第2話


「好きです。私、陽介先輩が好きです」

「いや、困ったな……」


 上目遣いに見ると陽介先輩は頬を掻いていた。きっと、私が傷つかないように優しい断り文句を考えているに違いない。だから好きなのだ、と胸が疼いた。彼が私の告白を断るよりも先に、私は口を開く。


「二人でゆっくり話しませんか? うち、今日、お父さんもお母さんも仕事で遅くて……」


 先輩の、私よりも大きな手に自分の手を絡めた。彼は一瞬強張ったけれど、首を傾げて「それ、本当?」と私に尋ねて来たときにはもうすっかり緩んでいた。頷くと、陽介先輩は「それじゃ、少し、お邪魔しようかな……」なんて囁いていた。勝った、と思った。陽介先輩を家に招き入れて、咲先輩がさせてあげないカップルらしい事をする。私の部屋のベッドの中で、陽介先輩が私を抱きしめて頭を撫でてくれる。それが暖かくて、勇気を出して良かったと心底思った。


「意外だった。結月ちゃんは真面目だと思っていたから。まさかこんなに積極的なんて」


 その低い声に甘さが混じる。私だって知らなかった自分の一面を、先輩がいともたやすく引っ張り出してくれた。


「ちゃんと責任は取るから。でも、コンクールが終わるまではあまりもめ事は起こしたくなくて……分かってくれる?」


 歯切れの悪い言葉に頷く。先輩はコンクールが終わったら咲先輩とは別れると約束してくれた。小指同士を絡めることはしない。陽介先輩はきっと約束を破らない。だって、こんなに優しいんだもの。私よりもちょっと高い体温に包まれていると、今まで感じたことのない感情が芽生え始める。


 私は勝ったんだ。

 あの完璧な咲先輩に。

 正論ばっかりでつまらない知里に。


 放課後の練習は約2時間ほど。ストレッチと筋トレ、各パート練習をしている内にあっという間に過ぎてしまう。顧問の先生が時計を見て手を叩いた。まだ途中なのに、とみんな顔を見合わせる。全体練習の時間もなくなり、咲先輩は焦るように唇を噛む。


「部長、ちょっと仕事頼まれてくれない」


 みんながもやもやを抱えながら帰る準備をしていたとき、顧問の先生は紙の束を机に置く。


「これ、コンクールで配布するパンフレット。うちの学校が当番なんだけど、一人じゃ終わんなくて」

「……分かりました。副部長と一緒にやっておきます」


 こんな雑用に駆り出される陽介先輩、かわいそう。そう思った瞬間、私の手が高らかに天井に向かって上がっていった。


「あの、私たちも手伝います!」


 自分の手を見上げる。知里が私の手首を掴んで腕をあげていた。どうしてこんな勝手な真似をするのと怒りたくても、みんなの手前、声を荒げることも出来ない。陽介先輩を見ると、どこか困惑するような表情で私たちを見つめていた。


「ありがとう、助かるよ。4人でやればすぐに終わるね」


 気まずい思いをしている私と陽介先輩の表情がわずかに歪むことにも気づかず、咲先輩は柔らかく微笑んだ。

 部室に机を並べて、先生が印刷してきたパンフレットのコピーを並べる。咲先輩と知里がそれを一部ずつまとめて、私と陽介先輩でホチキス留めをする。部室の中は嫌に静かで、紙の擦れる音とホチキスの音だけが不規則に響く。その静けさに耐えきれなくなったのか、それとも私たちの秘密を知っているという良心の呵責に苛まれたのかは分からないけれど、知里が急にこんなことを言い始めた。


「咲先輩。もし、陽介先輩が浮気していたら、どうしますか?」


 私は顔をあげてギョッと知里を見つめる。隣に立つ陽介先輩も驚きの余り体を揺らす。知里を見つめると、彼女の唇はわずかに震えていることに気づいた。


「えー、何それぇ」


 本当に浮気されているなんて露ほどにも思わない咲先輩は語尾を伸ばして笑っている。


「た、例えばですよ、例え話」

「うーん」


 咲先輩はわずかに手を止めて考える。


「その時はもう別れるよ。当たり前じゃん。でも、陽介は絶対にそんな事しないよ。だって優しいもん。ね?」


 陽介先輩は深く頷く。私は咲先輩を見た。自信たっぷりと言わんばかりに笑い、その頬にはえくぼも浮かんでいる。その笑顔を見ていると無性に腹が立ってきた。陽介先輩が自分自身に対して不満を抱いているなんて知らないに違いない。陽介先輩は咲先輩に返事をするように頷くけれど、落ち着きない様子で視線をキョロキョロと動かしている。私は喉を鳴らし口を開く。


「……もし、その浮気相手が私だったどうしますか?」

「え~? ないない、絶対ない。だって結月ちゃん真面目だし、絶対そんな変な真似するはずないって」


 何も知らないくせに。唇を強く噛む。私の本当の姿なんて知らないくせに、何を偉そうに話しているのだろう、この人は。私が真面目なんて、うわべしか見ていない証拠だ。私の本当の姿を知っているのは陽介先輩しかいない。私は陽介先輩を見上げる。ポケットからハンカチを取り出して額に滲む汗を、咲先輩にバレないようにこっそりと拭いていた。


「あ、ここのページなくなっちゃった。私、コピーしてくるね」

「私も行きます!」


 知里と咲先輩が部室を離れていく。足音が完全に聞こえなくなった時、私はホチキスを机に置いた。


「ずいぶん咲先輩に信頼されているんですね」


 陽介先輩を見上げるけれど、彼は視線を明後日の方向に向けていて、私とは目が合わない。「えーと」とか「いや、その」とか、歯切れの悪い言葉を繰り返している。

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