつい微かな笑い声を零してしまう。それに続けるような形で唐揚げを頼み笑顔を添えて以上と告げた。
そこから再び向かい合い、対話を試みる。
「さて、黙りこくりの暖間 莉香ちゃん、あなたは何を思ってここにいるのだろうか。聞かせてはいただけないか」
暖間は口を開かない。そもそも存在そのものが薄い光の塊、そこに身体というものそのものがあるのかどうか、思考の余地が残されていた。会話が可能かどうか、そこから試行しなければならないものなのかとランスは大きなため息を一度つく。ファミレスという場にはあまりにも不釣り合いな異物は今はランスの目にしか映されていないのだろうか。
「暖間、お答えいただけないのなら、終わりにしようか、あなたの運命を、その命運を」
テーブルに備え付けられた小さな棚からフォークを取り出したランスを目にして、ランスの目に冗談の欠片も残されていない様を確かめて、薄っすらとした光は程よい影を纏って人の皮という衣服に衣と呼ばれし常識を重ね着して、光は男であることを告げた。
「あははは、ああ、ひっどいなあ。朕を祓おうだなんて。偉大なる天使さまだぜ」
「偉大なら人さまに迷惑かけるな」
目にした天使はランスをも嫉妬させるほどに尖り切った美貌の持ち主。此の世で最も影が似合う、薄暗いセカイで鋭い輝きを見せつける様に魅せられる人物はあまりにも多いだろう。まさに年頃の中高生男子の憧れを買うに相応しい格だった。
「それとも偉大だからなのか。何様の特権だ」
「迷惑なんざ言われてもだな、そうでもしないとお前を迎えになど行けないだろ」
知り合いとしての覚えはない、そこに居るのは此処に在るのは初めて目にかかる人物。化ける、光る、音が鳴る。そんな知り合いランスは知らなかった。
「なあ、たかだか魔法使いひとりで創り上げたこんなちゃちな世界線にいたなんてな、探すのに苦労したぜ、シス」
本名を知っている、その時点でただの光る玩具でないことは確定していた。しかしながら個人情報をも抜き取る高性能な玩具という可能性が残されていた。玩具のような価値観でしか見つめることの出来ない人物。ランスの耳を駆け巡るように愉快に騒ぎ立てる落ち着いた声。
人類にとって支離滅裂をもたらすのは認識の不具合だろうか。
「考えは、だいたい、分かるぜ、我ら、天使のことは、その存在も、行動も、正しく、認識できることの、はずなのに、正しく認識できない。存在の格が、違うからな」
途切れる言葉、人々の思い浮かべるノイズやグリッジがあるわけでもないはずが、揺らぎなど見当たらないはずが、どこか歪みを感じられる。認識が言葉の音の流れに後れを取っていたのだろうか。簡単な言葉にさえついて来ることが出来なかったのだろうか。
天使は表情を変えないまま話し続ける。
「朕はお前を買っている。天使として帰って来る気はないか? 地上人から異世界風聞録と呼ばれた世界線では天使の領土を広げようと、あの世界を滅ぼそうと動いていたじゃないか」
「分からない、何を言っている」
世界線、異世界、ランスの考え得るこの世界の出来事の範囲をも飛び越えた話、どこか馬鹿馬鹿しく思える玩具の如き存在。頭は必要以上にかき乱されていた。
「分からねえのか、この全宇宙には数々の異界ってのがあんだー、朕より頭良くなかったか? 頭腐らせたのか」
「私はランス、シスは今は亡き者だ」
「手に負えないバカだな、シス」
このやり取りはいつまで続いて行くのだろう。果てが見えない、そんな気がしていた。
「このクソアマ、朕と結婚しろやお前に女ってものを再教育してやる。天使の時から思ってたんだよナイスバディ晒せやエロ女」
「お待たせしました、唐揚げでございます」
「あっ、はい」
突然現れた店員に頭を下げる姿、この天使というものはそれ程までに腰が低いのだろうか。身内相手限定の尊大さなのだろうか。
ランスの中で完全に決着がついていた。やはりこの男は玩具程度の価値として見るに相応しき人物だった。
店員は男を睨み付けて初夏の熱をも凍え震わせてしまいそうな声を刺し込む。
「私の好きな人馬鹿にしたら許しません、あなたには相応しくありません、特に体のこと言うような人にはお仕置きが必要ですね」
場というものを弁えないのだろうか。此処に限って見つめてみればという話、ランスの目には自身が最も常識人に映って仕方がなかった。それと同時に男装していることを知ってしまっているふたりと共に過ごす時間への苦痛も湧いていた。
一方で言い争う側、朕の天使は店員の首をつかみ、その目を血走らせながら首をつかまれている側以上に顔を歪めていた。
この姿が周囲からどのように見えているのだろうか、ゲストにお越しいただくとしよう。
それはある男子高校生の恋の道の中での出来事だった。隣に立つ女はほっそりとしていて背は男子高校生、幹人よりも高くて大人の雰囲気を漂わせた顔は見ているだけでも気分を高揚させる。幹人よりも幾分か濃い茶色をした髪が年上を思わせる。
「今日は私の友だちの日菜に会いに行こう、幹人の可愛さを知らしめるのさ」
「カッコよさを知らしめて欲しいよ」
リリの細い脚は進むことをやめ、茶色の瞳は澄み切った潤いの中に幹人の顔を映し出す。そうして見つめ合う事数秒間、その時間の中で幹人の心の中に淡い感情の花を咲かせて薄桃色の想いを飾り付けるリリは熟れた心の色を実らせて身体の節々にまで蔓延る熱を滾らせていた。
「ムリ、カワイイこそイチバンで幹人こそイチバンだから」
「リリ……」
時の歩みは止まらない、進み続ける針は止まるという事を知らない、分かろうとすらしない。
歩みはただただ進められ、やがて彼女の中にぶら下がる感情も氷のように冷えては澄んで、初夏の涼しさすら暑く感じさせる大人の表情へと変わり果てる。
ファミレスへと足を運び、幹人は意外なと心の中で発していた。幹人にとってリリと言えば親の営むカフェで働く魔女のように不思議な女性。そんな彼女の友人もまたいわゆる普通という枠には収まり切れないという想像を勝手に働かせていたものの、実際のところは社会の中でもありきたりと呼ぶに相応しいそこら一帯にありふれた場所で働いているのだという。
「ふふっ、驚いた? あの子はファミレスで働いてるのさ。で、家の中でしか見せようとしない一面もあって」
どのようなものなのだろうか。幹人の中で妙な想像が膨らんでいた。日頃から包丁を手入れしながら恍惚とした表情に艶めかしい舌なめずりでも添えているものだろうか。それとも元クラスメイトの後を尾行して自身の愛を家の壁一面に貼り付けでもしているのだろうか。
「男の恰好をした女子が大好き過ぎるそう。私も一回させられたっけなぁ」
「リリの男装……いいね」
背丈や顔に似合わず想像力がたくましいことこの上なかった。そんな幹人の心情にかかわらず、そんな幹人の耳に情報を叩き込む。音という形で伝えてみせる。
「普段は隠しているけども見かけたら抑えきれないかもねえ」
経験者の言葉は違った。見てきた場面の数がそうした映像を滞りなく焼き付けて来るもので、ありありとありもしない現実的な想像を映し出しては記憶というフィルムにくっきりと現像する。
「それはそれとして、さあ入ろうか」
ファミレスの中は外からでも窺うことが出来た。しかしながらそこからあの出来事は覗けないようで、ふたり揃ってワクワク、などと唱えながらアスファルトの道を進んでみせては日菜の反応を想像し続ける。
リリは細い指をドアの取っ手に絡めて引いて、中へと入る。風をも切る姿、威風堂々という言葉が似合う彼女の姿は幹人の目を惹いた。黒いチノパンは細い脚を素直に覆い、上から飾り付けるように履いた薄いスカートは見事に揺れる。灰色がかった水色の服はゆったりとしていながらも広がりは抑えめで細い身体と白い肌の片方などと言わずどちらにもほどよく馴染んでいて。
リリという存在そのものが景色に馴染んで見えた、気を抜けば見失ってしまいそうに思えた。
そんなリリはと言えば店員の案内を受け、導かれるままに開いた席へと向かう。やがてたどり着いた席に腰かけ、低くて落ち着いた声に艶をかけて隣にいると思しきあの店員に声を掛けようと口を開いた。
「日菜、私のカレ連れ……」
当然のように言葉は止められた。その目に映る姿は間違いが無ければまさに危機。
大切な友だちが首を絞められているという光景。冷静でいられるはずもなく、直ちに救いの向かおうと席を立とうとするものの、それは叶わなかった。足首や太ももをつかむ無数の手、ろっ骨を抱き締めその場に留まらせる長くて細い腕。それぞれが揃いも揃ってやつれ切っているはず。そのはずがどれだけ抵抗を試みたところで全くもって緩む気配すら見せない。
向かい合って座る幹人の方に目を向けて同じ状況なのだと悟り、不安を瞳いっぱいに広がらせ、潤いを暗い色に染め上げてただ見ていることしか出来ないでいた。
ランスの視点、それは最早敵と店員にしか向けられていない。
「そうか、そう来るのか」
天使は目を濁らせてランスに対して穢れ切った目を向ける。店員は声もなく、意識も擦り切れ寸前の力ない目の微かな動きだけで助けを乞う。
「安心しろ、私はあなたの味方だ」
言葉の端がこの世界に出てこない内に天使の腕には白銀のナイフが刺さっていた。この世のモノとは思えない汚らわしくひび割れた叫びを上げながら天使はランスを睨みつける。
「やりやがったな、神聖なる身体に傷を付けるなど」
「神聖なる魂ならばこの世界に立つ人々。それを奪い去ろうとする偽りの神聖など、真正の神聖の前に跪け」
手から力は抜け落ちて、遅れて店員が力なく地に膝をつく。意識は朦朧としていて今にも闇に閉ざされてしまいそう。そんな彼女の肩に手を差し伸べ支える男女に感謝の笑みを捧げ、フォークを右手に、皿に飾り付けられた唐揚げの隅に添えられた黄色の塊を左手に持ち、ランスは勢いよく腕を伸ばす。左の腕を天使の口へとねじ込むように突き出していた。
「青春の爽快感、レモンとキッス」
そのひと言を受け、右手に握られたフォークの一撃が迫って来る様を目に捉えて天使は咳き込みながら慌てて姿を消した。
「そうか、逃げたな臆病者め」
きっといつか再び立ち向かう日が来るだろう。そんな想いをふたつに折って閉じた後、ふたりが必死に店員の身体を揺らして無事を確認している様を認めてスタッフが在中する裏側の部屋に備え付けられている電話を手に取り救急車を呼んだ。
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