第11話 フクシアが踊るように

 迎えた本番当日。緊張のせいか、アラームよりも十五分も早く目覚めてしまった。昨日よりも気温がぐっと冷え込んだ朝。シャツの上に白のパーカーを着て、その上に学ランを羽織る。台本が入っていることを確認し、バッグを背負い僕は部屋を出た。

 一階からは卵焼きの良い匂いがしている。

「おはよう」

「おはよう、勇希。朝ごはんもうすぐできるから。あと、お弁当の準備できてるからね」

「わかった」

洗濯物をカゴに入れ、洗面所で手早く歯磨きと身支度を済ます。鏡に映る僕はやる気に満ちた顔をしていた。

 「勇希、今日観に行くからね」

「え! ほんとに来るの?」

「お父さんは仕事だから行けないみたいだけどね。お母さんは仕事休みだから行けるのよ」

母は父の弁当箱に料理を詰め終え、冷まし始めた。

「そうなんだ」

「どんな格好で行こうかしら」

「別にどんな格好でもいいよ」

「じゃあ、勇希の普段着みたいな、毛玉が目立つ服でも着て行こうかな」

「いや、それは困るから! 周りの目を感がてよ!」

僕がそう言うと、母は僕の弁当箱に蓋をしながら笑い始めた。

「そんなに焦らなくても大丈夫よ。卸したての服を着て行こうと思ってるんだから。それに、千夏ちゃんのご家族と久しぶりに会う約束もしてるからね」

「あー、また騙された」

いじける僕を横目に、母は上機嫌な様子で、味噌汁が注がれたお椀と、茶碗いっぱいのご飯が盛られた茶碗を運んできた。

「朝ごはん、早く食べちゃいなさいよ。陽馬くんと練習する約束してるんでしょ?」

「うん、二人でできる最後の練習になるだろうから」

「あ、これ、卵焼きね。お弁当にも入れてるから」

「ありがとう。いただきます」

付けられているテレビから昨日起きた事件のニュースが流れる。しかし、今は関心を持って耳を傾ける余地はない。

「お母さん、来るのはいいけど、目立たないようなところに居てよね」

「なんでよ」

「恥ずかしいからに決まってるだろ」

「空いてる席に座るんだから、どこで見るかなんてわからないわよ」

陽馬との演技を観られるのは、恥ずかしい。特に最後のシーンなんて。

「それは知ってるけど、できるだけ、お願いだから」

「無理に探さないようにすればいいの。ちゃんと劇に、役に集中したら、お母さんがどこに居るかなんて、わからないと思いますよ」

変な声を出し、弄ってくる母。

「もういいよ。わかった」

「あら、わかったんならいいけど」

外で吠える犬。隣の家の飼い犬の鳴き声だった。

 朝食を食べ終え、置いていたバッグに、母手作りの弁当を入れて背負う。教科書が入っていない分、軽いバッグ。背負っているという実感がない。

「じゃあ、行ってきます」

「はーい。気を付けてね」

 外気温は家の中よりも圧倒的に寒く、筋肉が縮こまる。カラスはノコノコと道路を横切る。

「おはよう、勇希」

「おはよう、陽馬」

「今日もセリフ言いながら行こうぜ」

「うん。いつも通りね」

 学校に着くまでの約ニ十分間、セリフを言いながら歩き続けた。信号で止まるとき以外は。練習は学校に着いてからも続く。八時からは演じる側の生徒だけで、最後の練習をした。どの生徒も完璧に仕上げてきている。

「演じる側だけの練習も、これが最後。今日まで、みんなありがとう」

千夏が感謝を伝える。

「みんな、今日まで楽しかったよ」

千夏に続き、女子生徒が声を掛ける。そのせいで、一人ひとりが感謝を伝える流れが生まれてしまった。

「拙い主役でごめん。迷惑かけてばっかりだったけど、支えてくれてありがとう」

陽馬が挨拶をし、最後、ついに僕の番が来た。

「今日までありがとう。文化祭が一番いい舞台になるように、頑張ろうな」

予鈴が鳴った。空き教室のドアを閉める。教室は、また寂れた空間へと戻っていく。

 チャイムがいつもより大きめの音で、教室中に鳴り響く。久保先生はいつもと同じスーツスタイルで現れた。初お目見えのネクタイは薔薇柄。生徒よりも気合が入っているように見える。

「おはよう。いよいよ、文化祭当日となったな。午前中は作品の展示をしっかり見学すること。それと昨日渡したシートへの記載も忘れるなよ。午後からは、自分たちの発表が終わるまで緊張するだろうが、ほかのクラスの発表も集中して観るように」

「はい」

「お昼休みは、いつもの時間とは異なっているからな、注意するように。弁当忘れてきた者がいるなら、先生に直接言いに来るように。今日はスマホの使用が許可されているが、何回も行っている通り、写真機能だけ使用可能だからな。電話したいとか、そういう理由のときは、教師の指示を取ってから使うように。連絡事項は以上だが、何か質問あるか?」

「ありません」

「よし。じゃあ、昼休みまで自由行動を取るように。以上。解散」

 生徒たちはシートと筆記用具を各自持ち出し、作品展示がされている教室へと移動していく。

「陽馬、どこ行く?」

「今行ったら人多いよな」

「そうだね。あ、でも、写真撮ることが許可されてるから作品の写真撮って、それを見ながら教室でシートに書くってこともできるよ」

「じゃあ、そうするか」

「スマホ使用許可を、賢く使わないとね」

 学ランのポケットにスマホを忍ばせ、教室から一番遠い場所にある美術室へと遠い階段を上って向かう。

「勇希、最後にもう一回だけ、練習しないか?」

「いいよ。不安だもんね」

「そうなんだよ。いざ、本番って言われると心臓が飛び出しそうでさ」

「陽馬、抱きついてもいいよ?」

「じゃあ、抱き付く」

周りには少ないものの生徒がいる。そんな中で、僕らは戯れるように抱き合った。

「少しは落ち着いた」

「本番前も、緊張したら抱きついてもらってもいいからね」

「サンキュ」

 美術室と、近くの廊下は生徒で溢れていた。午前十一時からは保護者の立ち入りが許可されている。混雑することを見越した生徒が多くいるのだろう。さらに見た作品の感想などを、その場で渡されたシートに記載する生徒もいて、廊下がより狭く感じる。

「写真撮るね」

「あとで俺にも見せてくれ。スマホ取り出すの面倒だから」

「いいよ。陽馬はどの作品撮って欲しい?」

「まずは、勇希の作品。あとは、勇希が気に入ったやつ」

「わかった。僕は陽馬の作品をまず撮って、あとは数枚適当に選ぶね」

「よろしく」

 廊下に貼り出された生徒の作品。何を描いているのか、正直よくわからないものもある中で、比較的感想が書きやすそうなものを選び、写真を撮っていく。

「陽馬のあった」

「こっちに勇希のもあるぜ」

最後に自分の分と陽馬の分の写真を撮り終え、スマホをポケットに入れた。

「よし、じゃあ教室帰って、感想パパッと書いて、練習しようか」

「だな。混み始めたし、さっさと戻ろうぜ」

 ぶつからないように階段を降り、閑散とした教室に戻ってきた僕ら。電気も消された教室は、時計の秒針の音だけが鳴り渡っている。

「写真、見せて」

「こんな感じなんだけど、いい?」

陽馬は僕が適当に選んで撮った写真を、一枚ずつ確かめていく。

「うん、いいな。これなら書けそうだ」

写真を見ていた陽馬は、突然指を止めた。

「あ、ちょっと待った」

「ん? どうしたの?」

「これ、タイトルが写ってない」

美術部員のとある作品が写されたもの。タイトルの部分が写っていなかった。

「あー、ほんとだ。ごめん、これ消すね」

「いいよ、消さなくて。あとで確認に行こうぜ」

「そうだね、そうしよう」

タイトルがわからない作品以外で、僕らはお互いの作品と、残り二点の作品について感想を書いた。しかし、三つ目の感想を書こうとする右手が動きを止めた。思い付くフレーズはどれも似たもの同士で、いい表現が見つからない。

「美しいって、綺麗以外の言い方って何があると思う?」

「例えば、麗しい、とか。あとは、大きいのに使えるのは、壮麗、とかだな」

「壮麗? どういう漢字書くかわかる?」

「別荘の荘に、綺麗の麗」

「へぇ、初めて知ったよ。陽馬って、漢字得意だよね」

「得意かどうかは別として、小学生の頃から本読むのが好きで、それで漢字を色々と覚えていったんだよ」

「読書好きっていうのが意外。僕、同じ本しか繰り返し読まないからなあ。駄目だよね、そういうのって」

「駄目なんて、誰が決めたんだよ。少なくとも、俺は飽き性だから同じ本なんて読めない。繰り返し同じ本を読めることは、凄いと思うけどな」

読書が嫌いな自分が嫌いだった。でも、陽馬の言葉を聞いて心が救われた気がした。

「ありがとう。じゃあ、これからも同じ本ばっかり読み続けるよ」

「勇希は面白いな」

教室に帰ってきた生徒は、セリフ確認作業をしたり、小道具のテープを補強したりと、自分のやりたいことを始め出した。僕と陽馬もそれを見習うように、椅子と顔を近づけ合い、小声でセリフを言う。本番まであと三時間弱。どこまで自分はロミオになりきれるのだろうか。


 昼休みの開始を告げるチャイムが教室だけでなく、廊下からも響いてくる。今日は給食の提供がないため、持参した弁当を好きな仲間と、好きな場所で食べられる。僕はもちろん陽馬と食べる。

「今日のお弁当は?」

「勇希ママが作ってくれたおかずを、ただ保存容器に詰め合わせただけのやつ」

そう言って、陽馬は保存容器の蓋を取り、僕に中身を見せてきた。

「お、成長してる」

「なんだよ、それ」

「春に遠足行ったときなんて、お弁当持って来てなかったじゃん。結局、僕があげたおかず全部食べてたけど」

「それはそれ。今は勇希ママがほぼ毎日美味しい料理を作り置きとしてくれるから、こうして持って来れるんだよ」

「次は、お弁当箱に詰めることを目標にしたら?」

母が詰めた弁当箱の蓋を取る。

「俺、弁当箱なんて持ってないぜ?」

「じゃあ、今度一緒に買いに行こうよ。あった方が便利だから」

「勇希が選んでくれるなら、一緒に行く」

「そうこないとね。いただきます!」

「いただきます!」

母の手作り料理を、今日は学校で陽馬と一緒に食べる。どちらの弁当箱にも唐揚げと卵焼きが入っていて、母の愛情を感じる。いつもとは違うムードに包まれた昼休みの教室。窓から空を眺める。一羽の鳥が大きな羽を広げて飛んでいった。


 「先生から伝えたいことがある」

生徒は静かに久保先生を見つめる。

「今日まで、よく頑張ったな。その頑張った成果を、ステージの上で十分に発揮してこい。俺はここから見守ることしかできないが、自分を信じて、仲間を信じて、最高の『僕らのロミジュリ』を演じろ!」

久保先生の熱気で心に灯がついた生徒たちは雄叫びを上げた。ボルテージは最高潮になる。演じる生徒は制服の上から作られた衣装に着替え、背景などの小道具を支える生徒は黒子の格好をする。

「みんな、一番のロミジュリを届けるぞ!」

神父の格好に着替えた千夏も声を発する。黒子になった成瀬は「かますぞ!」と声をあげた。本番が迫る中、陽馬が僕に抱き付くことはなかった。それは嬉しくもあり、悲しくもあった。

 アナウンスが流れる。静まり返った体育館。僕らは幕が下りているステージへ足を踏み入れた。

「お待たせしました。次は、二年二組による劇の発表です。『僕らのロミジュリ』」

幕が上がる。BGMが流れ、生徒がセリフをしゃべる。ついに始まった。

 順調に進み、トラブルもないまま、最後のシーンを迎えようとしている。僕と陽馬は服を着替え、順番を待つ。

「よし、今」

片づけを待つ黒子姿の成瀬が声で合図を出す。照明が当たるステージに出る。道具は重りによって支えられ、黒子の生徒もいない。もうここは、僕と陽馬だけの空間。

 段ボールに布を張っただけのベッドに仰向けで寝ているジュリエット。目を閉じたその姿は、まるで宝石のように煌めく。ロミオはジュリエットが息をしていないことを知り、そして毒と言う名のグレープジュースを飲み、ゆっくりと、死んでいくように、ジュリエットの横に倒れる。ロミオとしての最後の仕事をやり終えた。しばらくして、仮死状態のジュリエットが目を覚まし、ロミオが息をしていないことを知り、そっと頬にキスをした。そして、ロミオが持っていた刀を自分に刺し、寄り添うように横に倒れる。この瞬間を陽馬自身はどのように感じていたのだろうか。僕の口から聞けることじゃないけれど。

 最後に神父役の千夏がセリフを言い終わり、舞台は無事に幕を閉じた。体育館からは割れんばかりの拍手が響き渡った。舞台に出ているとき一度も母の存在が気になることはなかった。母の言っていたように、劇に、役に集中していた証拠だ。


  帰りの連絡事項の伝達も終わり、僕ら以外の生徒は足早に帰って行った。窓からはオレンジ色に輝く太陽が教室中に光を届ける。

「無事に終わってよかったな」

陽馬はそっと肩を撫でおろす。

「陽馬、あのことだけど」

「キスのことだろ?」

「本番中、凄くドキドキしたけど、嬉しかったよ」

「俺だって、内心ドキドキだった。人が見てる前でキスだったからな」

陽馬と付き合ってから初めてのキス。恋人というだけで、こんなに違うものなのか。

「付き合う前に一度だけしてもらったことあったけど、そのときは、感情が全く違うものだった」

「俺も。あのときは急に、しかも何も言わずにしたけど、今回は台本通りだからな。身構えもできただろ?」

「うん。朝、本気でいくって言ったでしょ? でも、最初から陽馬は嘘のキスなんてしないと思ってたよ」

「見抜かれてたってことか。まあ、それもいいよな」

「うん、いいよ。だって、どんな形でも思い出に残るから」

「そうだな」

陽馬とのキスも、悪くないと思った。いつか、もっと人前で堂々とできる日が来るといいのに。

 「あ、そういや、美術の作品のタイトル、確かめてなかったよな」

「ほんとだ。すっかり忘れてたよ」

「今から行くか」

「いいね、行こ行こ」

 朝よりも軽いカバンを背負い教室を出る。照らされた廊下。小さな埃が風に舞う。

「キス、本当にしてたって、バレてんのかな」

「いや、千夏に『キスシーン、どうだった?』って聞いたら、『見せ方が上手いね」って返してきた。あと、周りが話してるのを聞く限りは、バレてなさそうだったよ」

「セーフ。これでバレてたら中学時代だけじゃなくて、一生のネタにされて弄られることになりそうだからな。心配してたんだよ」

「そうだよね。卒業式とか、あとは同窓会とかで集まったときとかね」

「それもそうだけど、一番に心配したのは勇希のこと。勇希が弄られるの、俺絶対に耐えられないから」

「僕も。陽馬が弄られるのは見てられないよ」

 音楽室と美術室に繋がる長い廊下を歩く。奥にある音楽室。一年生が発表で使った楽器の運搬をしている様子が目に入る。

「演奏するのも大変だな」

「楽しいかもだけど、劇みたいに団結はできなかっただろうね」

「だな」

男子の掛け声で、重たそうな楽器が運ばれていった。

 誰一人いない、そして電気も消されている美術室。鍵はかかっておらず息を潜めて忍び込む。見学ができる状態のままの美術室。雲の隙間から差し込む陽の光は、写真には収まらない作品のよさを引き出している。

「あ、これだ」

タイトルがわからなかった作品。美術部の三年生が制作した、立体的な花の紙細工。

「フクシアが踊るように、だってよ」

「可愛い」

「ね、フォルムが可愛いよね」

「この作品よりは、勇希のほうが何倍も可愛い」

「もう一度、ロミオとジュリエットになる?」

「次はロミオとジュリエットじゃなくて、勇希と俺のままでいいや」

窓からの隙間風に揺られる紙細工。フクシアの花が踊るように、僕らの慎ましい愛も踊り始める。

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